第103話 薄暗い洞窟にて
龍界最下層、通称『暗澹の洞窟』。
陰気で薄暗く、足を踏み入れることすらはばかられ、龍界ではぶっちぎりに踏み入りたくない場所……というネガティブな印象がつきものの土地だ。
結論的には、そのイメージは間違っていない。間違っていないが、実際のところそう断じることもできない事実も存在する。
というのも、暗澹の洞窟は龍界でもまずまずの人気を得ている観光スポットであり、人間界の旅行ガイドにも載っている。一番の見どころはやはり、発光苔や龍界ホタルが放つ光や、それに照らし出される天然水晶だろう。その美しさは、沖縄の青の洞窟にも並び立つと称されるほどだ。特定の場所においては有料ながら、天然水晶の採掘も認められており、手に入れたそれを望む形に加工するサービスも行われていた。
暗澹の洞窟の自然活動が育む、青く透き通った水晶はまぎれもなくこの地の特産物であり、これを原料とした置物やアクセサリーは人間界でも広く流通していた。これの制作を趣味としているドラゴンもおり、さらにはそれによって報酬を得ている者までいる。
今ベルナールの前にいる、『彼女』もそのひとりだ。
「で、最近はどうなの? ベルナール」
片手に水晶の彫刻を持ち、もう片手に握ったナイフでそれを削りながら、少女は問うた。彼女は暗澹の洞窟の一角に形成された巨大水晶に腰掛けて、すらりと長い脚を組み、作業に勤しみながら会話していた。
ナイフの鋭利な先端が触れるたびに、水晶の彫刻が削られて甲高い音が鳴り渡る。
彼女が作っているのは、女性を模った彫刻のようだ。ローブに身を包んでいて、髪が長くて、両手に抱いた赤子に視線を落としながら微笑む美しい女性。モチーフは聖母か、あるいは女神だろうか?
だいぶ形になっているようだが、まだ完成ではないらしい。しかしながら、すでに美術工芸品の展覧会に出展されても違和感がない出来栄えに仕上がりつつあるのが見て取れる。
「とくに変わりはないよ。姉さんも今度、久しぶりに来てみたら? 日差しのキツさを除けば、人間界はいいところさ」
少女は作業の手を止めないまま、鼻で笑った。
「遠慮するわ。知ってるでしょ? 面倒な手続きを済ませなきゃ、私は人間界に踏み入ることすら許されないんだから。まったく……私もあなたも同じドラゴンゾンビだってのに、つくづく不公平よね」
制作中の彫刻をくるくると回し、細部のチェックをしながら少女は言った。とはいえ、気軽に人間界に降り立てないことを残念に感じている様子ではなかった。
この少女の名は、『ザンティ』。
ベルナールと同じドラゴンゾンビにして、彼の姉だ。
白い肌や赤みがかった長い髪、それをツインテールに結んでいる左右非対称の髪留め、いくつも棘が伸びたチョーカー。特徴的な外見が多々見受けられる彼女だが、何よりも目を引くのはやはり、その顔左半分を覆い隠している仮面だろう。銀地に赤い模様が走っているそれは、オペラコンサートの演者を想起させた。
彫刻を高々と掲げ、彼女はじっとそれを見つめた。
「完成したの?」
弟、つまりベルナールの質問に、ザンティは答えなかった。
答えずに、仮面で隠れていない右目を細めて自分の作品を見つめ……そして、
「失敗したわね」
そう呟くとともに、ザンティは作りかけの彫刻を……たぶん、あと少しで完成だった作品を、ためらいもなく片手の握力で握り潰した。
パキンッ、という耳障りのいい音が鳴り響いた。姉の予期せぬ所業に、ベルナールは思わず目を見開く。
「ちょ、あと少しで完成だったんじゃないの?」
握り砕かれたのは胴体だったので、顔にあたる部分は無事だった。しかしもはや、廃棄処分された残骸でしかないだろう。
聖母なのか、あるいは女神なのか。あるいは、そのどちらでもない女性を象っていたのかは、結局分からなかった。しかし少なくともベルナールには、これが失敗作と断じられてしまうほどに不出来なものだとは思えなかった。
「これじゃ駄目。細かい部分の調整を失敗したわ」
その手から彫刻の残骸をバラバラと落としながら、ザンティはため息をついた。
ここまで手塩にかけて制作を進めてきたはずだった。しかし彼女には、それを惜しむ様子は一切ない。
今度は、ベルナールがため息をつく。
「姉さんの完璧主義も相変わらずだね、だいぶ時間と手間をかけていたんじゃないの?」
ザンティは、ツインテールの片方をさらりとかき上げた。
「そうでもないわよ、一時間もあればここまでは作り直せる。それに私は依頼を受けて制作してるんだから、完璧以外はありえないの」
とはいえ、落胆がまったくないというわけでもないようだ。
「ねえベルナール、『例のあれ』……持ってきてくれた?」
具体的に名言せずとも、ベルナールにはザンティが何を求めているのか、すぐに分かった。
「ああ、持ってきたよ」
ポケットを探り、ベルナールは姉に向けてそれをぽんと投げ渡す。
人間界で手に入れてきた、煙草の箱だった。
龍界では煙草は手に入らないので、ベルナールはしばしばザンティに煙草を差し入れていたのだ。
「いつもありがと、さっそくいただこうかしら」
ベルナールもザンティも、人間換算ではまだ喫煙が許された年齢ではない。
しかし、ふたりはドラゴンだ。ドラゴンであれば、喫煙に関しての年齢制限は適用されない。とはいえ、購入の際にはドラゴンであることを示す証明証を提示する義務があるし、そもそもベルナールは吸わない。
ドラゴンステイしているからというわけではなく、彼はそもそも煙草が好きではないのだ。
しかしながら、ザンティは弟と違って愛煙家だ。
とはいっても、ヘビースモーカーを名乗れるほどではない。毎日吸うわけではないし、煙草が欲しくてたまらなくなるといったこともない。長らく吸わなかった時期もあるそうだし、禁煙しようと思えばいつでも辞められるのだろう。
煙草を咥えると、ザンティはライターを使ってそれに火を付けた。いかにも慣れた手つきで、一連の動作が胴に入っていた。
「ふー……」
満足した様子で煙を吹く。
「ドラゴンだから身体に影響がないのは分かるけど、ほどほどにね」
思えば彼女が自由に煙草を吸えるのも、ベルナールと違ってドラゴンステイしていないからこそだ。
右手の人差し指と中指で煙草を挟んで口から外し、ザンティは今一度ベルナールに視線を向けた。
「ええ、そうするわ。で、そろそろベルナールは人間界に戻る時間?」
ザンティの問いかけに、ベルナールは胸ポケットから懐中時計を取り出し、現在時刻を確認する。
「そうだね、あと少しでお嬢様も目を覚ますだろうし……朝の仕事に取り掛からないと」
「そう、執事さんも大変ね」
ザンティは、さっき火を付けたばかりの煙草を右手でぐしゃりと握り潰した。
もちろん先端部分が真っ赤に燃えており、今まさに煙を立ち昇らせていた煙草を、である。煙草の燃焼温度は数百度、人間が同じことをしようものなら、火傷は免れないだろう。
「いいの? まだ火を付けたばかりだったのに」
ベルナールが問うと、ザンティは握り潰した煙草の残骸をその場に捨てる。
真っ黒な砂とも灰とも取れる物体に変じたそれは、洞窟内に吹き込んだ風に煽られて跡形もなく消えていった。
「ええ、一息入れるにはもう十分だわ」
短い休憩を終え、作業を一から始めるつもりのようだった。
このあと彼女はまた新しい水晶を削り出し、長くて綿密で、気が遠くなりそうな作業に取り掛かるのだろう。
だとするならば、自分がここにいては気を散らさせてしまうかもしれない。そう思ったベルナールも、自分の仕事に向かうことに決めた。
「また煙草の差し入れ、よろしくね」
「近々持ってくるよ、それじゃ」
洞窟を後にしたベルナールは、背中にドラゴンゾンビの翼を出現させ、人間界へと向かった。




