第125話 それでこそ
助けて!
それが虫の良すぎる願いだということは、翔子自身がよく理解していた。
エニジアの売買を行う犯罪者であるドラゴン集団、彼らが悪いのは明らかだった。しかし、そんな者達に歩み寄って縁を繋いでしまった彼女自身もまた、迂闊だった。
優等生であるプレッシャーや、父親からのストレスで気がおかしくなりそうだったのは事実だが、もっと考えて行動すべきだった。翔子にも落ち度の一端はあり、この状況は彼女自身が引き寄せたものであるとも取れるだろう。
神様、どうか助けてください。
今助けてくれれば、もう二度と悪いことはしません……!
マーヴィンに髪を鷲掴みにされながら、翔子は目を固く閉じつつ、実在するかも定かではない神に祈った。
そしてどうやら、神はその願いを聞き届けてくれたようだった。
「やめて、先輩から離れてっ!」
廃工場内に響き渡ったのは神の声ではなく、聞き慣れた少女の声だった。
翔子は目を見開き、振り返る。
下ろされたシャッターとは別の入り口の横に、七瀬が立っていた。肩を上下させながら呼吸を弾ませている彼女を見て、急いでこの場に駆けつけたことが分かる。
「誰だお前、どうやってここに入って来やがった……?」
マーヴィンが七瀬に歩み寄る。
彼だけでなく、他の男達の視線も浴びせられるが、七瀬はまったく怯まなかった。それどころか彼女は、翔子を集団で痛めつけていた男達に対し、敵愾心をむき出しにした表情を浮かべた。
しかし、翔子には後輩の行動が無謀以外の何物にも感じられなかった。
ただの人間の少女が、ドラゴンである男達に勝てるはずがなかった。
「危ない七瀬、逃げて……!」
蹴り上げられた痛みで、思うように声を出せなかった。
翔子は避難を促した。しかし七瀬はもちろん、それに従わない。翔子を救うために駆けつけたのだから、見捨てて逃げるはずがない。
男達を視線に捉えたまま、七瀬はポケットを探る。
「離れてって……言ってるのよ!」
そう叫ぶと同時に、七瀬はポケットから取り出したそれを、ためらいもなく男達に向けて放り投げた。
オレンジと黄色に着色された、ゴルフボールくらいの大きさの球状の物体だ。それが何なのかをすぐに理解したのだろう、男達は自分達のすぐ近くに転がり落ちたそれを見るや否や、目に見えてだじろいだ。
驚く者もいたし、逃げ出そうとする者もいた。だがいずれの行動も、間に合わなかった。
七瀬が放り投げた球状の物体は、わずか数秒で破裂した。
爆発したわけではなく、鋭利な破片を周囲に飛散させたわけでもない。
破裂とともに放たれたのは、強烈な超音波だった。といっても、翔子にはただの甲高い音にしか聞こえなかった。七瀬にも同じだろう。
エックスブレインが開発した、対ドラゴン用の防犯超音波ボール。
人間とドラゴンの根本的な聴覚機能の違いに着目して作り出された、その名のごとくドラゴンのみに作用する防犯グッズだ。
ドラゴンによる犯罪が社会問題となっている昨今、その対策として普及しており、コンビニなどでも販売されていた。価格はものの数百円で、比較的安価だ。
「があっ、くそっ、耳が……!」
「ふざけやがって、畜生……!」
耳を塞げば超音波を遮断することもできなくはないのだが、男達は完全に七瀬を侮っていたに違いない。普通に考えれば、丸腰の状態でこの場に現れるはずはなかった。
七瀬は、気を抜く間もなく翔子へと駆け寄った。
防犯超音波ボールで男達を怯ませることには成功したが、それも一時的なものだ。
個人差こそあれど、数十秒から数分程度で効力は切れる。また、ドラゴンによってはまったく効果がない場合もあるらしい。
幸い、このドラゴン達全員が超音波によって怯まされた。しかし、それも結局は一時しのぎに等しい。彼らが行動不能になっているあいだに、逃げる必要があるのだ。
「翔子先輩、大丈夫ですか?」
七瀬に助け起こされながら、翔子はどうにか頷いた。
自力で立ち上がることもままならない翔子を案じ、七瀬は肩を貸してくれた。テニス部の活動の際、負傷した友人を保健室に連れて行った経験があるからだろう。七瀬の肩の貸し方はとても手慣れており、胴に入っていた。
しかし、彼女達が逃走するのを、男達が黙って見ているはずもなかった。
「くそっ、待ちやがれこの小娘!」
予想していたより早く、男の中のひとりが飛び掛かってきた。
ドラゴンに変身こそしていなかったが、そのジャンプ力も走力も人間業ではなく、彼がドラゴンであることの証拠だった。
振り向いた七瀬は、向かってくる男に向かってもう一度防犯超音波ボールを投げようと試みた。この廃工場に向かう際、コンビニに立ち寄って買ってきたそれは一個だけではなく、まだ三個ほどのストックがあった。
同じ手が、二度も通じるかどうかは疑わしいものがある。それでも今の七瀬は、これ以外の対抗手段を持ち合わせてはいなかった。
ポケットに手を入れ、ボールを掴む。
野球選手のごとく振りかぶって、男目掛けて投げようとした、まさにその時だった。
「あがっ!?」
男が奇妙な声を発し、ビクリと身を震わせた。
そのままうつ伏せの体勢で倒れ込む。男の背中には、鈍銀色の大きな棘のような物体が突き刺さっていた。
(これは……!)
防犯超音波ボールの投擲を中断した七瀬は、見覚えのあるその棘をまじまじと見つめた。
その物体の正体は、すぐに分かった。
「間一髪でしたね」
少年の声に、七瀬も翔子も、そして男達も振り向いた。
「ベル!」
安堵感に笑みを浮かべながら、七瀬は彼の名を呼んだ。
いつの間に現れたのか、廃工場の一角にベルナールの姿があった。どのようにしてこの状況を察したのかは、七瀬には分からない。きっとキュラスから報告があったのかもしれないが、彼も七瀬と同じように、ここに駆けつけたのだ。
市販の防犯グッズを持ち込んでいることを除けば、七瀬は丸腰に等しかった。そのような中でベルナールが助けに来てくれたと思うと、その心強さは非常に大きなものだった。
ベルナールは、ぐっと両脚に力を込めたと思うと、廃工場の天井付近の高さにまで跳び上がった。超音波を喰らわされて、悶え続けている男達を軽々と跳び越え、七瀬と翔子のすぐ近くに着地する。
「怪我の具合は?」
男達に注意を払いつつ、ベルナールは問うてきた。翔子が負傷していることを、彼は一目で悟ったようだった。
「どうにか、手を貸してもらえば、歩くことくらいなら……」
痛みに表情をこわばらせながら、翔子は応じた。
七瀬が思ったとおり、男の背中に突き刺さっていたのはベルナールの棘だった。
人間の姿の時にも放つことができる、ドラゴンゾンビの毒棘。しかしベルナールに命を奪う意図はなかったようで、男はいびきをかきながら眠っていた。棘を通じて、催眠作用のある毒を注入されたのだ。
詳細な時間は分からないが、しばらくは目を覚まさないだろう。
「それにしても、こんな場に防犯超音波ボールだけで乗り込むなんて……さすがに無謀が過ぎますよ、お嬢様」
七瀬に背中を見せながら、ベルナールは彼女をたしなめた。
ベルナールの言うとおりだった。あと少し彼が来るのが遅ければ、最悪の事態となっていた可能性が高い。
「ごめんベル、翔子先輩が危ない目に遭ってると思ったら、私、もういても立ってもいられなくて……」
ベルナールは振り向かず、あきれた気持ちそのものを噴出するように、大きなため息をついた。
「やれやれだ」
直後、ベルナールは横目で七瀬を振り返った。
その表情に、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「でも、それでこそ……僕のお嬢様です」




