第135話 牙を剥く悪意
「ふんふふーん……」
弾むような足取りで歩くエヴリンの背中を、翔子は重たげな足取りで追っていた。
マーヴィン達に危うく殺害されかけたことで、夜遊びについて反省していたのは間違いない。しかしそれ以上に、父親からの叱責で怒りや鬱屈した思いが再燃し、とにかく家にいたくなくなってしまったのだ。
家を出る際には玄関を通らず、エヴリンの力を借りて窓から抜け出した。彼女が玄関から靴を持ち出すなどして翔子を連れ出し、父の目を盗んで外に出ることができたのだ。
散歩に誘ってくれたことは幸運だった。あの家にいれば、いつ再び父親の怒号を浴びる羽目になるか分からなかったからだ。
「それにしてもお姉ちゃん、大丈夫だった? 危ない目に遭ったっていうから……エヴリン、心配してたんだよ」
振り返りつつ、エヴリンが問うてきた。
純粋に自分の身を案じてくれる彼女は、怒鳴るしか能のないあの父親とはまるで正反対だと翔子は感じた。
マーヴィン達や、父親のことが頭に渦巻いていた。そのせいで返事が遅れてしまい、翔子は慌てて笑顔を取り繕いつつ頷いた。
「うん、平気だから……だから心配しないで、エヴリン」
そこでふと、翔子は周囲を見渡した。
「っ、ここは……?」
考えごとに集中していたせいで、微塵の疑問も抱かずにエヴリンの行く先を追っていた翔子。そこで彼女は、自分が見知らぬ場所に立っていることに気づいた。
ここはどこ? そう思って左右に視線を巡らせてみる。そこは廃ビルと思われる建物が林立する、人気のない街の一角だ。これまで足を運んだことなど一度もなく、見覚えのない場所だった。
廃ビルはかなり前から放置されているらしく、外壁はボロボロで屋根の一部が崩落し、内部の配管が剥き出しになっている個所もあった。コンクリート片などの落下物を警戒してなのだろう、『建物に近づかないでください』という注意書きが記された看板が近くに立っていた。
人気のない廃墟街――こんなところに、エヴリンは何をしにやってきたのだろうか?
「お姉ちゃん、着いたよ」
「着いた……?」
つまり、ここがエヴリンの目的地。彼女の言う『夜の散歩』の行き先だということになる。
しかし翔子には、こんな場所に何があるというのかがまったく分からなかった。こんな場所に連れてくるだなんて、どのような意図があるというのだろうか?
それをエヴリンに問うことは、できなかった。
「お姉ちゃん、あと半年くらいで卒業だね。そうしたら、家を出ちゃうんだよね」
「え……?」
不意に切り出されたその話に、翔子は思わず目を丸くした。
しかし、エヴリンの言うとおりだった。現在三年生である翔子は、来年の三月に高校を卒業する。予定している進路では遠方の大学へと進学することになっていた。そうなれば、家を出て一人暮らしをすることになるはずだった。
今回の事件が、進路に影響を及ぼすのではという懸念もあった。しかし現状では、まだ分からない。
「それが、どうかしたの?」
エヴリンは答えずに、その場で踵を返して翔子に背を向けた。
彼女の視線がどこを向いているのかは見えないが、夜空に浮かぶ満月を見上げているように翔子には思えた。
「お姉ちゃんがいなくなっちゃったら、エヴリン寂しくなるな……」
学生の一人暮らしの場合は、ドラゴンステイが許されない。
つまり、進学した翔子にエヴリンがついて行くのは不可能だった。
エヴリンは十年以上も寄宿し、翔子とは実の姉妹のように育ってきた。幼くして母を亡くした翔子にとって、彼女は大切な家族だった。エヴリンも、同じように思ってくれていると信じていた。
別れの時が迫っている。あと半年ほどで、一緒にいられる時に終止符が打たれる。エヴリンは、それを惜しんでいるのだ。
「私も寂しいよ。でも、離れてからも仲良くし続けようよ? 今までみたいに……」
教え諭すように、翔子はエヴリンの背中に語りかけた。
しかし、エヴリンは返事をしなかった。振り返ることすらもなかった。
「ねえ、エヴリン……」
翔子の言葉は、そこで止まった。止められた。
振り返ったエヴリンの左目が黄色い光を帯びていて、その目つきに言いようのない威圧感が内包されていた。
部屋で彼女の光る目を見た時、不気味だとは思ったが恐怖は感じなかった。あの時は気のせいだと思うことにしたのだが、今度は違った。
翔子を見つめるエヴリンの瞳には、言うなれば敵意のような……邪悪で不穏な感情が渦巻いていた。
「嫌だよ」
機械が喋っているかのような、無機質で抑揚を欠いた声だった。
翔子は思わず一歩後退した。黄色く光り続けているエヴリンの左目から、目を逸らすことができなかった。それはまるで、何もかもすべてを吸い込むブラックホールのようだった。
「お姉ちゃんとお別れなんて……エヴリン、絶対に嫌だよ」
エヴリンがもう一歩近づいてくる、翔子はまた一歩後退した。
目の前にいるのは、ずっと一緒にいた家族だった。しかし翔子は今、エヴリンを危険だと認識していた。猛獣と遭遇してしまったかのように、自らに危機が迫っていると感じていた。
悪意の滲んだ言葉が、さらに続けられる。
「エヴリン、お姉ちゃんともっと遊んでいたいよ。ずっと一緒にいたいんだよ……今までみたいにふたりでお絵描きしたり、ゲームしたり、トランプしたり、すごろくやったり、オセロやったり、おままごとしたり、お人形遊びしたり、かくれんぼしたり、鬼ごっこしたり、縄跳びしたり、絵本読んだり、お散歩したり、ピアノ弾いたり、アニメ見たり、ボール遊びしたり、水遊びしたり、旅行したり、花火見たり、もっともっとたくさん、もっともっといっぱい、お姉ちゃんと一緒にやりたいことがあるんだよ!」
自分を家族と思い、必要としてくれているからこその言葉だと分かった。
しかし、翔子は嬉しいとは思わなかった。それどころか、狂気的にまくし立てるエヴリンを見て、彼女を不気味だと思った。エヴリンが翔子に向けているのは愛情ではなく、常軌を逸した依存心だった。
それでも翔子はまだ、エヴリンを信じていた。
「ねえエヴリン、聞いて……お願いだから聞いて……!」
しかしもう、エヴリンには届かない。
「行っちゃうんだったら、エヴリンを捨てるなら……」
俯いたエヴリンは、すぐに視線を上げた。
「お姉ちゃん、死んで」
その一言が、決定打となった。
もはや、説得は不可能だと翔子は悟った。目の前にいるのは妹同然だった少女ではなく、自らに敵意と憎悪を向ける恐ろしい存在だった。
逃げろ! 翔子の防衛本能が叫んだ。
しかし、逃げることはできなかった。駆け出そうとした瞬間、何かに足首を絡め取られ、翔子はその場に倒れ込んでしまった。
「うぐっ!」
腕を擦り剥き、血が滴り落ちる。
翔子の足首を捕らえ、転倒させたのはエヴリンの触手だった。
「ごめんねお姉ちゃん。今日はエヴリン、鬼ごっこをしたいんじゃないんだよ……」
翔子は足首に絡みついた触手を振りほどこうとするが、できなかった。
エヴリンが歩み寄ってくるが、翔子は逃げ出すことも、立ち上がることさえできない。
◇ ◇ ◇
「一難去ってまた一難、ですね……!」
背中にドラゴンゾンビの翼を出現させ、ベルナールはキュラスが報告した場所へと急行していた。キュラスから悪い知らせを受けたのは、つい数分前のことだった。
エヴリンが翔子を襲おうとしている。耳を疑う報告だったが、キュラスが伝えた情報なので間違いないだろう。
ザンティの進言どおり、引き続きキュラスに命じて翔子を監視させていた。
何事もないことを祈っていたが、そうもいかなかった。
「キュラス、姉さんにも報告を!」
指示を受けたキュラスは、方向を変えて飛び去っていった。
それを見届けて、ベルナールは改めて自身の行き先である方向に視線を戻す。
(急がなければ……!)
夜風を全身に浴びながら、ベルナールは再び翼を羽ばたかせ、満月を両断するように飛び去っていく。




