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38.とある侍女は祈り続ける

「大丈夫ですよ、お嬢様。もうすぐ、旦那様がお呼びくださった魔法師団の方がお越しになるそうですから。あと少し…あと少しです」



エルドレッドが公爵夫妻にフェリシエンヌの状態を説明してくると席を立った部屋の中。小さく呻き声を漏らすフェリシエンヌを励ます侍女――マーサの言い聞かせるようなゆっくりした声だけが響いていた。苦しげにその形の良い眉を寄せ、言葉にならない小さな声を薄い唇の隙間から吐き出し続けるフェリシエンヌの手を両手で包み込み、マーサは必死に己の主人を励まし続けた。額に乗せてある濡れタオルがぬるくなればすぐさま取り換え、その細い首を流れる汗を拭う。それが終わればまたフェリシエンヌの手を優しく握りしめて声をかけ続ける。意識のないフェリシエンヌ相手に彼女の行為は無駄なのかもしれない。それでも、マーサの中にはそれをやめるという選択肢はなかった。ただただ、己の主人の無事を願い、神に祈る。その姿のなんと健気なことか!

マーサがその献身的な看病を始めて、どれだけの時間が経ったのか。何度目かのタオル交換の際、汗でフェリシエンヌの口元に張り付いた銀糸の髪を払った時に、彼女の手が()()に当たった。チリチリとか細い、軽い金属の擦れるような小さな音に目を向ければそこにあるのは黒い耳飾り。いつの間にかフェリシエンヌの耳元を華やかに飾っていたそれは、おそらく相当な値の張るものなのだろう。雫型の黒い石らしきものの周りを彩る金の装飾。繊細で美しいそれは見る者を惹きつける。庶民の出でありながら、長年公爵家に仕えていて目が肥えているマーサですら、一目見ればため息を吐きたくなるほどである。だが同時に、マーサはそれを「良くないもの」とも認識していた。美しいとは思うが、近づきたいとは思わないし、自分の大切な人にも近づいてほしくない。そんな漠然とした感覚。

―――これはお嬢様にふさわしくない。お嬢様にはもっと他のもが似合うはず。

初めてそれがフェリシエンヌの耳元にあるのを見た時から思っていること。どうしてなのかは分からない。しかしマーサの目には、その耳飾りは美しく、そして汚らわしいもののように映って仕方がないのだ。



「本当に…なんで外れないのかしら、これ」



いっそ禍々しくさえ感じる耳飾りを睨めつけながらマーサは息を吐き出す。フェリシエンヌの無事を神に祈ること以外に何もできないこの状況がなんとも歯がゆい。己のなんと無力なことか、と嘆いてみても事態の一つも好転しない。舌打ちをしてしまいそうな荒れた心を必死に鎮め、青白い肌のフェリシエンヌに目を落とす。



「大丈夫です、お嬢様。恐ろしいものなど何もございません。今度こそ…今度こそこのマーサがお嬢様を全力でお守りします。…ええ。お嬢様をお守りできるなら命だって惜しくはありません。それに、ブラッドもメアリーもいます。…悔しいですけれど、あの二人は私なんかよりもずっとずっと武に秀でております。お嬢様もよくご存じのはずです。心強いじゃありませんか」



何かに怯えるようにその美しい(かんばせ)を歪めるフェリシエンヌを安心させるように努めて明るく話しかけるマーサ。そんな彼女の心配りに、フェリシエンヌの表情が和らいだようにマーサには思えた。

不意に、コンコンと控えめなノックの音が響く。その音に顔を上げ、扉の方に一瞬目をやってから部屋にある、比較的新しい時計を見上げれば、まだ朝食の時間には程遠い。誰だろうか、と首を傾げながらもマーサはフェリシエンヌに断りを入れて席を立つ。警戒しながらも扉の前に立って返事をすれば、「ジャックリーンです」と聞きなれた同僚の声が聞こえた。その声にホッとしながらも警戒は解かず、薄く扉を開けて外を伺う。ここ最近のフェリシエンヌはあまりにも危険な目に遭いすぎである。その上、今は護衛のブラッドもメアリーも席を外している。一応、屋敷の中は安全なはずであるが、最近はそれも怪しい。用心に越したことはないのだ。いざとなればすぐに扉を閉めてしまおう。大きく分厚い扉だ。少しは時間稼ぎができるだろう。そんな考えから細く開いた隙間から様子を伺う。そこには当たり前のように一人、ピンと背筋の伸びた状態で立っているジャックリーンの姿。それに今度こそ安堵の息を漏らしてマーサは扉を開ける。



「おはようございます。どうなさいましたか?」

「おはようございます。早朝に申し訳ございませんが…シャロン坊ちゃんがフェリシエンヌお嬢様にお会いしたいそうでして、面会可能な時間があれば聞いてくるように、と」

「左様でございますか。申し訳ございませんが、只今ストッパード医師は席を外しております故、お戻りになられましたら私共の方で確認し、お伝えに伺わせていただけませんでしょうか?」

「かしこまりました。シャロン坊ちゃんにもそのようにお伝えいたします」



ジャックリーンにシャロンが託した言付けにいつも通り、丁寧に返し互いに頭を下げ合う。そうして事務的な会話をいくつか終え、一仕事を終える。どちらからともなく大きく息を吐き出し、仕事モードから少し肩の力を抜く。



「…フェリシエンヌお嬢様、そんなに悪いの?」

「……ええ、そうね…ずっと、苦しんでいらっしゃるわ」

「ねえ、マーサ。貴女、酷い顔してるわ。一度、鏡で見てきたら?」



自身がした質問に答えるマーサの顔を見て、ジャックリーンは思いっきり顔を顰める。それほどまでにマーサの顔は酷かったのだ。まだ、フェリシエンヌが倒れて一日と経っていないはずなのに、やつれ過ぎているのだ。まるで十年ほど老け込んでしまったようである。しかし、マーサはジャックリーンの言葉に緩く首を横に振った。



「お嬢様が苦しんでいらっしゃるのよ?お傍を離れる訳にはいかないわ」

「そんなこと言ったって…本当に酷いのよ?まるで亡霊だわ」

「なら貴女がどうにかしてよ、ジャックリーン。旦那様だって貴女の()を買っているじゃない」

「私にできるのは調合だけよ。何をどうすればいいのかなんて知らないわ」



じっとりと睨むようなマーサの言葉に、今度はジャックリーンが首を横に振る。それにマーサはその通りだと、わかっていたと言わんばかりに息を吐き出す。ジャックリーンはそんなマーサの瞳の中に、黒く澱んだドロリとしたものを見た気がした。彼女はそれをよく知っていた。彼女自身が体験してきたものだった。だからこそ、マーサをこのままにしておくことがどれだけ危険かを理解していた。



「とにかく、貴女は寝なさい。フェリシエンヌお嬢様が目覚められたとき、そんな顔でどうするつもり?」

「どうもしないわ。いつも通りにご挨拶して、朝のお支度を手伝うの」

「その顔で?馬鹿言わないで。そんなことしてみなさいよ。フェリシエンヌお嬢様はきっと自分の所為で貴女に無理をさせたとお心を痛めるに決まってるわ」

「……うまく誤魔化してこそ、侍女というものでしょう?」

「ええ、そうね。その通りよ。けど、私は貴女にそれができるとは思わないわ。悪いことは言わないから早く寝なさいって。その間は私がフェリシエンヌお嬢様を看てるから」



ジャックリーンの強い言葉にマーサは閉口した。思い当たる節でもあったのだろう。口をギュッと横一文字に結んだマーサは項垂れる。



「大丈夫よ、マーサ。フェリシエンヌお嬢様がそんじょそこらのご令嬢と違うのは貴女の方が知ってるでしょう?きっと神様だって味方してくれるわ」

「わかったわ。ブラッドが戻って来たら、一度寝かせてもらうわ。その間のことはお願いしても?」

「ええ、任せて頂戴」

「……その神様がお嬢様を連れて行ってしまいそうで怖いのだけれど…」



宥めるようなジャックリーンの声に、どこか浮かない顔をしながらもうなずく。マーサが頷きを見せたことが嬉しかったジャックリーンはマーサの最後の呟きを聞き逃していたことに気が付かなかった。

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