第62話 ドラゴン語
ルキアはドラゴンだ。
普段は美しくスタイルも良い少女の姿をしているが、鉄パイプをへし折る馬鹿力を備えているし、必要とあらば背中に翼を出現させ、自由自在に空を飛べる。口からは炎を吹き出せるし、鋭敏な嗅覚で証拠となるにおいを嗅ぎ取り、放火犯を特定することだって可能だ。
さらに真の姿に変身すれば、彼女が有する能力の強度はさらに跳ね上がる。それこそ複数体のドラゴンを単独で相手取り、瞬く間に制圧してしまうほどだ。
しかしながら、いつもは真の姿でいない。それにはもちろん理由がある。
智の家にドラゴンステイしている彼女は、もちろん松野家で過ごす時間が長い。ドラゴンの姿でいると体長は格段に伸びるので、長い尻尾や大きな翼が壁にぶつからないようにするのには、それなりに気を遣うのだ。
ドラゴンステイという制度が浸透したこの世の中、住宅にも時代のニーズに合わせた調整が施されるのが主流となっていた。無臭であり、人体には完全無害にも関わらず炎に当たっても燃えない不燃塗料や、ドラゴンの力でも簡単に傷を付けられない強化建材。そういった素材を用いた建築を『ドラゴン建築』といい、松野家もその建築法に倣っていた。
尻尾や翼がぶつかった程度では傷ひとつ付かない強度ではあるのだが、ルキアは基本的に家の中では人間の姿で過ごしていた。簡単に傷は付かないと分かっていても、やはり気を遣っているのだ。
だから、彼女がドラゴンの姿に変身するのは、基本的には臨戦態勢に入る時のみだった。
そして今、彼女は真の姿に変身していた。しかしながら、目の前に敵がいるわけではない。
澄み切った青空を背に、彼女は羽ばたきを繰り返し、少しのあいだ滞空し続けた。そして機を見計らい、松野家の庭へと降り立つ。着地と同時にその身が淡い光に包まれ、人間の姿へと戻った。
「どう、いい写真撮れた?」
庭でスマートフォンを眺める智に、ルキアは尋ねた。
ドラゴンの姿に変じて空を飛んでいたのは、智に頼まれたからだった。彼はドラゴン交通安全ポスターを描くにあたり、空を飛ぶドラゴンを横から撮影した写真を欲しがった。そこで、ルキアがモデルを引き受けたのだ。
なお、智は事前にネットを探してみたそうだが、おあつらえ向きな写真は見つからなかったらしい。
「んー、写真は綺麗に撮れたんだけどな……」
撮影した写真を眺めながら、智は難色を示していた。
一枚だけではなく、どうやら彼は複数枚撮っておいたようで、親指でスマホの画面をスワイプしてはじっと眺めている。しかしどうやら、納得がいかないらしい。
ルキアは、彼の隣に立って一緒にスマホの画面を見つめた。首元のチョーカーに付いた銀のプレートが揺れて、チリンと耳障りの良い音を鳴らした。
「へえ、変身した私って、横から見るとこんな……」
ルキアにとって、ドラゴンの姿でいる自分自身を客観的に見る機会はそう多くはない。
「うーん、これじゃやっぱダメだな……!」
ボリボリと頭を掻きむしりながら、煮詰まった声を出す智。
そんな彼を、ルキアは睨んだ。
「ちょっとあんた、モデルを頼んでおいて私じゃダメだってことなの?」
「へ!? いや、そうじゃないってば!」
大袈裟に手を振り、智は否定する。
彼はもう一度、スマホの画面に視線を落とした。
「俺が考えたアイデアさ、ドラゴンに騎乗してる人を横から描いて下のほうにでも『ドラゴンに乗る時は、常に安全に配慮しましょう』って注釈を付けようって感じだったんだよ。これだと乗ってる人がいないからさ……」
ルキアの姿を映したことで、空を飛んでいるドラゴンの資料は得られた。しかし、そこに騎乗する人がいないので不十分ということらしい。
たしかに、ドラゴンに乗る際の安全配慮を促すポスターにするならば、騎乗する人も一緒に描いたほうが説得力を持たせられるようにも思えた。ジャンケンに負けた結果、ドラゴン交通安全ポスターの役割も受け持つことになってしまった彼だが、それなりに考えているようだ。
「なるほどね……でも、どうするの?」
ルキアは尋ねた。
ここには彼女と智しかいないので、『騎乗する人』の役目を担う役がいない。智はルキアの背中に乗ることができるが、それでは肝心の写真を撮る人がいなくなってしまう。
では智がルキアの背中に乗った状態で空を飛び、智の母に頼んで写真を撮ってもらえばいいのでは? とルキアは思った。
ちょうどその時だった。
「それじゃあ、お母さんがモデルになろうか?」
両手でトレーを持ち、瑞希が庭へとやってきた。どうやら、さっきこぼしてしまったココアを再度用意してルキアのために持ってきたらしい。
◇ ◇ ◇
「え、母さんが?」
驚く俺をよそに、母さんはガーデンテーブルにトレーを置き、「ルキアちゃん、どうぞ」と促した。ルキアは「あっ、すみませんお母様! いただきます」とお礼を言ってチョコチップクッキーをつまみ始める。
不意の提案に、俺は内心驚いた。
「モデルって……母さん、ドラゴンに乗れるの?」
「当然よ智、お母さんだって騎乗免許は持ってるもの」
母さんがドラゴンに乗っているところなんて、俺は見た記憶がなかった。移動は車を使っているイメージしかなくて、そもそも騎乗免許を保有してるかどうかも分からず、それを尋ねようと思ったことすらない。
モデルを引き受けてくれるのは大助かりだが、大丈夫なのだろうか。慣れないことをやって、事故を起こしたりでもしたら……そう考えると、どうにも心配が拭えなかった。
しかしそんな俺をよそに、母さんはルキアのほうを向いた。
「そういうわけだから、ルキアちゃん……私が乗ってもいいかな?」
「えっ、それは……私は別に構いませんけど……!」
クッキーを食べるのを中断して、ルキアは懸念を表明するように応じた。
「心配しなくても大丈夫よ。智にも言ったけど、私だって騎乗免許は持っているから。それに……」
そこで、母さんは言葉を止めた。
それに……何なのだろうか? 母さんはルキアのほうを向いているので、俺からはその表情を見ることはできなかった。
「どうされましたか?」
ルキアが問うと、母さんは首を横に振った。
「ううん、何でもないの」
「そうですか、それでは……!」
母さんは答えをはぐらかしたが、ルキアはそれ以上詮索しようとはしなかった。
その身が光に包み込まれたと思った次の瞬間、ルキアは再びドラゴンの姿へと変じた。
「どうぞ、お母様」
その片手を出すようにして、ルキアは母さんが乗りやすいように気を払う。
母さんはそこに走り寄った。
思わず、『危ないよ!』と声を出しそうになった。というのも母さんはロングスカートだし、ドラゴンに乗ることだって慣れていないだろうから、ゆっくり上がらないと足を滑らせたりして大変だと思ったのだ。
しかし、そんな声を上げる暇もなかった。
「よっと!」
忠告しようとした俺は、思わず目を丸くした。
ルキアの差し出した手に片足を乗せたと思った次の瞬間、母さんはぴょんと飛び上がって即座にルキアの背中まで飛び乗ったのだ。慣れているというか……動きのどこにも無駄がなくて、一連の動きがまさしく堂に入っていた。
内心驚く俺には目もくれずに、母さんはルキアの背中に寝そべる。
「ルキアちゃん、ラ・クルセーデ・コルダ?」
母さんの口から出た言葉に、俺はさらに目を丸くした。
――ドラゴン語だ。
しかも発音がすごく良い。学校の先生より上手いというか、それこそドラゴンが話していると言われれば信じてしまうほどだった。
「っ……!」
俺だけじゃなく、ルキアも驚いたようだった。
首をもたげるようにして、彼女は背中に乗る母さんを見つめた。
「ディエ!」
ルキアが応じる。
今のドラゴン語、母さんは『角を掴んでもいい?』と尋ね、ルキアは『はい!』と応じたのだ。
ドラゴンに乗る時、角を掴む際は必ず許可を取るのがマナーだ。故に今のドラゴン語でのやり取りは、教習所でも必ず教わる基礎中の基礎である。
だから、知っていても決して珍しくはない。だがルキアの背中に乗る時の動作といい、慣れたドラゴン語といい……母さんにこんな技能があったとは、まったく知らなかった。
母さんがこちらを振り返る。
「智、綺麗に撮ってね」
「えっ、あ、ああ!」
半ば呆気に取られていたが、目的を思い出した俺は慌ててスマホを持ち直し、暗証番号を入力してロック画面を解除する。
その後、母さんを背に乗せてルキアは舞い上がり――俺はその姿をしっかりと写真に収めた。




