第138話 夜闇の死闘
「ご存知ですか……それは、あなたの身にも大きな負担を強いる危険な薬物ですよ」
一切のためらいもなくエニジアを服用したエヴリン。ベルナールは驚くと同時に、彼女の身を案じてもいた。エニジアはドラゴンの力を増強する代わりに大きなリスクを伴い、耐性のないドラゴンが使おうものならば暴走のリスクも考えられた。
暴走状態に陥ったドラゴンは増強された力を保持したまま意識を失い、力尽きるまで暴れ狂う破壊兵器と化す。使用者のみならず、周囲にまで危害を及ぼしかねない――それこそが、エニジアが『破滅の欠片』と呼ばれている所以だ。
大麻やコカインと同格の扱いを受けている禁止薬物であり、決して手を出してはならないパンドラの箱。それがエニジアなのだ。
しかしエヴリンは、
「そんなの知ってるよ……知ってるけど、このオモチャを使えばもっと楽しく遊べるもの」
エニジアを『オモチャ』と言い切った。
自分の身にも危害が及ぶ可能性を、微塵も考えていないように見えた。自分は絶対に大丈夫だという確信があるのか、それとも自分自身すらも、『お人形遊び』の道具にすぎないということなのだろうか。
どちらにしてもその思考回路は異常で、ベルナールにはどう考えても理解し難かった。
彼女はやはり、危険だ。
ここで、必ず食い止めなければならない。改めてそう実感したベルナールは、毒棘の剣を握る手に力を込めた。しかし、エヴリンを倒す算段がついたわけではない。
(十中八九、僕の能力は彼女には無意味。毒のブレスも、この剣でもきっと倒せはしない……)
毒は無効化されてしまうし、エヴリンの再生能力を見る限り、毒棘の剣のみでは大きなダメージを与えることは不可能であるように思えた。
ベルナールの最大の武器というべき毒、それを完全に封じられてしまうという点が致命的だった。かといって毒棘の剣では攻撃力不足だ。倒す手段がないということは、すなわち突破が不可能だということ……勝つ手段が存在しないと言っても間違いではない。
相性という点に着目すれば、エヴリンはベルナールにとって最悪の相手だったのだ。
「考えている暇があるの? ほらあ!」
思案を巡らせる猶予は、いつまでも続きはしなかった。
エヴリンは両手の指、つまり十本の触手をすべてベルナールに向けて伸ばしてきた。その先端部分が刃物のごとく鋭利に尖っており、ベルナールを突き刺すつもりだ。
ベルナールは毒棘の剣を構え、応戦する体勢に移行した。
突破口が開けたわけではなく、真っ暗なトンネルに迷い込んでしまったかのように、対抗手段が見当たらなかった。それでも何もせず倒されるわけにはいかず、とにかく反撃しなくてはならない。
「ふっ!」
エニジアによって戦闘力が増強された影響だろう、エヴリンの攻撃は目に見えて苛烈さを増していた。
触手の一本一本がより素早く、より不規則に、そしてより攻撃的にコントロールされてベルナールへと迫ってきた。これらはエヴリンによって統制されているはずだが、まるで触手自体が意思を有してベルナールの急所を狙い、彼の命を奪おうとしているかのようだった。
だがベルナールにも、黙って串刺しにされるつもりはない。
さっきと同じように彼は飛び退いて距離を取り、触手すべてを視界に収められるように位置を調整する。複数の触手が襲ってきて、一度に切断するのは不可能だと判断した時は、迷わず回避を選んだ。
驚異的な反射神経と動体視力で動きを見極め、隙を見逃さずに一本ずつ切断していく。毒棘の剣でエヴリンに致命傷を与えるのは不可能だとしても、彼女の触手を無力化させることは可能だった。
「あはは、お人形さんの素敵なダンス……もっとエヴリンに見せて!」
しかし、ベルナールの行動も一時しのぎにしかならない。
切断された触手は、その断面から即座に再生した。
(さっきより明らかに再生速度が早い……エニジアの効果ですか……!)
再び触手の攻撃が繰り出されるのも時間の問題だ。
いつまでも迎撃を続けてはいられないと思ったベルナールは、息を吸い込んでエヴリンに向けて毒のブレスを吹いた。無駄だとは分かっていたが、何もせずにはいられなかった。
通常のドラゴンであれば、卒倒するほどの濃度と量のブレスだった。しかし案の定、エヴリンはまったくの無傷だった。
「効かないよ、エヴリンに毒を使っても無駄だって言ったでしょう?」
毒霧の中で無事に呼吸しているどころか、笑ってすらいる。
対抗するかのように、今度はエヴリンがベルナールにブレスを吐き出した。真っ黒で視界を完全に遮断する、黒煙のごときブレスだ。
どのような性質のブレスなのか、ベルナールには分からない。だが下手に吸引するのは危険だと感じ、袖で鼻と口を覆った。
しかし、それがすぐに毒でも何もないブレスだということに気づく。
(これは、ただの煙幕……!?)
エヴリンのブレスは毒ではなく、一切の殺傷能力を持たない単なる目くらましだった。ベルナールも同様のブレスを吐く能力を有しているので、即座にそれが分かった。
どうしてこんなブレスを、ベルナールはそう疑問に思ったが、すぐにエヴリンの狙いに気づいた。
視界を遮ったうえで、あの触手による攻撃を繰り出すつもりなのだ。あの素早くて精密な動きも可能な触手を、この状況下で差し向けられれば脅威度も格段に跳ね上がる。
(どこから来る……!?)
エニジアによって感知能力まで高められていれば、煙幕が充満するこの場においてもエヴリンはベルナールの位置を割り出せる可能性が高かった。根本的に相性の悪い相手に、今度は地の利まで奪われてしまったのだ。
前後左右、上、とにかくベルナールは視線を巡らせ、備えた。
しかし、エヴリンが攻撃を仕掛けてきたのは前後左右、それに上、そのどこでもなかった。
「っ!」
足元から物音が聞こえたと思った次の瞬間、アスファルトを突き破って出てきたエヴリンの触手がベルナールの右肩を貫いた。逃げることも迎撃もできず、ベルナールがそれを認識できたのは、攻撃を受けてからのことだった。
(まさか、地中から……!?)
まったくの予想外だった。
エヴリンはベルナールの不意を突いて確実に仕留めるために、触手を地中に忍ばせて掘り進み、足元から彼に奇襲攻撃を仕掛けたのだ。きっとあの煙幕ブレスも、周囲や上空に注意を向けさせるための伏線だったのだろう。
攻撃は終わらなかった。
肩を貫かれて身動きできなくなったベルナールにさらに二本の触手が伸ばされ、今度は胸部と腹部を貫かれる。
「ぐっ!」
ベルナールがドラゴンでなければ、確実に致命傷となっていただろう。
周囲を覆っていた煙幕が晴れた。もう用済みだと言わんばかりに、エヴリンが翼によって風圧を起こし、払い飛ばしたのだ。
「ふふふ、捕まえた……」
ベルナールは触手を身体から引き抜いて逃れようとするが、できなかった。
身動きする彼を見て、エヴリンが生え揃った牙を覗かせながら不気味に笑った。このままでは、とどめを刺される――それをベルナールは重々承知していたが、触手で身を貫かれている彼は逃げることも、抵抗もできない。拘束され追い詰められた今の彼は、陸に取り残された魚のように無力だったのだ。
さらに数本の触手、その鋭利な先端がベルナールに突きつけられる。
エヴリンは恐怖を煽り、楽しんでいるかのように思えた。
「どこを貫いてほしい?」
無邪気な声色で問いかけるエヴリン。
形成は不利だったものの、まだベルナールは勝負を捨てたわけではなかった。こうなれば、強引に触手を引き抜いて脱出するかとも考えた。
しかし、その必要はなかった。
どこかからか飛んできた何かが触手を切断し、ベルナールを解放した。
「えっ?」
疑問の声を漏らすエヴリン、ベルナールは即座に後方へ飛び退いて距離を取り、身を貫いていた触手を引き抜いた。
「ぐっ……!」
致命傷とまではならなくとも、ダメージを感じてはいた。
切断された触手を投げ捨て、彼は飛んできたその物体に目を向ける。それは、ベルナールの放つ毒棘とよく似ていた。
(これは、まさか……!)
わずか数秒後に、ベルナールは自分の予感が正しかったと知る。
「あなたも相変わらずね、エヴリン」
明瞭に響き渡る声。ベルナールもエヴリンも、それが発せられたほうを見上げる。
ビルの屋上に、声の主である少女は立っていた。
ベルナールやエヴリンのそれと同じ、暗闇の中で光を放つ黄色い目。顔の左半分を覆い隠す仮面……咥えられた煙草には火が付いており、ツインテールに結ばれた彼女の髪が、夜風を受けて空を泳いでいた。
夜闇に紛れるようで、当初はその姿を鮮明には視認できなかった。
しかし、すぐに満月の光が彼女を照らし出す。
「姉さん……!?」
ザンティだった。
ベルナールの姉であるのだから、彼女が放った毒棘がベルナールのそれと似ているのも至極当然だったのだ。
身を屈めて両足に力を込めたと思った次の瞬間、ザンティは自身の身長の何倍もの高さまで跳躍し、ためらいもなくビルの屋上から飛び降りた。空中で華麗に宙返りし、彼女はベルナールのそばへと降り立つ。
膝を曲げて着地した瞬間、ツインテールに結ばれた彼女の髪が、バサリと揺れ動いた。
立ち上がったと思うと、ザンティは煙草を地面へと吐き捨て、ズシャリと音を立ててそれを踏み消した。
「へえ、ザンティ……久しぶりだね」
驚いたことに、エヴリンはザンティの名を呼んだ。
面識があるのかと気になったが、ベルナールにはそれを尋ねる余裕はない。触手で貫かれた傷は、軽いものではなかった。
「姉さん……!」
少しの間を挟んで、ザンティは横顔だけを見せるようにして弟を振り返った。
「下がりなさい、ベルナール。彼女の相手は私がする」




