第139話 ヴェノムクイーン
翔子はただ、物陰から戦いの行方を見守っていた。
この戦いが続けば、家族としてともに過ごしてきたエヴリンが傷つけられるかもしれない。それは複雑な気持ちではあった。しかし彼女のやってきたことを考えれば、倒されてしかるべきとも思えた。
いずれにせよ、もうエヴリンと家族には戻れない。
翔子が進学すれば、家を巣立ってしまう。その別れを受け入れられなかったという理由だったとはいえ、翔子やその父に毒を盛って精神を汚染したのは許されることではない。さらにエニジアまで使ったとなれば、重罪に問われるのは免れないだろう。
やはり、エヴリン自身のためにもこの場で倒されたほうが……そう思った時だった。
「お嬢さん、ちょいと失礼いたしやす」
背後からの聞き慣れない声に、翔子は振り返った。
「ひっ!?」
悲鳴はどうにか、それだけに留められた。
不意に翔子を呼んだのは、全身が骨だけのドラゴンだった。
ボーンドラゴン。その存在を翔子が知らなければ、もっと大きな悲鳴を上げていたことだろう。悲鳴を上げるどころか、その場から爆速で逃げ出していたかもしれない。とにもかくにも、翔子はボーンドラゴンという存在を知り得ていたので、さほど大きなリアクションをせずに済んだ。
本物を見たのは初めてだった。
当然ながら翔子とは面識のないドラゴンだが、何の用だろうか?
「いきなり話しかけてすいやせん、あっしゃ『シド』と申しまして。そんでこちらは、特製の防毒マスクでございやす」
シドと名乗るボーンドラゴンは、不意にマスクを差し出してきた。
口と鼻を覆う形状で、円筒状のフィルターらしき部品が二つ取り付けられた、そこらで売っているようなマスクだ。翔子は怪訝に思いつつも、「はあ……」と漏らしつつ受け取った。
どうしてこんなものを? その理由を問わずとも、シドは教えてくれた。
「姉御の毒を生身の人間が吸い込んだら非常に危険でやんして。そいつを装着しておけば、ひとまずは中和することができやす。それ、エックスブレインが開発した中でも一番いいマスクなんでやんすよ。そこらで売ってるシロモノの、三十倍の値段がしやしてね」
姉御……というのはどうやら、今しがた現れた、赤い髪をツインテールに結んでいて仮面で顔の半分を覆い隠した少女のことのようだ。ドラゴンであるようだが、種類までは分からない。しかしシドの口ぶりからして、毒を操るドラゴンであるのは間違いないだろう。
だが、それではエヴリンには勝てないと思った。
エヴリンは毒に対して耐性があるので、きっと歯が立たない。ベルナールと同じように、返り討ちにされるのは目に見えている……と翔子は思った。
「いえいえ、姉御をそこらのドラゴンゾンビと同じに考えてもらっちゃあ困りやすよ」
翔子の考えを読み取ったように、シドは言った。
彼の言葉からして、どうやらあの少女はドラゴンゾンビであるようだ。
「どういう意味……?」
「ま、見てもらっていれば分かりやす。マスク、付けたほうがいいでやんすよ」
自分の口元を指差しながら、シドは促した。
疑問は拭えなかったが、翔子はとりあえず彼の助言に従ってマスクを装着した。
◇ ◇ ◇
「今度は、あなたが遊んでくれるの?」
ザンティは無言のまま、ベルナールと同じように腕から毒棘を生やした。すぐに腕を振り抜いて毒棘を切り離し、それを受け止めて剣のように構える。順序も動作も弟のそれとまったく同じ……ではあるものの、ベルナールとは違う点がある。
一本だけだったベルナールに対し、ザンティは両手に一本ずつ。つまり二本の毒棘の剣を構えた。二刀流だったのだ。
戦闘準備を済ませると、ザンティは口を開いた。
「ええ。だけど、短い遊びになると思うわよ」
暗に、短時間で勝負を決めるつもりであるという意思を示していた。
エヴリンが数本の触手を動かし、鋭利に尖った先端がザンティに向けられる。いつ襲ってきても不思議ではない。
「そんなこと言わないでよ、せっかく久しぶりに会えたのに……エヴリン、いっぱい遊んでくれる人が欲しくて仕方がなかったの。エヴリンを置いて行っちゃう人なんて、嫌なんだよ」
「あなたの大切な『お姉ちゃん』も、嫌になったの?」
誰のことを言っているのかは、すぐに分かったようだった。
ザンティは、物陰から戦いを見守っている翔子にちらりと視線を向けた。彼女はマスクをしており、近くにはシドもいる。
――自分の能力を使っても、大丈夫そうだ。
それを確認し、ザンティはエヴリンへ視線を戻した。
「ふふ、おしゃべりしてるだけじゃつまらないじゃん……遊ぼうよ!」
ザンティの質問に、エヴリンは答えなかった。
単純に答える気がなかったのか、一刻も早く邪魔者を始末して、本命である翔子のほうに向かいたかったのかもしれない。いずれにせよ、もう彼女にはザンティと言葉を交わすつもりがないのは明白だった。
先端が鋭利に尖った触手は、ベルナールの身を貫く威力を伴っている。喰らおうものならば、ザンティも無傷では済まないだろう。
しかし、触手がザンティを貫くことはなかった。
貫くどころか、触れることすらもなく――二本の毒棘の剣によって、一瞬と呼べる時のうちに斬り捨てられた。
直後、追撃としてさらに数本の触手が伸ばされる。しかし結果は同様で、ザンティはいとも簡単に切断し、無力化してしまった。その動きは一切の無駄がなく、素早く不規則に動き回る触手の軌道を完全に読み切り、的確に迎撃していた。
切り落とされて地面に落ちた触手を踏みつけ、ザンティはゆっくりとエヴリンのほうへと歩み出る。
「さすがだね、エニジアを使っていても当てられない……だけど無駄だよ、エヴリンの触手は何度でも……あれ?」
エヴリンがどうして疑問の声を発したのか、答えは切断された触手の断面にあった。
ベルナールに切り落とされた時はすぐに再生されたなのに、今度はそうはならなかった。ザンティの毒棘の剣で切られた部位は灰色に変色し、ボロボロとまるで砕けたガラスのように崩れていた。
触手を切断して迎撃するのは、弟と同じ戦法だった。しかし、断面がそのようになるのは、ベルナールの時には起きない現象だった。
「そっか、そうだったね……」
崩れゆく触手をじっと見つめたあとで、エヴリンは改めてザンティに視線を戻した。
ザンティは無言だった。彼女はまばたきもせず、夜風に髪を揺らしながら、両手の武器を構え直した。
「エヴリン忘れてたよ。ザンティの毒って、すっごく強いんだったね」
◇ ◇ ◇
「何あれ、エヴリンの触手が崩れて……!?」
「あれ、壊死してるでやんすね」
翔子は目を疑った。触手の攻撃を一蹴したあの少女の戦闘力には驚いた。しかしそれ以上に、長年エヴリンとは一緒にいたが、彼女の触手があんなふうになるのを見るのは初めてだったのだ。
「言ったでしょう。姉御は、そんじょそこらのドラゴンゾンビとはワケが違うんでやんすよ。耐性なんてものともしない劇毒を操る力を持ってやしてね。殺傷能力はまさに折り紙つき、姉御はドラゴンステイを禁止されているし、許可証がなければ人間界にも降り立てないレベルでやんす」
ドラゴンゾンビやヨルムンガンドといった暗澹の洞窟出身のドラゴンは、毒に対して耐性を有している種類が多い。彼らは毒ブレスを吸引したり、毒の爪で引っ掛かれたり、毒の牙で噛みつかれようが平気だ。
しかし、ザンティだけは例外だ。彼女の力は、その通説を根底から覆すものだった。
彼女の劇毒は同族であろうと無毒化がほぼ不可能なほどに強力であり、人間界はおろか、同郷のドラゴン達からも危険視されるほどである。
その殺傷能力は、ただのドラゴンゾンビという枠組みから大きく逸脱しており、『毒属性』ではなく『死属性』と称しても、まったく誇張ではない。
シドの言うとおり、単純な殺傷能力なら間違いなく五本の指に入るドラゴンなのだ。
「だから、私にこのマスクを……」
シドは頷いた。
間違っても、翔子がザンティの毒を吸引してしまわないように配慮が必要だったのだ。
ザンティの殺傷能力は型破りだった。しかし思ってみれば、彼女の毒を中和するマスクを開発できるエックスブレインの技術力も相当なものだ。
「縦横無尽に盤面を動き回り、最強の攻撃特性を持つチェスの駒、クイーン。姉御は、それになぞらえて龍界じゃこんな通り名があるんでやんすよ」
クイーンは前後左右斜め、将棋でいう飛車と角両方の動きが可能な最強の駒だ。
翔子は少しだけチェスを嗜んだことがあったので、それを知っていた。
「同族をも蝕む劇毒、『ヴェノムクイーン』、ってね」
その瞬間、シドの頭部を石礫が直撃した。
「あいだあっ!?」
投げつけられた石が粉々に砕け散るほどの威力、ザンティによるものだった。
倒れ込んだシドが頭部をさすりながら身を起こすと、鋭い目つきで睨むザンティと視線が重なる。
「そのニックネームはやめてって言ったでしょう、シド」
「き、聞こえてたんで? すいやせん……」




