7-1. 竜侯会議
七章
近くでせせらぎの音がする。しっとりと濡れた空気には緑の葉と苔の匂いが満ちて、息をするうち、森の一部に溶けてしまいそうだ。
フィンは初めて味わう大森林の空気に驚きながら、ゆっくりと歩いていた。前を行くセナトは懐かしそうに微笑を浮かべ、木々の梢を見上げている。
竜侯ウティアからの使者がオルドスを訪れた時、季節は夏の終わりを告げていた。乾いた陽射しは穏やかになり、ひんやりと涼しい風を受けて、渡り鳥が空を見上げる頃――だが、皇都の有様は、何ひとつ変わっていなかった。暗い飢餓が暴れ狂い、まるで鎮まる気配がない。
魔術師は手厚い看護を受けていたが、回復はあまりに遅かった。今も、大森林の入り口まではレーナに運んでもらい、その後は迎えの輿に揺られている。ヴァリスも同行しているのだが、彼は自分で歩いていた。何かに気を取られたのか、疲れたのか、木の根につまずいてよろける。
「陛下、お疲れではありませんか」
フィンが気遣うと、ヴァリスは苦笑を返した。
「そなたまで私をひ弱な子供扱いするのは止せ。木々の素晴しさに目を奪われて、足元がおろそかになっただけだ」
「まともな道らしい道がありませんからね。お気を付け下さい。陛下に擦り傷ひとつでもつけて帰そうものなら、グラウス将軍に絞め殺されます」
「大袈裟な。いかなグラウスでも、ディアティウスの大恩人を輿から引きずり下ろして歩かせるぐらいなら、私が木の根につまずいて転ぶ様を見て笑うだろうよ」
ヴァリスは応じて、後方の輿に目をやった。二人のやりとりを聞いていたセナトが足を止めて振り返り、複雑な顔をする。
「私はいまだに信じられません。天竜侯がおっしゃるのだから、確かに彼の魔術が災厄を足止めしてくれたのでしょうが……」
本当にそれが人々の為なのか、魔術師を味方として信用して良いのか分からない、と声音が語る。と、オルジン本人が耳聡く自分の噂を聞きつけて、反感を煽るがごとき言葉をくれた。
「見た目と好き嫌いで人物を判断するのは、女子供の悪い癖、ですな」
「――っ!」
揶揄されたセナトはかっと赤くなり、唇を噛む。ゆっくりひとつ呼吸して怒りを静め、彼はこの上なく嫌そうに詫びた。
「あなたに対して情のない態度を取ったことは謝ります。ですが見た目と好き嫌いだけではなく、あなたは言動も充分以上に怪しかった。疑い警戒するのは当然でしょう」
言葉遣いだけは丁寧になったものの、棘々しさは相変わらず、茨の藪よりひどい。だがオルジンは柳に風と受け流し、小さく笑った。
「さよう、賢明でいらっしゃる。……今のはエフェルナ様がおっしゃった言葉です。ずっと昔、ご自身について」
「……ひいお祖母様が?」
毒気を抜かれ、セナトが思わずのように問い返す。オルジンは遠い目をして、答えるでもなく独白した。
「私がお屋敷に買われたばかりの頃、エフェルナ様は私を汚いもののように扱われました。無理もない、あの頃から私は醜い外見をしておりましたからな。しかし、私が並の奴隷とは違い、観察し洞察する力のあること、知識に貪欲であることを知ったエフェルナ様は、私を特別に取り立てて下さった。その時に、ご自身でおっしゃったのですよ。見た目と好き嫌いで判断して、貴重なものをどぶに捨てるところだった、と」
「じゃあ……本当だったのか。あなたが魔術師になったのは、ひいお祖母様のはからいだというのは」
「私はこれまで一度も、あなたに対して嘘を申したことはありません」
「魔術で小鳥一羽傷付けることさえできない、と言ったのも?」
「石でも投げる方が早うございますな。魔術で竜や精霊や……あの“飢え”のようなものを相手にすることは出来ても、まったき地上の生き物を相手に力を及ぼすのは、大変難しゅうございますので。かつてはそのような目的に便利な魔術具が、数多く作られたそうですが」
そこまで話し、彼はふうっと深い息をついた。
疲れさせたと気付き、セナトはまだ何か聞きたげながらも、黙って前を向いた。
その後しばらくは、誰も口をきかないまま歩いた。沈黙が破られたのは、行く手が次第に開けて明るくなり、その光の下に集っている面々が見えた時だった。
「あ……」
セナトがルフスの姿を認めて声を上げかけ、慌てて口をつぐむ。父上、と呼びそうになったのだろう。もっとも、仮に叫んだところで養父ヴァリスの耳には入らなかったかも知れない。彼の目は、一人の貴婦人に釘付けになっていた。
光の下でなお明るく輝く、炎色の髪――竜侯エレシア。彼女もまた、ヴァリスだけをひたと見据えていた。
フィンは緊張に身を固くしながら、広場に出て行った。
中央には円卓のように、大きな平岩が座している。そのまわりに、丸太を切っただけの質素な椅子が並んでおり、既に半分ばかりは人が腰掛けていた。青霧、エレシア、ルフス。そして、竜侯ウティア。
「ようこそ」
歓迎の言葉を述べたのは、ウティア一人だった。青霧はフィンに目礼したが、あとの面々については無視している。エレシアも然り。
普段であれば、ここはヴァリスが挨拶を返すべき場面だった。最後に到着した一行の中で、もっとも地位が高いのだから。だが、彼は竦んだようにその場で止まったきり、動かなかった。
フィンはその様子を見やって困惑したが、広場に向き直って、何が待たれているかに気付いた。小さく息を吸って緊張をほぐし、前へ進み出る。
「遅くなりました。天竜侯フィニアス、参りました」
――ここは、外の世界とは違う。帝国のならいは通じない。竜侯こそがこの場の支配者なのだ。
ウティアが鷹揚にうなずき、手振りで着席を促した。フィンが示された席につくと、ヴァリス達も銘々、空いた椅子に座る。フィンはもう一度、座を見回して顔ぶれを確かめた。
ルフス、セナト、ヴァリス、オルジン。そして四人の竜侯。
(オルグの竜侯か)
ただ一人、俗世から完全に離れた気配を纏うウティア。大森林の外では見られないフィダエ族の衣服、男か女かも、年齢さえもはっきりしない面立ち。大戦の物語に名を残す本人だとすれば、老いることなく千年以上も生きていることになる。
(マックやネリスがいなくて良かった)
家族の顔が脳裏をよぎり、フィンの心が沈んだ。二人とも付いて来たがったのだが、オルドスとシロスの混乱を一日も早く落ち着かせるために、ナナイスへの移民受け入れをフィンに代わって行わなければならなかった。またウティアからの使いも二人を指名していなかったので、出席を断念したのだ。
もし二人がウティアを見たら、次にその目をフィンに向けた時、何を思うだろう。考えただけでフィンは寒々しい気分になった。
あれこれ思い巡らせながらウティアを観察していると、不意に目が合いそうになった。咄嗟にそらした視線が、別の人物を捉える。
ウティアの後ろに控えていた、若い娘だ。フィンの目には、ウティアと同じく淡い不思議な色彩に包まれて見えるが、竜との絆は感じられない。顔は半分が仮面に覆われている。
(見覚えが、あるような……?)
あれが誰だか知っている、と確信する。波打つ黒髪、深い湖のような緑の瞳。
まさか。
フィンは思わず腰を浮かせた。まさか、ありえない。だがしかし。
「ファーネイン?」
恐る恐る問いかける。セナトも驚きに目をみはり、フィンの視線の先に立つ娘を凝視した。二人に見つめられ、ファーネインは小さく会釈した。緊張で少しこわばった笑みを浮かべて。
唖然としたフィンに、ウティアが穏やかな声をかけた。
「再会の挨拶は、また後ほど。時間は充分ある。先に、我らが集った理由の方を片付けよう」
「あ……はい」
まだぽかんとしたまま、フィンは再び腰を下ろした。竜侯を名乗るにしては若くて素朴な反応に、場の空気がやや和む。ただし当人に自覚はなかったが。
こほんと咳払いして表情をごまかしたのは、エレシアだった。
「本題に入りましょう。ウティア様、皇都の“飢え”に如何に対処するか、というお話でしたね」
「さよう。そなたらも察していようが、あれは封じ込められた後も鎮まる気配がない。恐らく、あれが自らを喰らい滅びるまで、結界はもたぬだろう。魔術師よ、そなたの意見はどうだ」
問いかけられ、オルジンは輿に横臥したままゆっくり答えた。
「恐らく、ご推察の通りでしょう。予想以上に、あれの執着は強うございます。……あまり、長くはもちますまい」
「そなたの命が先に尽きるか」
さらりとウティアが言った。当人は毫もたじろがず、淡々と応じる。
「私が死んでも、術に支障はございません。ただ、いずれにしても、飢えの勢いを弱めるまでには至りますまい」
「どういう事ですか。命が尽きる、とは……命がけで魔術を行ったのに、無駄だったという事ですか」
微かに震える声を上げたのは、セナトだった。フィンも同じ問いを目に浮かべ、ウティアを見つめる。ルフスやヴァリスも然り。
注目を浴びても、ウティアはまったく感情をあらわさなかった。
「魔術とは、この世をかたちづくる神々の力を無理やり捻じ曲げる技だ。行えば、相応の反発が術者の身に跳ね返る。大きな術であればあるほど、反発も大きい。理の当然であろう? それゆえ昔の魔術師らは、我が身を守るべく様々な魔術具を作り出したのだよ。もっとも、それでもやはり、すべてを道具に肩代わりさせることは出来なんだが」
言いながらオルジンを見るまなざしには、温かみの欠片もない。ただ平静かつ中立、好悪や褒貶いずれにも偏らない、突き放したまなざし。そのまま彼女はセナトにも同じ目を向けた。
「無駄だった? ならばそなたは、なぜここにいるのだ」
「…………」
責めも諭しもしない口調だったが、セナトはかっと赤くなってうつむいた。フィンは困惑気味に小首を傾げる。竜侯同士とは言っても、ウティアほど色々な意味でかけ離れた存在になると、思考や感情がさっぱり分からない。
「ウティア様は、状況を打開する手立てがあると思われますか」
フィンの問いかけにウティアは答えず、ただオルジンに視線を向けた。魔術師は束の間じっと瞑目し、慎重に答える。
「恐らく……“飢え”に強い執着を与え勢いを保たせているのは、セナト侯の意識でしょう。結界の内に入り、彼を……消し去ることが出来れば、恐らくは」
消し去る、との言葉にセナトの肩がびくりと震えた。いかに悪評高かろうと、彼自身いくらか恐れていた人物であろうと、やはり祖父は祖父だ。幼い頃、厳しくありつつも情愛を注いでくれた記憶が胸に去来する。
セナトほどではないがルフスもまた、舅に関して多少は良い思い出を持っていた。だが彼は息子と違い、直に軍団の異変を経験し、恐怖を味わったのだ。クォノスに近付きこそしなかったが、あの軍団の有様を見れば、その中に呑まれたであろう人物について、未練を感じられはしなかった。ひとつ湿った咳払いをして、口を開く。
「晩年の義父上は、確かに権力への執着を強めていらした。消し去るというのは……むしろ、あの方には救いかも知れない。しかし、可能なのか? あのおぞましいものの中へ分け入り、ただ一人を見つけ出すなど」
「生身で結界の中に入ることは、術を解かぬ限り不可能ですな」
オルジンは端的に答えた。ではどうすれば良いのか。全員の目がウティアに集まる。答えは簡潔で、あまりに予想外だった。
「では、天界から入るしかあるまい」




