3-3. 虚飾の宮殿
甘い香り。肉桂と丁子だ。林檎の蜂蜜煮を作っているのだろう。パンに練りこむのか、お菓子にするのか。子供が喜んで食べるに違いない。暖かい炉辺で、家族と一緒に。
ナクテの街は皇都にまさるとも劣らない賑わいだった。西部の中心都市として古くから栄えてきたため、領主館の寂れ具合からは想像もつかないほど、通りは人でごった返し、様々な匂いが渦巻いている。
フィンはその中を歩きながら、茫然と館でのやりとりを反芻していた。
五日ほど前に西方から戻ったというルフスは、疲れの取れない様子で情勢を教えてくれた。
暴動はやはり現実であった。北部との交易がほぼ途絶した沿岸の都市では、大量の失業者が溢れて治安が日々悪化していたのだ。
その一方で、貧困に陥った者を食い物にする悪質な金貸しも現れた。返済出来ないことを承知で貸し付け、なけなしの財産はもちろん借り手自身の自由や生命までも奪い取る。金貸しの餌食になりたくなければ、率先してその手先となり、より貧しく弱い者から身ぐるみ剥ぐよりほかない。
住民の不満と不安が、彼らの血税を食み続ける役人や軍団へと向かうのに、時間はかからなかった。散発的な暴動が各地で発生し、小競り合いは軍団と市民の間だけでなく、都市と近隣農村、貧者と富者、あるいはもっと些細な違いの間で、無秩序に行われた。
「西方で離散の憂き目に遭ったのならば、そうした暴動に巻き込まれたか、あるいは高利貸しにやられたか、どちらかだろう」
ルフスの沈痛な声が、フィンの脳裏によみがえる。行方を掴むのは不可能だ、と告げる暗い表情も。
「暴動の大半は鎮圧した。今のところ、目立った活動はない。……もし、お探しの者らが離散の原因となった嵐を生き延びられたなら、本来いるべき故郷で静かに暮らしているか、あるいは……奴隷として働かされているだろう」
時間の無駄だから諦めろ、とばかりの声音をまざまざと思い出し、フィンは立ち止まって空を仰いだ。
ニクスの行方を捜すのは難しいかもしれない。若い男の奴隷の行き先は千差万別だ。だがオリアなら。
(運良く難を逃れて親類の家に匿われているか、そうでなければ……ほぼ確実に、売春宿に送られているだろうな)
際立った美人ではなかったが、売り物にならぬ醜女でもない。それに何より、ファーネインがいたのだ。顔がひどいことになっていた、とタズは言ったが、そうなる前なら、売り物にしようと考えないはずがない。
不愉快な推測だったが、それが現実だ。フィンはため息をついて行く手を見据えた。
こんなご時世でも繁盛している様子の、怪しげな雰囲気に包まれた界隈。表通りからすぐに見える所はそれほどでもないが、少し奥に入れば客引きが手ぐすね引いて待っているのだろうと察せられる。
フィンはぎゅっと眉を寄せ、思い切ってそちらへ踏み込んで行った。
さすがに“竜侯様服”は着ていないものの、それでもフィンのいでたちは場違いだった。否、衣服だけなら妙でもなかろうが、昼下がりの花街を歩くのに、背筋をまっすぐ伸ばし、やけに険しい顔をしていては、奇異の目で見られもするというものだ。
しかもそのくせ、事務的な目的がある者のように迷いのない歩き方ではなく、時々立ち止まっては店の看板を見上げたり、話しかけられそうな人影を探してきょろきょろしたり。
とうとう見かねてか、好奇心に負けてか、一人の客引きが声をかけてきた。頭をつるりと剃って派手な装身具をじゃらじゃら着けた、軽薄そうな男だ。ただし、その腕にはがっちりと筋肉がついている。
「よぅ、兄さん。一大決心で童貞を捨てに来たのかい?」
からかわれたフィンは、迷惑そうに振り返る。近くの窓から身を乗り出していた娼婦が、くすくす笑った。フィンはついそちらを見上げ、艶っぽい流し目を送られて、慌てて顔を伏せた。深い意味はないと分かっていても、こういう場面はどうも苦手だ。
往来で話しても安全かどうか迷いながら、フィンは男の方へゆっくり近付いて行く。相手も、フィンが面倒な客だと察して表情を変えた。
「ちょっと訊きたいんだが。この辺りには最近、西の方から連れて来られた子がいないか?」
「なんだ、身内を捜してるって手合いか」
途端に男は剣呑な態度になった。商品に難癖をつけるんじゃない、とばかり、しっしっと手を振る。
「面倒なことになる前にとっとと帰んな。どうせいっぺん売られちまったら、取り戻せやしねえんだからよ。それとも、買い戻せるぐらいの大金を用意してるのか?」
「もし金が必要なら、調達する当てはある。ともかく先に居所を見つけたいんだ」
男の視線に不穏なものを感じて、フィンは今現在の手持ちはないと強調する口調で応じた。男は鬱陶しそうに髪のない頭を掻き、苛立ちを込めて人差し指をフィンの胸に突きつける。
「分かんねえガキだな、帰れって……」
言いかけて、声を飲み込む。己が何に怯んだのか分からぬまま、彼は困惑し、そろりと指をひっこめて、半歩後ずさった。
「なぁにやってんのぉ」
窓の娼婦が怪訝そうに呼ぶ。フィンは男を無視して彼女を振り仰いだ。
「あんたも、知らないか。オリアって名前で、ここから西にある村に行くと言っていたんだ。ここに来ているとしたら、去年の秋から暮れまでの間だと思うんだが」
「名前なんて」娼婦はぷっと吹き出した。「売られた時に別のに変えられるわよ。シルフィアだとかフェリーニアだとか、麗しいのにね。それに、西の方って一口に言っても広すぎるわよ」
「そうか……」
フィンが肩を落とすと、娼婦は面白そうな顔をして、豊かな胸を窓枠に載せるように姿勢を変えた。
「ねえ、優しくしてくれたら、ちょっと協力しないでもないけど?」
「悪いが」
無理だ、とフィンは苦笑で首を振る。女は、あら、と目をぱちくりさせた。
「お金の当てはあるんでしょ? あ、ひょっとして本当に童貞なの?」
「…………」
脱力しかかるのをなんとか堪え、フィンはうつむいて眉間を押さえる。関係ないだろう、と言い返したいものの、何を言っても笑われそうな気がする。
黙ってしまったフィンに、娼婦は悪気のない笑い声を降らせた。
「あはは、ごめんなさいねぇ。そんな初心なのに、彼女のために慣れない場所まで来ちゃって。可愛いわぁ、一途ねぇ、いいわねぇ」
「おい! べらべら喋ってんじゃねえ!」ようやく男が虚勢を取り戻して怒鳴った。「小僧、おまえも買う気がねえならさっさと失せろ! 商売の邪魔だ!」
「ああ」
フィンは逆らわずに、軽く手を上げてその場を離れた。やりとりを見ていた通行人や他の客引きが、にやにやしているのが分かる。やれやれだ。
表通りの近くまで戻ってから、最後にもう一度振り返った。華やかで妖しげで、人を惑わし誘い込む魅力を持った街。ファーネインもここに来ていたかも知れないのだ。
(ファーネインなら、虜になったかもしれないな)
新しい服を見せびらかし、特別扱いを当然と受け止めていた少女の姿を思い出すと、苦い微笑が口元に浮かんだ。彼女ならこの世界を気に入ったかもしれない。虚飾と見抜く目がなければ、美しくきらびやかな店は宮殿にも見えよう。
だが、何も知らず春をひさぐことになるのと、心身に癒し難い傷を負って秘境へ逃げ込むのと、どちらがましな成り行きだと言えようか。
(……どっちにしろ、本人次第だってことか)
フィンが手を離そうと離すまいと、最後は結局、本人の心と行いにかかっている。彼女の不幸はフィンの責任ではないし、逆に言えば、幸福になったとしてもフィンの手柄ではないのだ。
ようやく諦めをつけると、フィンは改めて、さてどうするかなと思案した。ファーネインを思い出したおかげで、幼女を買い取る店を当たれば何か手がかりがあるかも、とは気付いたものの、どうすればそんな店を探せるか、見つけてどう聞き込みをすれば良いのか、さっぱり分からない。
(人買いの仲介屋でも見付かればいいんだが)
まさか、どこで子供の奴隷を売っていますか、と訊くわけにもいかない。帝国の法では元来、奴隷として扱う人間には制限があるのだ。国家に対する反逆者、理由なく税を滞納した者、脱走兵、その他諸々の犯罪者。そして、それらの両親をもつ子供――ただし十五歳までは両親と別に売買することは許されない。
いかに昨今、もはや公然と人身売買が行われているといったところで、やはり罪は罪である。ましてや、フィンのようにどこからどう見ても堅気の若者が首を突っ込めば、警戒されて蹴り出されるのがオチだ。
さっぱりいい考えが浮かばず、フィンは困り果てて頭を振った。と、
〈フィン、この街にあの二人はいないみたい〉
意外にもレーナがそう言った。フィンは驚きに息を飲み、それから慌てて近くの壁にもたれかかって、考え事をしている風情を装った。
〈どうして分かるんだ?〉
〈だって、知らない色ばかりだもの。フィンは見えない? ほら〉
当たり前のような声音と共に、フィンの意識は前触れもなく開かれ、街に溢れる数多の意識がどっと流れ込んできた。
色と光と影、つぶやき、声、叫び、緩急も方向も太さも様々な何かの流れ。
「ぅわ……っっ」
眩暈が襲い、上下左右も分からなくなる。気を失いかけた時、
〈フィン、こっちよ〉
白い光が彼を導いた。もつれた毛糸の塊のようだった意識の群れが、するりとほどけてフィンを通す。一瞬にして彼は渦を抜け出し、硝子越しに見るように数多の意識を見下ろしていた。
――海だ。
フィンは呆然とそう考えた。皇都を初めて見た時に、人々を魚群のようだと感じたのと同じ。今度はもっと広い範囲を眺めている。
レーナの意識が傍らに現れ、微笑した。
〈フィンは何でも海にたとえるのね〉
言われて見下ろすと、最前までの混沌とした色や声の渦は、見慣れた――少し賑やか過ぎるにしても――海の光景に変わっていた。
〈これが……この街の人達なのか。この中から、オリアとニクスを捜すのか?〉
困惑してフィンは視線をさまよわせる。二人の意識がどこかに紛れ込んでいるとしても、魚になっているのでは見つけようがないではないか。
〈ここにはいないと思うけれど。フィンはその二人のこと、私よりよく知っているもの。思い出して。分かるはずよ〉
レーナが優しくささやく。フィンは魚群に気を取られないように、求める二人の姿に意識を集中させた。お菓子を焼いてくれたオリア。一緒にコムリスの街を歩いた時の記憶。俺が一緒に行くよと言ったニクス。最後に手を振って別れた時の笑顔……
気付くとフィンは、意識の海に両手を浸すようにして、二人の存在を捜していた。指先に触れる数多の意識に、フィンの記憶に反応するものはない。
〈本当だ。いないな〉
フィンは確信し、手を引く。同時にすうっと不思議な光景が薄れ、彼は元の路地に立っていた。壁にもたれて、じっと考えている姿勢のまま。
〈レーナ、いつの間にこんなことが出来るようになったんだ?〉
〈少し前から。皇都の人の多さに慣れてきた頃、空に上がればもっと楽なんじゃないかって気付いたの〉
〈なるほど。確かに〉
人込みに揉まれていたのでは右も左も分からないが、塔に登って見下ろせば、町全体が把握できる。そういうことだろう。
フィンは少し可笑しくなって、口元を緩めた。自分が海を連想するのに対し、レーナはごく自然に、空から見下ろすことを考える。今更だが、やはり彼女は竜なのだな、などと思うと奇妙に面白かった。
彼のそんな感情を察して、レーナが首を傾げるのが伝わる。フィンは、なんでもない、というように小さく首を振った。
〈さてと、二人がこの街にいないと分かった以上、長居する必要はないな。西へ向かいながら、時々この方法で二人を捜そう〉
〈そうね〉
レーナが同意し、今にもフィンを連れて飛び立ちそうな気配を見せる。フィンは慌ててそれを止めた。
〈その前に、街でいくつか用を済ませておくよ。人間は色々不便だから〉
おどけて言い、食事のできる店を探しながら歩き出す。領主館を訪れる前に公衆浴場で入浴はすませたが、気が急いていたので何も腹に入れていなかったのだ。それに、出発前にパンと干し果物ぐらいは用意しておきたい。
屋台や食堂の並ぶ一画を遠目に見つけて急ぎ足になったフィンに、レーナが遠慮がちな声をかけた。
〈人間って、私たちとは色々違うけれど……〉
〈うん?〉
〈つがいの経験がないのは、駄目なの?〉
ゴツン!
向かいから来た物売りを避け損なって、フィンは天秤棒の端でまともに額を打った。
「あんちゃん、大丈夫か? 目ェ開けて寝ながら歩ってんじゃねえぞ!」
形ばかり心配して、物売りは威勢良くたったか足早に去って行く。フィンはその場に座り込みたいのを堪え、どうにか道の脇にひっこんだ。あまりの痛みと動揺で、目に涙がにじむ。
〈何を言い出すんだ!?〉
〈だって、童貞って、そういうことでしょ?〉
「~~~~っっ」
言葉にならない唸りを漏らし、フィンは居酒屋の壁に額を押し付けた。
〈つがいの相手がいないのは、そんなに恥ずかしいことなの? フィンは結婚していないんだもの、当たり前だと思うんだけど。どうしてフィンが、あんな風に居心地悪い気分にならなきゃいけないの?〉
〈……人間は、色々ややこしいんだよ〉
絞り出すように答え、フィンは額を押さえてとうとうしゃがみこんでしまった。
孤児院にいた頃、年上の兄達の“武勇談”を聞かされたことは何度もある。多感な年頃に、街の娘からあからさまな誘いを受けて少し触れ合ったことも数回。だが、それ以上の経験はない。
フィンにしてみれば、何の資産も後ろ盾もない孤児の少年が好奇心と情欲のままに振る舞うなど、あまりにも軽率に思われたのだ。相手の家族に知られたら、大問題ではないか。もっとも、思い返せば当時の“兄”達も齢十五に手の届かぬ子供であるから、街で仕入れた話をさも実体験のように装っただけだろうが。
事実はどうあれ、つまり、世間的にはそうした見栄の方が大事ということだ。表向きは身持ちの固さが称揚されるが、陰での評価は“経験豊富”な方が高い。恐らくは、産み、殖えようとする本能を持つがゆえに。
(ああそうか、根本的に違うんだ)
頭を冷やすためにあれこれ考え、フィンはひとつの推論を導き出した。
〈そもそも竜は数が少ないんだったな。きっと人間と違って、じっくりゆっくり時間をかけて、一人だけの相手を決めて、子供も一人か二人かだけ大事に育てるんだろう。違うかい?〉
〈人間は、そうじゃないの?〉
〈……まあ、色々あるんだよ……。そのうち君にも分かるさ〉
手当たり次第に女を口説いて押し倒す男がいるだとか、政略や経済的な理由で何度も結婚と離婚を繰り返す女がいるだとか、そんな話をしたらレーナは目を回すだろう。
幸い、レーナはいまいち納得できない風情ではあるものの、それ以上この話題を続けようとはしなかった。
(やれやれ、助かった……)
フィンはどっと疲労が押し寄せるのを感じながら、よろよろと再び歩き出した。




