第136話 貪婪のヨルムンガンド
「お願いやめてエヴリン、離してっ……どうしてこんなこと……!」
懇願したところで、聞き入れられるはずはなかった。
エヴリンの袖から伸びた触手は翔子の足首に絡みついたまま、彼女を離そうとはしない。絶対に逃がさないという意思が伝わってくるようだった。
「言ったでしょ? エヴリン、お姉ちゃんとお別れするのが嫌になっちゃったんだよ」
黄色い光を放つ瞳が、翔子の怯えた顔を映し出す。
説得しようと言葉を探すが、もう何も出てはこなかった。
翔子の目の前にいるのは、ずっと一緒に、それこそ姉妹のように仲良く過ごしてきた少女ではなかった。エヴリンはもはや依存心と執着心に取り込まれ、三原則を破ることも厭わなくなった。今の彼女は、危険な犯罪ドラゴンなのだ。
「最初は旦那様をおかしくすれば、お姉ちゃんが大学に行けなくなってずっとこの家にいてくれると思ったんだ。でもそれじゃ足りないからお姉ちゃんもおかしくしようと思ったんだけど、それでも上手くいかなそうだから……だから、こうすることにしたの」
エヴリンの恐ろしい告白に、翔子は息をのんだ。
今でこそあのように娘を怒鳴ったり折檻もする父親だが、少なくとも最初からそうではなかった。遥か昔のことにも思えるが、父から愛情を注いでもらった記憶も、翔子には間違いなく存在していたのだ。
あんなに厳しくなったのは、自分が将来を左右する重要な時期にいるからかもしれない――父のやり方に怒りを覚えることも少なくはなかったが、翔子はそう思っていた。
しかし、それは違った。
理不尽と思えるほどに父が厳しくなったのは、エヴリンの仕業だった。
「そんな、そんなことを……!」
そこで翔子は気づいた。
エヴリンは今、『お姉ちゃんもおかしくしようと思った』と言った。つまり彼女は父に留まらず、翔子もまた策略の標的にしていたのだ。
「な、何をしたの? お父さんや私に、何をしたのっ!」
恐怖におののきながら、翔子は声を張り上げた。
具体的に、エヴリンが何をしたのか。どんな方法を使って、翔子や彼女の父の攻撃性を増長させたのか。それを知るのは恐ろしかったけれど、訊かずにはいられなかった。
「そんなたいしたことじゃないよ……ちょっとした『イタズラ』をしただけ。エヴリンの能力を使って、ふたりを少しだけ怒りっぽくさせただけだよ」
「イタズラ……!? どんな!」
それが本当ならば、もはやイタズラでは済まされないはずだった。
エヴリンの触手の一本が翔子の目の前まで伸ばされる。その先から青黒い液体が滲み、ポタリポタリと地面に滴り落ちた。
「そういえば、お姉ちゃんにも教えたことがなかったね。エヴリンの毒液ね、直接的な殺傷能力はないけれど、摂取した人の精神を不安定にさせる効果があるの」
背中に氷水でも注がれたように、翔子は背筋が冷たくなるのを感じた。
精神を不安定にさせる毒液。そこまで聞けば、エヴリンが何をしたのかを推察するには十分だったのだ。人の感情を偽りで塗り潰す――殺傷能力がなかったとしても、それは単純な毒以上に恐ろしいものであるように思えた。
「その毒液を……私やお父さんに……!」
答えはもう分かっていた。
翔子がエヴリンに投げかけたのは『質問』ではなく、確信を持っている事実を裏付けるための『確認』だった。
エヴリンは何も言わなかった。言わなかったが、悪意に溢れたその笑みが答えを語っていた。
「旦那様やお姉ちゃんの食事とか、お茶とかにも入れたんだよ。少しづつ、少しづつね……お姉ちゃんの煙草に付けたこともあったかな」
翔子は、エヴリンが幾度かハーブティーなどを淹れてくれたことがあったのを思い出した。もちろん何の疑いも抱かなかったが、あの中にエヴリンの毒液が混入されていたのだ。
少量を混入し続けたのは、味でバレないようにするためなのだろうか。狡猾にして恐ろしい手口だった。
「そんな、そんな……!」
悲しみとも絶望感とも思える感情が胸を覆うのを、翔子は感じた。
気づかぬうちに、毒物を投与され続けていたのがショックだったのは間違いない。しかしそれ以上に、エヴリンにそんなことをされていたという事実が受け入れ難かった。
翔子はエヴリンを家族同然の存在だと思っていた。
その彼女が家庭を滅茶苦茶した張本人だという事実が理不尽で、不条理に思えてならなかった。ただ真面目に勉強して、部活動にも励んで、ひとりの女子高生として日々をすごして――将来のために大学に進学しようとしていただけだった。
どうしてこんなことになってしまったのか、何が今のこんな状況を招いたのか、翔子にはどうしても分からなかった。
「さあお姉ちゃん、もうお喋りはいいでしょう? ずっとエヴリンのものになってよ」
その言葉が何を意味しているのかは、考えるまでもなかった。
盲目的にまで達した執着心や依存心は、翔子の殺害という形で達せられる――エヴリンはそう結論を見出してしまっていた。三原則も道徳も、もはや彼女には関係ないのだろう。
エヴリンの触手が、今度は翔子の首に絡みついた。
「ううっ、ぐっ!」
声を出すこともできなくなる。
エヴリンが裏で手を引いていたとはいえ、夜遊びをしたり悪い友人と付き合っていた自分にも非はある。翔子はそれを自覚していた。しかし、それを悔いて二度と同じことを繰り返さず、立ち直ろうと思っていたのも事実だ。
これは、自らの悪行に対する報いなのか。苦しみの中で翔子はそう思ったが、甘んじて受け入れることはできなかった。
神様、今回だけ許してください、助けてください……そうしたらもう絶対に、私は悪いことはしません……首を絞めつけられながら、翔子は実在するかどうかも分からない神に祈った。
――その時だった。
突然翔子の首が解放され、彼女は尻餅をつくようにその場に倒れ込んだ。
「うっ、ごほっ!」
咳き込みながら、前方に目を向ける。
首を絞められていたのはほんの数秒だったので、心身に別状はなかった。
問題は、何が起きたのかだった。エヴリンの様子からして、彼女がみすみす翔子を見逃す可能性は低いように思えた。
翔子の前に、誰かが背を向けて立っていた。
執事服に、ドラゴンゾンビの翼。顔は見えなかったが、誰なのかは容易に想像がついた。
「あなたは……!」
首を押さえながら、翔子は彼の背中に語りかける。
「あなたは以前、『もう関わるな』と僕におっしゃいましたが……従えそうにありません。どうか、あしからず」
現れたのは、神ではなかった。
しかし神はまだ、翔子を見放してはいなかったようだ。
◇ ◇ ◇
非常に危うい状況だったが、どうにか間一髪で間に合ったようだ。
ベルナールが駆けつけたまさにその時、エヴリンが触手で翔子の首を捕らえていたところだった。それを確認したベルナールは即座に毒棘を放ち、触手を切断して彼女を救った。まさしく間一髪で、あと少し遅ければ手遅れになっていたに違いない。
翔子を庇うような位置に立ち、ベルナールはエヴリンを見つめた。
お互いの黄色い目が、夜闇の中で光を放って浮かび上がっていた。
(光を放つ黄色い目……やはり、彼女も暗澹の洞窟に住まうドラゴンのようですね)
切断されたエヴリンの触手が、瞬く間に再生していく。
「何の用なの? 今エヴリンはお姉ちゃんと遊んでるの……邪魔をしないで」
ベルナールの背中から、ドラゴンゾンビの翼が消失していった。
「人の命を奪おうとして、『遊び』とは……それにしても、まさかあなただったとは思いませんでしたよ」
キュラスの報告を受けた時は半信半疑だったが、エヴリンが翔子を殺害しようとする現場を目の当たりにしたことで、確信が得られた。
エヴリンこそが、この事件の根と呼ぶべき存在だった。
「そこをどいてくれない? エヴリンはお姉ちゃんが欲しいの……あなたになんか、用はないの」
眼前を飛び回る羽虫を見るような、いかにも忌々しそうな眼差しでエヴリンはベルナールを見つめた。その言葉が、ベルナールに用はないという意味を含んでいるのは明らかだった。
「申し訳ないですが、それはできかねます」
もちろんベルナールは、エヴリンの要求を退けた。
ため息をつくエヴリン。彼女の小さな身体が光に覆い包まれ、ドラゴンの姿へと変じる。
暗い青色の体色に、ところどころ赤の模様が入った、大蛇に手足と翼が生えたかのようなドラゴン。どこか美しさや気品のあるドラゴンゾンビとは違い、その姿はまるで怪物で、彼女が抱える貪婪さや心の闇が具現化したかのような外見だった。
「じゃあ、まずはあなたから遊んであげる……せいぜい、エヴリンを楽しませてね」
ベルナールは身構えた。
少し前にマーヴィンとドラゴンバトルを繰り広げたばかりだったが、運命は彼を休ませてはくれないようだった。
「なるほど、ヨルムンガンド……それがあなたの真の姿ですか」




