5-2. 逃亡(2)
同じ頃、ネリスは神殿から出ようとしたところを、祭司フェンタスに止められていた。
「どこへ行くんだね?」
問う声音は不安げだ。ネリスはいつも通りに笑って「ちょっとお使いです」と答えたが、嘘を見抜かれたと直感し、真顔になった。フェンタスは勘が鋭い。それはネリスやフィンのように特殊な力があるゆえではなく、日々多くの人間を相手にし、また細心の注意を払って薬を調合・処方してきたことによって培われた観察力のゆえだ。
ネリスは視線を落とし、少し考えてから、静かに言った。
「……祭司様には、本当に感謝してます。何も持たずにぼろぼろでここまで来たあたしたちに、親切にして下さって。でも、どうか……見逃して下さい。孤児院の子供たちに対して、少しでも罪悪感があるのなら」
ささやきに近い一言に、フェンタスがぎくりと怯んだ。やはり知っていたのか、とネリスは残念な思いで見つめる。祭司が目をそらしたまま黙っているので、ネリスは続けた。
「フィン兄が言ってました。孤児を斡旋することはナナイスでもあったし、ちゃんとした扱いをされるのなら、子供にとっても悪いことじゃない、って。頭のいい子が裕福なお屋敷で難しいことを学べるようにしたり、仕事を手伝える子供が欲しい人には特に丈夫な子を回したり……フィン兄だってそうです」
「君たちは実の兄妹ではなかったのかね」
思わずといった風に、フェンタスが驚きの声を漏らす。ネリスはうなずいた。
「院長先生がうちの両親に紹介してくれたんです。ほかにも同じくらいの歳の、粉屋で働けそうな子はいたらしいんですけど」
フィンが初めて家に来た日の事はよく覚えている。あまりに“出来た子”だったので、自分たちの家族にはなれそうにない気がしたものだ。案外じきに馴染みはしたものの、さすがに院長も心配だったのか、その後も何度か両親と面談している。
(そういえば一度、町から帰って来た父さんの顔が、すごく怖かったことがあったっけ……おっと、いけない)
ネリスはつい回想に耽りそうになり、慌てて意識を引き戻した。
「フェンタス様。ここにはここなりの、事情や理由があるんだとは思います。でも、ごめんなさい。あたしたちはあたしたちの事情があって出て行きますけど、酷い目に遭うと分かってる子供を置き去りには出来ません」
頭を下げたネリスに、フェンタスは沈痛な面持ちで訊いた。
「全員を連れて行くつもりかね」
「まさか。いくらなんでもそれは無理です。それに、フェンタス様は奴隷商人じゃないと信じてますから。特別でない子まで、お金のために売ったりはしない、って」
「ファーネインか」
致命傷を受けたようにフェンタスが呻いた。ネリスは予想外の苦痛を与えたことに驚き、目をみはる。ほんの束の間に、フェンタスは十年分一気に歳を取ったように見えた。
ネリスの胸に恐怖が兆した。まさか、あの男はそれほどに強大な存在だったのか。自分達は、腐った金持ちから無垢な子供を助けたのではなく、冥府の王から死者の魂を盗むような真似をしたのでは?
彼女の恐れを読み取り、フェンタスは小さく頭を振った。
「そんな顔はよしなさい。君には何の罪もないのだから」
「でも」
「ニアルドはディルギウス司令官の義理の甥だ。そうなる前からも、あの家からは長年多額の寄付を受けていて……私も薄々気付いてはいたのに、報復を恐れて逆らえなんだ。しかし、罪は罪。裁かれて当然だ。未来の希望たる子供たちを、穢れた欲望の餌食になると分かっていて差し出すなど」
既にその裁きを受けたかのように、フェンタスはうなだれ、片手で顔を覆った。そして、残る片手で、気遣って近寄りかけたネリスを制した。
「行きなさい」
「フェンタス様……」
「早く行きなさい。そして、……頼む、振り返らないでくれ」
懇願する声は力なく、嗚咽を堪えるように震えていた。ネリスはひとつ呼吸する間だけためらい、それから、未練を振り切るように素早く踵を返して走り出した。
正しいことをしたはずだ、自分達には何の咎もないはずだ、そう言い聞かせても胸に刺さった棘は抜けなかった。ネリスは息が切れて脇腹が痛むまで走り続け、広場を通り過ぎて小売店の立ち並ぶごちゃごちゃした路地に入ってから、やっと足を止めた。
「ネリス!」
鋭いささやきに呼ばれ、ネリスは我に返ると、素早く視線を走らせた。野菜や木の実を売る店の奥から、マックが手招きしている。ネリスは肩に提げた買い物袋を掛け直し、ふうっと息を吐いて、何気ない表情を装った。
のんびりと周囲を見回し、何を買うんだったかなと思い出すような風情であちこちの店先をかすめて歩いて、最後に、軒に吊るされたニンニクの下をくぐった。
店主は横目でちらっとネリスを見たが、何も言わず、他の客の相手をしていた。ネリスは品物を物色するふりでどんどん奥へ進み、それから、店主の体と商品の棚が客の視線を遮っているのを確かめ、小さな戸口をくぐって裏に抜けた。
狭い中庭を囲むのは、店主一家の生活空間だ。通廊からマックの手が伸びて、ネリスの腕を掴む。
「早く、こっち」
物置になっている小部屋に駆け込むと、マックが素早く扉を閉めて外の気配に耳を澄ませた。
「気付かれなかったかい?」
マックは小声で問いながら、ネリスを振り返る。途端に彼は慌てて顔を背けるはめになった。物も言わず、ネリスが神官服を脱ぎ捨てていたのだ。ちなみにマックの方は既に、農夫の子供から買った古着に替えていた。手足や顔にも泥を適当になすりつけ、髪には煤をつけて印象を変えてある。
「マックってば、そうしてると本当、十歳ぐらいに見えるよね」
悪気のない笑いを含んだ声でネリスがからかった。マックはドアの木目を睨んだまま、本当に十歳だったら後ろ向きゃしないよ、と口の中でぼやく。
「あ、ごめん、怒った?」
衣擦れの音の合間にネリスがあっけらかんと詫びたので、マックは天を仰いだ。
「別に。もう終わったかい」
「ちょっと待って。うん、これで……よし、っと」
許可が出てもマックは用心しながら体の向きを変えたが、直後、またしても目を剥いた。ネリスが危なっかしい手つきで、マックの剣を首に当てているのだ。
「何やってんだよ!」
慌てて飛びついて奪い取ったものの、心臓がばくばく音を立てて跳ね回っている。当のネリスはむっとして、傷付けられたように答えた。
「何って、髪を切ろうとしただけよ。言っておいたと思うけど?」
このぐらいの歳でも短髪にすれば、服装次第で充分少年に見える。彼女が自分からそう言い出し、髪を切ることは打ち合わせで既に決まっていた。が、しかし。
「だからって、こんなもの使ってそんなやり方するなよ!……はぁ……兄貴の苦労がよく分かる。泣けてきた」
「失礼ね。あたしの方こそ、あの墓石お兄にどれだけ苦労してると思ってんの」
「あー、はいはい、左様ですか。ちゃんと鋏は用意してあるから、そこに座って」
木箱を指差してぞんざいに言い、マックは剣を鞘に収めてから筵でぐるぐるに巻いた。農民の子供は剣など持たないものである。
「何よ、このぐらい自分で出来ますよー、だ」
ネリスはまだむくれたまま周囲を見回し、部屋の隅にあった鋏を見つけて取ろうとしたが、マックが先を越した。
「俺がやった方が早いだろ。いいから座りなよ。ほら。心配しなくても、チビどもの面倒見てたんだから、坊主頭にするんなら俺にだって出来るよ」
「丸刈りにはしないでよね」
「余計なこと言われて手が滑らなきゃ大丈夫」
他愛ないやり取りをしながらも、マックは鋏を動かす。最初に長いお下げ髪を切り落とす瞬間だけはためらったものの、あとは早かった。
「一丁上がり、っと。いやぁ、あんたもこうなると本当に男に見えるね」
すっかり短髪になった丸い頭をぽんとはたき、マックは先刻の仕返しとばかり陽気に言った。が、反撃がなかったので鼻白んで目をしばたたく。恐る恐る前に回って顔を覗きこむと、ネリスはきゅっと唇を噛んで、目に涙をいっぱい溜めていた。
「……ごめん」
小さな声で謝り、マックは金髪のお下げを拾い上げると、ネリスの膝に載せた。ネリスはかすかに首を振り、そのはずみに目尻から転がり落ちた涙を指で拭った。
「大丈夫。ちょっと……思ってたのと、違っただけ」
ネリスはかすれ声でなんとかそう言うと、無理に笑みを浮かべた。
「どうってことないと思ってたんだけど。案外、髪って……」
言葉が喉につかえた。ネリスは何度も瞬きし、小首を傾げてごまかしたが、長くはもたずに顔がくしゃりと崩れた。お下げ髪をつかんで口に押し当て、嗚咽を漏らすまいとする。だが堪えようとすればするほど、衝動は強まるばかりだった。
しゃくりあげるネリスの肩に、マックがそっと腕を回す。ネリスは切れ切れに、大丈夫、大丈夫よこのぐらい、と自分に言い聞かせるように繰り返した。
「うん」マックもうなずいてささやく。「大丈夫だよ。あんたは何も変わってないからさ。ちゃんと女に見えるよ」
「それ、困る……」
「そうだね。だから後で、泥をこってり塗らなきゃ」
おどけて答えたマックに、ネリスもすこし笑った。それから、ごくん、と嗚咽を飲み込むと、まだ少し震え声ながらもはっきりと言った。
「お兄には、言わないでね。絶対、内緒に」
「わかった。誰にも言わない」
マックが厳かに片手を上げて誓いの仕草をすると、ネリスはやっと、こわばった肩の力を抜いた。ほう、と長く吐息をもらして、しばし瞑目する。目を開いた時には、すっかり涙は乾いていた。
「ああもう、馬鹿みたい。こんなことで時間を無駄にしちゃってさ。本っ当、嫌になっちゃうね。ごめん」
「無理しなくていいよ」
マックは苦笑したが、時間が経ちすぎたというのは同感だった。鋏を片付け、ネリスの神官服を空の麻袋に押し込むと、筵に巻いた剣と一緒に縛って、背負い紐をかける。その間にネリスは床に這いつくばって砂や土を集め、顔や手足を汚していく。
「こんな感じでいいかな?」
不安げに訊いたネリスに、マックは気の毒そうに首を振った。
「頭と首が全然汚れてない。特に耳とかうなじの辺り、日焼けしてないから真っ白だよ」
座って、とまた木箱を示されて、ネリスはしかめっ面になったものの、大人しく従った。マックは自分の髪に手をやって煤を移すと、不自然にならないように気をつけながら作業にかかった。耳に触れた瞬間ネリスが微かに身じろぎしたが、マックは気付かなかったふりをした。お互いの為に。
――しばしの後、ウィネアの南門から荷車に乗った農夫と、その息子らしき二人の少年が出て行ったが、それに目を留めた者はいなかった。
世界は何も変わる事なく、いつもと同じ日常を繰り返しているかのようだった。




