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灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
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3-2. 老いたりと若きと

 フィニアスとレーナがナクテに着いた日は、冬空ながら晴れ間が広がり、白っぽい太陽の光を受けてオルヌ川がきらめいていた。岸の土手には水仙が緑の葉を伸ばし、まだ小さな蕾を大事に隠すように抱いている。暗く厳しい毎日の中にも季節は確かに移り変わっているのだと教えられ、フィンはささやかな発見に表情を和らげた。

 が、藍色の目に浮かんだ穏やかな光も、領主館に向けられた途端に翳った。

「……判断を誤ったかな」

 小さく口の中でつぶやく。脳裏をよぎったのは、先日タズに頼まれて遠くから見た魔術師だった。あの時は確かに、危険だとは思えなかった。薄暗くこそあれ闇ではなかったし、何か人並み以上の力を持っているとも見えなかった。

 だが今こうして、街と向かい合って小高い丘に建つ領主館を目にすると、その記憶を疑いたくなる。青空の下にもかかわらず、彼の目に館は暗く闇に覆われて見えた。

 せめて、監禁はしないまでも用心は怠るな、と警告しておけば良かったかもしれない。

(いやそれとも、この闇はあの魔術師とは関係がなく、館に巣くっているものなのかもしれない。どちらにせよ、一度行ってみなければ分からないか)

 気は進まないが致し方ない。フィンは街に一瞥を投げてから、畑の間を縫って館へと続く小道を、ゆっくり歩き出した。

 オリアとニクスの行方について、領主に質問をするわけではなかった。そうした情報なら、街で聞き込みをすれば済む。だが自分があれこれ聞きまわっていることが知れたら、セナト侯は皇帝の差し金かと疑いを抱くだろう。

 フィンとしては、セナト侯の贈り物を断った一件以来、顔を合わせるのがどうにも気まずいのだが、挨拶をせずに素通りすることは出来ない。

〈君は来ない方がいいな〉

 フィンが言うと、可笑しそうな気配が心の中に返ってきた。

〈闇の中へ光を持たずに行くの? フィン、私はもう封じられて無力だった頃とは違うのよ〉

〈それは、そうだが……〉

〈どこへ行くのも、一緒よ〉

 姿は消したまま、ふわりと暖かな気配が寄り添う。フィンは苦笑し、小さくうなずいた。

 だが結局のところ、それほど警戒する必要はなかったのかもしれない。近付くにつれて闇は薄れ、領主館は光に晒されて古さがあらわな為にうら寂しいだけの、いたって普通の建物へと変貌していった。

 規模の割に使用人が少なく、庭も手入れが行き届いていない。玄関から応接室へ通された時も、物音や話し声がまるで聞こえなかった。フィンは落ち着かない気分で壁画を見回し、突っ立ったまま小首を傾げた。

〈おかしいな。見間違いの筈はないんだが〉

〈私にもよく分からない。どこかに闇があるのは感じられるのだけど、近付いたら近付いた分だけ、遠ざかってしまうみたい〉

 レーナの気配も困惑気味だ。フィンが無意識に腰の剣へ手をやると同時に、廊下を小さな足音が近付いてきた。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 静かに現れてお辞儀をしたのは、背の高い金茶髪の女だった。フィンが慌てて礼を返すと、彼女は急かされるように言葉をつないだ。

「お初にお目にかかります。私はフェルネーナ、セナトの母でございます。じきに父が参りますわ。フィニアス殿、皇都でセナトにお会いになられましたか? あの子は息災ですか、何事もありませんでしたか」

 時間と人目を気にするような矢継ぎ早の質問に、フィンは面食らいつつも余計な口上を省いて簡潔に答えた。

「ご無事でしたよ。怪我も病気もなく、危険な目に遭うこともありませんでした」

 その返事を聞いてやっと人心地ついたように、フェルネーナはほっと胸をなでおろした。

「……そうですか。ありがとうございます、あの子がナクテを離れてからというもの、不安で堪らなかったものですから」

(しかもあんな不気味な者を連れて)

 彼女の懸念が、声にかぶさるようにささやく。フィンは「大丈夫です」としっかりした口調で応じた。

「セナト様には賢明な侍女もついていましたし、皇帝陛下もあの方に含むところはありません。私の友人も、セナト様のそばにいて何かと目配りをしてくれています」

「ああ、そうでしたわね」

 フェルネーナは安堵した様子で小さく相槌を打っていたが、タズのことについては、賛同の言葉を口にするのをためらった。そぶりに表れた彼女の内心を読み取り、フィンは失笑を堪えて真顔を取り繕う。

「タズは私の幼馴染です。お調子者のように見えますが、信頼できる誠実な人物ですよ。保証します」

「あら……ええ」

 フェルネーナは心中を言い当てられて目をそらし、もちろん承知していますとも、とばかりにうなずいた。

 気まずい沈黙が降りるより早く、軍隊調の足音が尊大に近付き、姿を現したセナト侯が咳払いをした。フェルネーナが素早く脇に避け、頭を下げる。セナトは娘に冷ややかな一瞥をくれてから、フィンに歩み寄った。

「よくぞ来られた、フィニアス殿。先日はご招待が叶わなんだが、ようやくもてなしを受ける気になられたかな」

「お久しぶりです、竜侯セナト閣下。ご健勝のようで何よりです」

 フィンは丁寧に挨拶をし、深く一礼した。だが顔を上げた時には、表情だけではっきりと、ここへは自分の用事で来たにすぎない、と告げていた。

「温かいお心遣い、ありがとうございます。ですがナクテへは人を捜しに参りましたので、無礼は承知ながらご招待はお受けしかねます。街であれこれと聞いて回ることになりますが、侯のお手を煩わせることは致しません」

「人捜し、だと?」

 またしても厚意を断られ、セナトは不快げに眉を寄せた。フィンはもう一度頭を下げ、はい、と答えた。

「昔の仲間が、ナクテの西方で災難に巻き込まれた様子なのです。一刻も早く見つけ出し、生きているならば助け出さねばなりません。どうかご理解を賜りますよう」

「…………」

 セナトはむっつりとフィンを睨んでいたが、ややあってふんと盛大に鼻を鳴らし、フェルネーナに顎で命じた。

「ルフスを呼べ」

 使用人扱いされてフェルネーナは顔をこわばらせたが、賢明にもこの場では口をつぐみ、さっと部屋を出て行った。

 不審顔のフィンに、セナト侯は感情の読めない目を向け、素っ気なく説明した。

「和平協定が結ばれた後、西方での暴動鎮圧に第四軍団が出向いたことは、ご記憶だろう。ルフスならばあちらの状況に詳しい。何なりとお尋ねになるが良い」

「ありがとうございます」

「礼には及ばぬ。竜侯自ら捜索に出るとは、よほど大切なお仲間のようだ」

 ちくりと言われたのは皮肉なのか詮索なのか。フィンは相手の真意を測りかね、ただ曖昧にうなずいた。事実は単に、人を探すなら自分が一番身軽だというだけなのだが、いちいち侯の発言を訂正して、ただでさえ良くない心証をさらに悪化させる必要もあるまい。

 そのまましばらく、居心地の悪い沈黙が続いた。早くフェルネーナが戻ってこないかとフィンが廊下に目をやった時、不意にセナトが口を開いた。

「竜侯の力とは、どのようなものかね」

「……は?」

 どのような、と問われても簡単には返答しかねる。フィンは目をしばたき、相手の意図を推し測ろうとした。セナトは鉄錆色の目でフィンを見据え、質問を繰り返す。

「人を遥かに凌ぐ力を手に入れて、どんな気分だ?」

 口調は静かだったが、その奥には熱情がたぎっていた。暗く深く、飢え(かつ)えた切望の熱。渦巻く底なしの淵に身を乗り出したような気がして、フィンは思わず後ずさった。

「あまり……変わったようには、思いませんが」

 なんとか言葉を押し出し、侯と己を隔てる防波堤にする。だがセナトはさらに切り込んできた。唇の端に嘲笑の気配を浮かべて。

「そんな筈はあるまい。古の大戦と同じ力を振るうことは叶わずとも、東のエレシアとて人を焼き尽くすぐらいは出来るのだ。三柱の神に属する天竜の力を得たそなたが、何も変わらぬなどとは。それが本心ならば、そなたは既に変化を感じられぬほどに人ではなくなった、ということだな」

 さらりと酷な一撃を加えられ、フィンはうっと怯んだ。渋々引き下がり、相手の言い分を認める。

「もちろん、少しは変わりました。ですが私が授かったのは、ごくささやかな力です。感覚が鋭くなったり、寒さに強くなったり。闇の獣を遠ざけておけることが、一番の恩恵です」

「己を卑下し、力を過小評価するものではない」

 セナト侯の声が、重く巨大な斧となってフィンに降りかかった。

「何であれ力は力だ。使わぬまま腐らせるのも、価値と使い方を弁えず空費するのも、共に罪悪だぞ、竜侯フィニアス。そなたも皇都で目にしたであろう。国政における力を有しながら、下らぬ使い方しかせぬ者どもを。力を持たぬことを理由に、卑小な世界に安住して恥じぬ、女々しい者どもを。そうした愚物によってこの国が毒されてゆく有様を」

 言葉は次第に唸りへと変わってゆく。怒りと屈辱、失望と見限りが、暗闇の底へと渦を巻く。フィンは凝然とそれを見ていることしか出来なかった。吸い込まれた諸々の感情が、次には復讐の怨念となって噴出し、セナト侯の周囲にとぐろを巻く。

「そなたは稀なる竜侯としての力を得たのだ。ゆめ粗末にするでないぞ」

(ならばいっそ、わしが奪ってやる)

 表面的には、年長者が真摯に与えてくれた貴重な忠告である。だが、フィンの目には異なる表情が映り、耳には別の声が響いていた。

 長きにわたって積もり積もった恨みと失望。その虚無を埋めるに、軽蔑と怒りに復讐心を加えてなお足りず、力を求めて飢えた手が伸ばされる。

 フィンは幻の手から逃れたいのをごまかして一歩下がり、深く腰を折って一礼した。

「お言葉は肝に銘じます」

「うむ」

 セナトの方はまさか己の内心が暴露されているとは夢にも思わず、ただ重々しくうなずいただけだった。暗い渦が薄れ、ゆっくり消えてゆく。

 ルフスはまだ現れない。場の空気が緊張する。と言っても、むしろセナト侯の方はフィンに圧力をかけている状況に満足している風情ではあった。フィンは身の置き所がない気分で爪先に視線を落としていたが、ややあって意を決し、顔を上げて口を開いた。

「僭越ながら、ひとつお尋ねします。セナト様はご自身の力をどのように使われるおつもりですか」

 単刀直入な問いに、セナトは呆れたのか驚いたのか、眉を少し上げる。フィンは薄氷を踏む思いで続けた。

「閣下のご令孫であるセナト様がヴァリス帝の養子として継承権を得た今、閣下のお力は今までよりもなお強まっています。それを、どう行使されるのでしょうか」

 出来ることなら、セナト侯に覇権を狙って欲しくはなかった。本国が安定していさえすれば、誰が皇帝だろうと、ノルニコムが独立しようと、構わない――そう考えていたのだが、眼前の男の暗い内面を見てしまった今では、同じことを言う気になれなかった。

(絶望の支配する国など、衰えゆくだけだ)

 彼の心には希望の光がなく、彼の目は過去だけを見ているかのようだった。そんな男が皇帝になれば、何が起こるだろう?

 フィンが不安を押し隠して返答を待っていると、セナトは無感情に言った。

「いよいよそなたも、貴族としての振る舞いを始めようというのかね。それにしては随分荒っぽい外交だと言わねばならんが」

「そうではありません。私はただ……本国が、健全であって欲しいだけです。北の地を闇の獣から取り戻しても、かつてのような豊かさは望めないでしょう。復興には時間がかかるでしょうし、その間は本国からの支援が必要です」

「ほう? どうあってもそなたは北部に執着するのだな」

 真意を探ろうとするように、セナトはすっと目を細める。フィンは本心から深くうなずいた。

「故郷ですから。それに、あそこには今もまだ、暗闇と絶望を相手に戦い続けている人々がいるはずです。それを見捨てて安穏と暮らすことは出来ません。……力があろうとなかろうと、関りなく」

「…………」

 しばしの沈黙。そして、不意にセナト侯は、ふっと小さく笑った。厳しいながらも温かい、一種のひねくれた敬意が目元にあらわれる。フィンが驚いていると、侯はにやりとしてうなずいた。

「そなたほど自己中心的な若者も珍しい。行く先に瓦礫の山しかないと知りつつなお進むか。好きにせよ、灰と化した故郷に己が王国を築くが良いわ」

 無謀で無益で非現実的な夢だと嘲笑した、あるいは、王国を気取ろうとも実情は貧しく無力な土地でしかないぞと皮肉で牽制した――そう解釈し得る言葉。だがフィンは、侯の感情にそうした棘がないことを感じ取った。

 嘲笑でも皮肉でもない。といって、賞賛されたのでもなく、好意を持たれたわけでもない。まるで対等の相手として認められたような、複雑で奇妙な印象を受けた。

 何と応じるべきか分からぬまま、フィンは黙って深く一礼した。そうするのが相応しい気がしたのだ。

 下げられた頭に向けて、セナトが独り言のように続けた。

「既に病み果てていると知りつつ、わしもまた目指すところへ進む。腐れた肉を取り除かば、命が蘇るかは知らぬがな」

 フィンが顔を上げると同時に、ルフスが部屋に入ってきた。セナトは娘婿を振り向くと、フィニアスの力になれと命じて、入れ替わりに立ち去る。

 廊下へと消える背中を見送り、フィンはしばし身じろぎもせず立ち尽くしていた。




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