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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
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5-6. 仮初の和平


 その夜、宴の後でそろそろ皆が客室に引き取ろうかという段になって、セナトが「しばしお待ちを」と一同を引き止めた。

 何かと訝る目を楽しむように、セナトは薄笑いを浮かべ、召使を呼ぶ。持ってこさせたのは、一振りの剣だった。

「竜侯フィニアス殿」

 丁寧な呼びかけには、奇妙なことに尊敬の念らしいものがこもっていた。フィンが不審げに眉を寄せると、セナトは自ら剣を捧げ持ってフィンの前に立った。

「竜侯には相応しい剣が必要であろう。昼間、わしの迂闊からグラウス将軍に傷を負わせてしまうところであったが、貴殿はそれを見事に救ってくれた。これはその礼だ。我が家に伝わる名剣で、かつて魔術師が鍛えたとされておる。そなたのように若く力のある者が持つに相応しいであろう」

 思いがけない贈り物に、フィンは驚いて正直に目を丸くした。咄嗟に礼の言葉も出てこず、信じられない気分のまま、差し出された剣をまじまじと見つめる。

 いったい何で作られているのか、素材が判別しづらい(つか)だった。鞘は恐らく作り直されたのであろう、革製の、それほど古くはない馴染みのある拵えだったが、謎めいた柄とは明らかに釣り合っていない。手に取るまでもなく、柄と刀身から力が放たれているのが感じられた。

〈何の力か、君には分かるかい〉

〈精霊の力……いえ、精霊そのものよ〉

 答えたレーナの声は、おぞましさに震えていた。

〈古い魔術の技で鍛えられた剣。精霊そのものを刃に変えてしまうの。だから決して、刃こぼれしないし、折れもしない。私達の力を注いでも耐えられる〉

〈惨いな〉

 フィンは短くつぶやいた。詳しく説明されるまでもなく、想像がついたのだ。青銅や鉄といった普通の鉱物を鍛えるのではなく、そこに人ならぬものの命を注ぎ込み、熔かし合わせる――鍛冶師と魔術師によって造られた剣は、さぞ素晴らしいものだったろう。出来たばかりの時は光り輝いていたかも知れない。武器を手にして戦う者ならば、一度は使ってみたいと思わせる逸品だ。

 その魔力が、今も眼前の剣には残っていた。抜いてみたい、柄を握り、振ってみたい。剣の正体に気付いたフィンでさえ、その誘惑に心がぐらつく。

 だが、手にすればおぞましい寒気に襲われるだろう。この剣は、かつて人間よりも神々に近いところにいたものの残骸――自我を失いただ殺めるための“力”に成り果てた死霊なのだから。

 フィンは気詰まりな周囲のまなざしを無視して、剣を前にしたまま黙考した。とうとうセナトが痺れを切らして、じれったそうに催促する。

「どうした、遠慮せずに取れ。この剣で、これからも皇帝陛下と将軍をお守りするが良い」

 そう言われて、フィンは思わずほっと息をついた。断る口実が出来たからだ。

「ご厚意は大変ありがたく存じます、セナト閣下」

 彼は顔を上げ、まっすぐにセナトを見据えて言った。

「ですが、この剣は頂けません。私は、皇帝陛下や、あるいは閣下のために、剣を振るうつもりはありませんので」

「……なんと」

 断られるとは予想外だったらしい。しかも、そんな理由でとは。セナトは絶句し、穴の開くほどフィンを凝視した。彼だけではない、ヴァリスとグラウス、それにルフスも、驚きに目をみはっている。フィンははっきりと繰り返した。

「閣下もご承知でしょうが、私は誰の臣下でもありません。私が戦うのは、故郷を失った人々、己が身を守る術を持たない人々を、闇の牙から守るためです。城砦と兵士に守られた皇帝陛下や竜侯閣下のためではありません」

 それは、自分自身に対する宣誓でもあった。改めてフィンは、己の目指すもの、歩む道を自覚し、背筋を伸ばす。

 貴人たちが呆然としている間に、フィンは深々と頭を下げて一礼した。

「青二才の生意気とお思いでしょうが、どうぞご容赦を。失礼致します」

 潮時でもあったし、ぐずぐずしてセナトに贈り物を引っ込めるという恥をかかせたくもなかったので、フィンは退去の許しを得もせずに、一方的に言うだけ言って部屋を出て行った。

 残された面々はしばらく呆然としていたが、ややあって、グラウスが小さく苦笑をこぼした。参ったというように首を振りながら、皇帝に悪戯っぽい目を向ける。

「なんとまぁ。よくも鮮やかに言い切ったものだ。我々全員が袖にされましたな、陛下」

「さればこそ、立会人としては信が置けよう」

 ヴァリスは動揺から立ち直り、さらりと何でもない事のように応じる。彼はセナトと目が合うと、いつもと同じ、静謐な表情に穏やかな口調で言った。

「セナト侯、あの者が我々の手駒でないと、これで納得して頂けただろうか。ならば、そろそろ本題に入る頃合だと思うのだが」

「……左様ですな」

 セナトはやや不機嫌に同意し、剣を召使の手に戻しながら、明日には協議を始めましょう、と約束した。抑制されたその態度にどれほどの怒りが隠されているのか、その場にいた者の中で、正確に把握しているのはルフスだけであった。


 クォノス滞在四日目、やっと皇帝とナクテ竜侯との和平協議が始まった。

「和平、というのも奇妙なことですな」

 皮肉と阿諛の入り混じった声音でセナトが言ったが、確かにその通りではあった。事実としては、ヴァリス帝とナクテ竜侯とは、一度として交戦状態になっていないのだ。

 協議の場では皇帝とセナトが向かい合って座り、その二人を横から見る形でフィンの席が用意された。グラウスとルフスがそれぞれの主の傍らに立っているのに、まるでフィンの方が格上かのように座るのだから、椅子が氷製のように感じられるのも、むべなるかな。

(形式的なことだが、今はそれが重要なんだ)

 フィンは自分に言い聞かせ、ルフスとグラウスに申し訳なさそうな目を向けないよう、ぐっと自制した。が、そっと二人の顔色を窺うことまでは堪えられなかった。

(……ん?)

 一目でルフスの様子がおかしいと気付き、フィンは眉をひそめた。どこか具合が悪いのか、血色が悪く、表情も少し苦しそうだ。心配になって問いかけようとしたが、より早く、その理由が見えてきた。

 昨日に見えた灰色の影とは違う、明らかにルフス本人の感情と分かる靄が、炎となって足元からゆらゆら立ち昇る。体の横で握り締められた拳が、それを阻むかのように押し返していた。

 はっきりした声や光景は現れなかったが、彼が怒っているのは確かだった。その対象は、竜侯セナト。どうやら昨夜、激しく言い争ったらしい。

(そして打ち負かされたわけか)

 二人の態度を見れば、どちらが勝者かは明らかだ。分からないのは、何の件で言い争ったのかということ。昨日の“迂闊”のことか、それとも今日行われる何らかの事柄についてか。

 フィンが軍団長を観察している間にも、協議は着々と進んでいた。

 互いに剣を向けないこと、兵力や物資の援助要請に応じること、その際の細かな条件や具体的な数字……そして、最も重要な問題が俎上に載せられた。

「では、改めて小セナトを皇帝陛下の養子とし、後継者に指名なさるのですな」

「そうだ。先帝フェドラスは我が父を殺害して帝位を奪った咎人だが、小セナトには関わりのないこと。フェドラスの決めた事柄とはいえ、取り消すには及ぶまい。この先、余が妻を迎え子をもうけても、小セナトが第一後継者であることは変わらない」

「しかし、肝心の当人がまだ見付かっておりませぬが」

「引き続き捜索に力を尽くそう。あまり接する機会はなかったが、聡明な少年であったゆえ、我々が協定を結んだと聞けば自ら姿を現すことも考えられる」

 お互い、既にほぼ居場所を特定していることは、おくびにも出さない。

 セナトは孫の安否に心を揺れ動かす様子もなく、いたって平静に不吉な可能性を口にした。

「仰せの通りながら、孫は既に噂を聞くこともかなわぬ身になっておるやも知れませぬ」

 それを言ってはおしまいだ、と、駆け引きに疎いフィンでさえ思った。ルフスがさらに強く拳を握り締める。セナトは背後のどす黒い感情に気付いていてかおらずか、口の端を歪めて笑った。

「その場合は、我が娘を陛下の妻に、ということでよろしいか」

 静かな驚きが、一同の声を奪った。降りた沈黙があまりに深かったので、フィンはルフスの歯軋りが聞こえたような気がした。

「……フェルネーナ殿は、ルフス軍団長の奥方と心得ているが」

 用心深くヴァリスが確かめる。セナトは瑣末事だとばかり、あっさりと手を振った。

「軍団長の妻と皇帝の妻、どちらが娘にとって良いかは問うまでもないこと。ルフスも離婚には同意しております」

「…………」

 とてもそうは見えないが。

 誰もがその一言を飲み込んだ。フィンはルフスをまともに見られず、黙ってテーブルの木目を睨んでいた。

 ややあってヴァリスが答えた。

「性急に決めるべき事柄ではないな。小セナトは行方知れずだが、遺体が見付かったわけでもない。早々に諦めては哀れというものだろう」

「確かに。しかし娘も、いつまでも子を産めるわけではありませぬぞ」

 あからさまな言葉に、ルフスの顔が赤黒くなる。彼が今にも背後から主を刺し殺しそうな形相をした途端、不意にセナトが振り向いた。その一瞥だけで、ルフスは凍りついたように青ざめ、力なく肩を落とす。

 不快な場面を見せられて、ヴァリスはわずかに眉を寄せた。

「一年だ。一年後にまだ小セナトが見付かっていなければ、改めて協議する。それまでこの問題は保留にする。急いて娘御を夫君と引き離すことはない」

 一年が長いか短いか、セナトはふむと思案したが、じきに「良いでしょう」とうなずいた。その声音を、一年ぐらい待とう、というよりも、何とでもやりようはある、と聞き取ったのはフィンだけではなかったが、誰もそのことは口にしなかった。

 重苦しい空気のまま、すべての条件が検討され、承認を得て、協定の内容がまとめられた。羊皮紙にそれが清書される間、しばしの休憩を挟んで、いよいよ締めくくりの場がやってきた。

 兵営の正面、普段は閲兵などに使われる広場に、ずらりと兵士が整列する。第四軍団のクォノス駐屯部隊、皇帝とグラウスがそれぞれ連れてきた兵、それに比べて滑稽なほど貧相で人数も少ない北部天竜隊。彼らすべてがこの協定の証人というわけだ。

 設えられた壇の上で、皇帝とナクテ竜侯とがそれぞれ署名と誓約を行うと、最後にフィンが進み出た。

「ディアティウス帝国皇帝ヴァリス=グラアエディウス=ゲナシウス、およびナクテ竜侯セナト=アウストラ=イェルグ、両名の間に取り交わされた協定に、我、天竜侯フィニアスが立ち会う」

 明瞭な声が告げると同時に、空中に細かな光の粒子が舞い、突如として風が巻き起こった。巨大な翼を羽ばたかせ、白い竜がその姿を現したのだ。

 どよめきが広場を揺るがす。グラウスとヴァリス、ルフスやセナト侯までもが、流石に驚嘆を隠せず竜の威容を仰ぎ見た。

 フィンは騒ぎがおさまるのを待ったが、なかなか静かにならないので、仕方なく声を張り上げた。

「我は天竜と共に、この協定が遵守されるよう見届ける!」

 途端、水を打ったように広場が静まり返る。フィンはゆっくりと、皇帝とセナトの顔にまなざしを当ててから、レーナの金の双眸を見上げた。

「両名が誓いを破らぬように。協定に背きし者に、天神デイアの制裁が下らんことを」

 重々しくそこまで言うと、フィンは証書の末尾に自分の名を記した。飾り文字の麗々しい署名ふたつに並ぶと、あまりに素っ気なくて何かの間違いかと思うほどだが、致し方ない。

 フィンが署名を終えて一歩下がると、レーナが姿を消し、広場は再びどよめく声に埋め尽くされた。歓声だか、ただの喧騒だか分からなかったが。

 グラウスが形式的に協定の締結を述べ、皇帝とセナトが握手を交わしたが、兵達のほとんどは、それよりも奥に立つフィンに注目していた。

 本物の竜侯が現れたことへの、不安と興奮。彼ならば東のエレシアにも勝てる、という先走った期待。様々な感情が怒涛のように押し寄せ、耐え切れなくなったフィンは、見苦しくない程度に早々と、その場を離れて人気のない場所へと退散したのだった。


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