4-1. 新生活と夏至祭
四章
新しい生活が始まった。
フィンはアンシウスのはからいで、ひとまず城壁外の哨戒部隊に配属された。正式に軍団の訓練を受けてはいないので、既に規律の完成されている正規部隊に加えては不協和音の元になると判断されたのだろう。あるいは、闇の獣がどうこうと吹聴されぬように、との意図かもしれない。ともあれおかげで、しばらくは頻繁に孤児院へ顔を出せることになった。
衣食住の確保が出来たのだから、ほんの数日前までの状況を考えたら、満足すべきであろう。たとえ、本来の目的がまったく叶わなかったとしても。
――だがそれは別としてさえ、フィンは今の自分の状況に、小さいながらも棘のように煩わしく無視できない不満があった。
職場の人間関係、というやつである。
「あのさぁ君、砥石持ってないかなぁ」
男にしては甲高い声で尋ねられ、フィンは不快感を抑えて無表情に「ない」とだけ答えた。当たり前だ、兵営の自室ならともかく、城壁の外を歩いているのである。行軍中でもないのに、手入れ道具を持ち歩く兵はいない。そんなことは、相手の方が軍団兵としての経歴が長いのだから、分かっていて当然だろうに。
「そっかぁ、ないかぁ。仕方ないねぇ」
独り言にしては大きな声で納得しているのは、ユーチスという若い兵士だ。童顔のせいでうっかりするとフィンより年下に見えるが、一応、二十歳は越えているらしい。
初めて哨戒部隊の詰所に出勤した時、フィンは嫌な予感がしたものだった。
今までの人生で、フィンにとって『生理的に我慢出来ない人間』というのは、ほとんどいなかった。嫌な相手はいたが、なぜ嫌いなのか自分で納得できる理由があるのが普通だったのだ。幸いなことに。
だがユーチスは違った。一目見て、こいつはまずい、と直感したのだ。案の定、その感覚は日毎に強まっていった。フィンが墓石よろしく押し黙っていても、ユーチスはお構いなしに――むしろ余計にか――話しかけてくる。
ただでさえ理由のない不快感に耐えているのに、煩わされては乏しい愛想もすぐ尽きる。同時に、木で鼻をくくるような対応しか出来ない自分の狭量さにも嫌気が差して、気分は低下していく一方。話しかけずにいてくれたら一番お互いにとって良いと思うのだが、フィンのそんな心中など、ユーチスは全く察する気配がなかった。
むろんフィンの方とて、ユーチスの思惑を想像しようともしなかったので、お互い様ではある。無愛想で陰気なフィンの対応にも、苦労してきたんだなと同情し、根気よく話しかけ続ければ少しは厳しい表情も和らぐかもしれない――などと、まことに善良親切な考えを抱いて、会話の口実をせっせと捻り出しているのだ、とは。
「じゃあさ、君、剣は部屋で手入れするんだ?」
「…………」
「僕はさぁ、なかなか上手く出来なくて困ってるんだよね。きっと砥石が悪いんだと思うんだ。今度貸してくれないかなぁ」
「おいユーチス」
見かねた、というわけでもなく普通に、隊長の制止がかかった。
「無駄話はほどほどにしろ。おまえの剣がなまくらなのは、砥石じゃなくておまえの腕が悪いからだ。ちゃんとした鍛冶屋に出しとけ」
咎めたり諭したりする口調ではない。世間話のような、いや、いっそこちらも大声の独り言かと思えるほどの、無造作な声音。これは彼に限った特徴ではなかった。フィンはため息を堪え、部隊の面々をこそっと見回す。全部で八人しかいないが、ユーチス以外の全員が、どことなく捨て鉢な倦怠感を漂わせていた。
その理由はフィンも既に、隊長の口から聞かされていた。
いわく、ここにいるのは、テトナ駐留軍の残骸、どうにも救済しようのない残り滓なのである。
元隊長が獄死した後、態度を改めた――つまり闇の獣について口をつぐんだ――兵士は正規軍にそれぞれ配属されていった。逆に、軍団に裏切られたと感じ、退役を申し出て受理された者もいた。そのどちらでもない者、すなわち積極的に復帰を望みもせず、けれどほかに食い扶持を稼ぐ当てもない者だけがだらだらと哨戒任務を続け、結局これだけの人数になってしまったのだ。
(あんなに街のすぐ近くに盗賊の集団が現れたのも、当然だな)
フィンは憂鬱に考え、頭を振った。
そしてふと、視線を感じて顔を上げる。一瞬だけ隊長と目が合ったが、すぐに相手は前を向いた。これもまた、フィンの神経がすり減る一因だった。一度や二度なら偶然かと思うが、そうではないのだ。何か気掛かりでもあるような目でこちらを見ているのに、そのくせ何も言わない。
(初めて顔を合わせた時からして、おかしかった)
詰所に現れたフィンを見て、確かに隊長は一瞬、愕然とした顔をした。だがそれっきりで、何の説明も言い訳もなく、ただ時々、さっきのようにフィンを盗み見ている。警戒するように。
(なんだって俺がこんな態度を取られなきゃならないんだ?)
テトナに知り合いはいなかった。だから、この隊長が自分を知っている筈もない。なのに、なぜ。ひょっとして、ユーチスに対する態度が悪いから睨まれているんだろうか?
悶々と思い悩んでいるフィンの横で、そのユーチスがまた別の相手に、どうでもいいようなことを話している。フィンの苛立ちと疲れは募る一方で、日暮れに街へ戻れるのがひたすら待ち遠しかった。マックを相手に剣の練習をし、ゆっくりと笑顔を取り戻しつつあるネリスと少し話をして、両親に無事な姿を見せて安心させる。今となってはその日課だけが、フィンの生きる目的だった。
レーナにはあれきり会えていなかった。夜中に神殿まで行く余力も時間もないのだ。ただ、まだあの“つながり”は残っているようで、時々ふとレーナの気配を感じることはあった。昼間だろうと、まわりに誰がいようとも。
たまにユーチスを締め上げる妄想をしている最中に気配を感じたりすると、フィンは己の感情がレーナを毒するのではないかと恐れ、たじろぐのだった。
表面上はこれといった出来事もなく、しかし気疲れする毎日が続くうち、フィンはいっそナナイスの兵営を懐かしむ心境になっていた。
とは言え、街の暮らしはナナイスとはまるで違っていた。まだ日常が続いている、どころか、夏至祭さえ催されたのだ。
この日ばかりはフィンたちも外回りの仕事を免除され、街の中で祭りを楽しむことを許された。
豊かな大地の恵みを祈念して、緑の枝で編まれた大きな輪飾りを掲げた行列が、ネーナ神殿から街を練り歩く。最後に広場へ到着すると、中央に立てられた柱に輪が掛けられ、音楽と踊りが始まるのだ。
広場にはパンやスープがたっぷり用意され、エールやワインといった酒も振舞われる。不穏な時勢であるため例年よりは控え目なのだが、ウィネアの祭りを初めて見るフィンたちにとっては、豪勢なものだった。
ネリスは祭司フェンタスの元で祭りの準備を手伝っていたため、見習い神官の服を着ていたが、行列が終わればもうお役御免である。そのままの格好で、マックに連れられて踊りの輪に加わっていた。オアンドゥスとファウナも久しぶりに屈託のない様子で、笑いながら手を取り合って踊っている。
フィンはほろ酔い加減で珍しくにこにこしながら、家族の姿を眺めていた。
「お兄! 一緒に踊ろうよ」
ネリスが呼ぶ。この街に着いたばかりの頃は、またあの笑顔が戻るとは思えないほどだったが、今日は特別らしい。きっと祭司やマックが良くしてくれたのだろう、とフィンは心中で感謝しつつ、軽い足取りでそちらに向かった。
手をつなぎ、音楽にあわせて跳んだり回ったりしていると、ナナイスが平和だった頃に戻ったような気がした。家族がいて、食べ物があって、音楽と笑いがあって。
一曲終わって、楽士も踊り手も休憩に入った時、フィンは何気なく広場の反対側に目をやって、ぎくりとした。隊長だ。目が合うと、いつものようにさっと顔を背けるのではなく、意外なことに微笑らしきものを見せてちょっと手を上げてから、雑踏に消えた。
困惑して立ち尽くすフィンに、オアンドゥスが「どうした?」と声をかける。
「いえ……なんでも。隊長がそこにいたんです」
それだけです、とフィンは肩を竦める。奇妙な態度を取られていることは、言わなかった。だがオアンドゥスはフィンの様子から何かを察し、ふむと唸った。
「さっきあそこにいた奴か。祭りの日にまで上司の顔は見たくないもんだろうな。なんて名前なんだ?」
「確か、ヴァルトだったと思います」
テトナの、と声を潜めて付け足す。この街ではテトナやナナイスという地名でさえ、禁句になっていると思われたのだ。
「ヴァルト、ねえ……はて」
オアンドゥスは首を捻り、何の因縁もないはずだが、と記憶を探っていた。それから彼はふと、奇妙な表情で息子を見つめた。いつの間にか自分と並ぶ背丈になり、厳しく鋭い顔立ちの男になった息子。そこに、自分の家に迎えたばかりの頃の面影を重ねる。
「もしかしたら、おまえが知り合いに似ているのかも知れんな。彼の親類だか、あるいは……あの町にいた誰かに」
「そうかもしれません」
フィンは納得してうなずいた。それなら、一目見た瞬間の驚きようも理解出来る。自分達が見捨てて置き去りにした誰かに似ているのなら……。あまり嬉しくない理由ではあるが。
広場の中央では、また踊りが始まっていた。フィンはそこらの若者達に引っ張られ、踊りの輪に引き込まれていった。オアンドゥスはそれを見送ってから、ファウナに小声で少し離れると告げ、人ごみの中を歩き出した。一瞬だけ見た、ヴァルト隊長と思しき人物を探して。
一方フィンは酔っ払いたちに取り囲まれ、もはや右も左も分からなくなっていた。そんな状態だから、もちろん、人目につかない物陰で養父と隊長が何かを話していることになど、まったく気付かなかった。




