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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
154/209

4-5. 異変を探りに


 鳥のさえずりに招かれて太陽が昇ると、食堂に家族が三々五々やって来る。オアンドゥスはもう起きていて、家庭用の小さな臼で今朝の分の小麦を挽いていた。

 皮肉と言おうか妙な状況だが、今のナナイスにはまだ粉屋がいないのだ。風車は壊れたままだし、テトナへ向かう途中の川に水車もあったが、やはりこちらも無人のあばら家に成り果てている。

 パン屋ではロバに大型の臼を回させているが、店の分だけで精一杯。一般市民は焼きあがったパンを買うか、さもなくば毎日自宅でうんざりする仕事をしなければならなかった。小麦は案外面倒な主食なのだ。

 フィンが見ているのに気付いて、オアンドゥスが苦笑した。

「今朝ぐらい、ゆっくり寝ていたら良いだろうに」

「いえ、いいんです。代わりましょう」

「そうか? なら頼むかな。竜侯様に粉挽きをさせねばならんとはなぁ。そろそろ風車の再建にとりかかりたいもんだ。街の皆の為にも」

 オアンドゥスは場所を空けながら、何気ない口調で喋り続ける。

「あの忌々しい監査官に言われたからじゃないが、オルシーナに議長を任せて、週の半分ぐらいは風車へ煉瓦を積みに行きたいよ」

「…………」

 俺も一緒にやります、という言葉を、フィンは飲み込んだ。束の間、甘い夢想が脳裏をよぎる。昔と同じように、風車小屋で家族一緒に暮らして、毎日ただ粉を挽いたり畑を耕したり、釣りに行ったり……。

 フィンは一呼吸の間だけ瞑目し、その夢を胸の奥にしまいこんだ。

「おじさんの仕事が楽になれば、俺も安心してナナイスを空けられます」

「……なに?」

「後で皆にも話します。また……しばらく、街を離れるので」

「おい、フィニアス。おまえまさか、また一人で勝手に出て行くつもりじゃないだろうな」

 途端にオアンドゥスの眉間に皺が寄る。フィンは挽き終わった粉を篩にかけてふすまを除きながら、思わず苦笑した。

「勝手には出て行きません、ちゃんと説明します。でも、前とはかなり事情が違いますから」

「…………」

 むう、とオアンドゥスが口をへの字にする。そこへ折悪しくネリスがやって来た。

「今、何か、すごく不吉な言葉が聞こえたんだけど」

 その声音の方がよほど不吉で禍々しい。とは、言いたくても言えない。フィンは目を合わせないように、作業に集中しているふりをした。幸いネリスも朝食の支度中に暴れるほど子供ではなかったので、その場はなんとか無事に切り抜ける事が出来た。

 しばしの後には、一家――厳密には三世帯ということになるが――全員が食卓に顔を揃えた。テーブルに並んでいるのは、麦粉とチーズを練って薄くのばして焼いた簡単なパンと、南斜面でほかより早く収穫の始まった葡萄の小房、豆と野菜が少しのスープ。いつもの食事だ。だがその場の空気は、日常とは程遠かった。

 家族全員から、怒りと不安と心配のまじったまなざしを浴びせられ、流石にフィンも喉が詰まって食べられない。ちぎったパンを指でにじにじ崩していても仕方がないので、覚悟を決めて話を切り出した。

「少し前から考えていたんです。結婚式が終わったら、すぐに本国へ行こうと」

「本国へ?」

 なぜ、と訝る声が数人の口から漏れる。フィンは家族を見回し、表情を改めた。一家の一員としての顔ではなく、竜侯の顔へと。

「レーナと一緒にマズラの方へ最初に行った時、ずっと南で、とても……禍々しい気配が蠢いていることに気がついたんです。夜、世界が眠っている間に、ありとあらゆる生気を吸い取ってしまうような……貪欲で、暗く不吉な気配でした。本当はその場で飛んで行きたいぐらいだったんですが、援助を後回しには出来なかったし、マックとネリスの結婚式にも出たかったから、今まで先延ばしにしていたんです」

「……何それ」ネリスが呻いた。「なんでお兄がそこまでやらなきゃなんないわけ? あんなに苦労して、ようやくナナイスを建て直して、やっとこれからって時じゃない。普通に暮らしちゃ駄目なの!? 放っとけばいいじゃない、本国の竜侯様とか皇帝陛下とか将軍とか、偉い人がなんとかするわよ!」

 ネリスの剣幕に、フィンはなだめることも出来なかった。未明の取り乱した姿を見られたのだ、彼女が兄の異変を察して強硬に反対するのも無理からぬこと。

 そこへ珍しくファウナまでが、異を唱えた。

「そうよ、フィン。向こうの人達に知らせるだけじゃいけないの? 身勝手と思うかもしれないけれど、ナナイスの皆も、あなたが見てきたっていうマズラの人達も、あなたを頼りにしているのよ。もちろん私達も」

「それは……」

 痛いところを突かれてフィンは言葉に詰まる。だが引き下がるわけにはいかなかった。

「申し訳ないと思っています。でも今は、クヴェリスさんやフェンタス様までナナイスに来て下さった。何かあった時には、あの人達に頼れます。ナナイスが闇の獣に襲われる心配はもうほとんどないし、今、俺の……竜侯の力が必要なのは、ここではなくて南なんです」

 既に意志を固めたフィンの声は、反論を封じ込めてしまった。皆が押し黙り、場の空気が重く沈む。と、不意にマックがつぶやいた。

「導きは暗中にあり、か」

「……?」

 フィンが目を向けると、マックはいつもと変わらぬ態度で、軽い話題かのように続けた。

「ほら、コムリスの占い師が言付けた手紙に書いてあっただろ。あれ、青霧さんに会いに行けってことじゃないかな」

「あっ……!」

 言われて思い出し、フィンは短い叫びを上げた。『閨にて溺れるなかれ、導きは暗中にあり』――あれは茶化した文面ではなかったのだ。竜との婚姻が何を意味するか、占い師には分かっていたに違いない。『導き』がそのことに関してなのか、それとも別件の――南に蠢く暗い気配のことなのか、それは分からないが、ともかくあの手紙は助言を 求めるべき相手を示唆していたのだ。

 思わず腰を浮かせたフィンに、マックは苦笑して、なだめる手つきをした。

「落ち着いてよ兄貴。食べて行く時間ぐらいあるだろ?」

 おっと、とフィンは決まり悪い顔で座り直す。険しかったネリスの表情が少し和らいだ。ため息はついたが、いつもの「しょうがない」と諦めるような風情のものだった。

「その『暗いもの』って、闇の獣のこと? 春からこっち、北部でどんどん気配が弱まってるのは、やっぱり向こうに行ってたみたいだってこと?」

「いいや。少し違うな。あれは……闇さえも貪り食うような感じがした」

 フィンは答え、温かいスープを飲んだ。いたって質素だが、豆と野菜の滋養が溶けこんだ味に、我知らずほっとする。が、続くネリスの台詞に、折角のスープを噴き出しそうになった。

「そっか。じゃ、あたしも行かなきゃね」

「っ!! ごほっ、ごほ!! ネリス、なに……って、」

 盛大にむせたフィンの横で、マックまでがしれっとした顔でうなずいた。

「俺も、やりかけの用事は片付けてしまわないと」

「待て二人とも! なんでそうなるんだ!」

 抗議したフィンに、当の二人はいたって平然とのたまわく。

「だって俺は竜侯様の副官だよ? そばにいなくてどうするんだよ」

「祭司がひとりぐらいついてないと、お兄だけじゃ手が回らないこと、あるでしょ。竜の力で何でもかんでも出来るわけじゃなし」

「…………」

 フィンは絶句し、まさか、と不吉な予感に襲われて両親を見る。が、幸か不幸か、こちらは寂しげな諦観のまなざしを返すだけだった。

「仕方ないな」オアンドゥスがため息をついた。「俺にはおまえ達のような特別な力はないし、今はナナイスで大事な役目がある。一緒に行きたいが、フィニアス、おまえが東部への援助やナナイスの状況を気にして後ろばかり振り返らなければならないんじゃ、二重に足手まといだ。ネリスとマックも一緒なら、俺の出る幕はないさ」

「おじさん……」

 同行は諦めてくれて良いのだが、娘のことは諦めないで欲しかった。脱力気味のフィンをよそに、マックは最初から成り行きを見守っていたレーナに、早くも相談している。

「レーナ、俺とネリスも一緒に乗せて飛べるかな? 無理だったら何か方法を考えないと」

「マックとネリスなら、大丈夫よ。二人ともフィンと結びつきが出来ているし、私も人を乗せるのに少し慣れてきたから、ちゃんと守れるわ」

 レーナはにこにこ無邪気に承諾する。フィンが孤立無援で情けない顔をすると、レーナは分かっているのかいないのか、にっこり笑いかけた。

「一緒にいてくれる人がいて、フィンは幸せね」

「……そうだな」

 他に応じるべき言葉も見付からず、フィンは弱々しくうなずいた。レーナの純粋な思いが伝わってくると、危険だとか巻き込めないだとか身構えていた自分が、滑稽にさえ思えてくる。

 実際問題として、あの奈落に二人を直面させるのはあまりにも危険だ。しかしそれ以外についてなら、何があるか分からないからこそ、誰かが一緒に来てくれる方が安全だろう。フィンは考えを改めると、二人に向き直って礼を言った。

「ありがとう、マック、ネリス。一緒に来てくれたら助かるよ」

 思いがけずまともに感謝され、ネリスが変な顔をする。

「素直なフィン兄って、気持ち悪い」

 ぼそりと失敬千万な台詞をつぶやいた彼女の横で、マックが屈託なく笑って「どう致しまして」と応じた。

 行き先と顔ぶれが決まると、あとは実行だけである。フィンはその日の午前中に議会を召集し、ナナイスを空ける旨を告げた。市会議員だけでなく、フェンタスとクヴェリス、それに、市政における主な商取引の相手であるゴヴァリアスの代理としてタズも同席している。天竜隊を指揮するヴァルトも。

「留守中、本国との折衝は議長に行ってもらいます。まあ、監査官が帰ってまだひと月にもならないので、またすぐに来ることはないでしょうが。東部への支援はヴァルト隊長に一任します」

 お願いします、とフィンから丁寧に頼まれて、ヴァルトは変な顔でちょっと頭を掻いた。

「その、南部の怪しい何やらには、兵隊は必要ないわけか?」

「恐らく。仮に必要と判明しても、本国側の兵営司令官に頼む方が早い。あんたは旧マズラ州の村を回って、物資を配り、再建の手助けをしてくれ。闇の獣を退けられて、家も建てられるのは、あんた達だけだから」

「そりゃあ、まあな。俺もこの歳で、得体の知れない化け物と戦えって言われるよりゃ、泥壁を塗ってる方がいいさ」

 ヴァルトは応じて肩を竦める。フィンは思わず苦笑した。

「年寄りのふりをして同情を買おうなんて、らしくないな」

「うるせえ。俺ァもう四十四だぞ、軍団で言や古参の熟練兵だ。見知った敵には対処出来るが、正体不明の奴に突っ込んでく無謀さは持ち合わせねえんだよ」

「ああ、それは俺の役目だ」

 フィンはさらりとうなずいて、一同を見回した。と、タズが渋い顔で手を挙げた。

「俺らの船荷についてはまぁ、おまえがいなくても取引に支障はねーけどよ。どうせこの後、本国側へ戻ってくから、なんかついでに運ぶもんがあったら早めに言ってくれよ。あと、言うまでもねえけど、無理すんな」

「ありがとう」

 フィンは礼を言い、その素直さに相手が妙な顔をしているのには気付かぬまま、ふむと考えて続けた。

「運んで欲しい荷はないが、今まで以上に寄港地での噂に気をつけて欲しい。何か怪しげな話があれば、出来るだけ本国の町に伝えてくれ。あと、強いてとは言わないが……なるべく、本国の中央に向かうのは避けた方がいい。取引相手が商用で中央に向かうと言ったら、しばらく見合わせるか、出来るだけ長居せずに帰って来るように、それとなく警告してくれ」

「物騒だな。俺らは行っても構わないのか?」

「海沿いにいる限りは大丈夫だと思う。アウディア様の領域には、どんなものでもそう容易くは力を及ぼせない。そうだな……シロスに着いたら、俺が知らせをやるまで待っていてくれるように、船長に伝えてくれ。オルヌ河を遡るのはその後にして欲しい。その頃までには正体を突き止めて、なにがしかの結論を出せるはずだ」

「分かった。っても、船長が聞いてくれっかどうかは、別だけどな。危険だってったら突っ込んでく人だから」

 半ば真剣に、半ばおどけてタズが頭を振る。フィンはあまり深刻にならないよう、冗談めかして応じた。

「その時はおまえだけでも、船から飛び降りて逃げてくれ」

「そうするよ」

 タズも心得たもので、にやっと笑って泳ぐふりをして見せた。フィンは気を取り直し、フェンタスとクヴェリスに目を向ける。

「神殿の管理運営はちょうど着任されたばかりのフェンタス様にお願いします。継続して治療の必要な病人などについては、ネリスから引継ぎを受けてください。訴訟や条例制定など法律的なことは、クヴェリスさん、あなたに議会の顧問として取り仕切って頂きたい。この三年で、素人だった我々も多くを学びましたが、専門家のお力添えが頂ければ安心です。竜侯の署名がなくても問題はないでしょう」

 来るなり早々大仕事をお願いして恐縮ですが、とフィンが詫びる。二人はそれぞれなりに面白そうな顔をした。

「こうなることが分かっていたら、あの時お断りせずにナナイスへ来るんでしたね。ナナイスの現状について把握して、代表者たる竜侯閣下のご署名が必要な件をふるい分けておけたのですが」

「私も、こうなると分かっていたら、ウィネアの神殿にこだわらず早々に移住していたものですが。しかしまぁ、こうしてフィニアス殿の出立には間に合った。天の配剤に感謝しましょう」

 共に、これ幸いと留守を任されることを、喜んでさえいるようだ。声にも表情にも、屈託がない。フィンは感謝を込めて一礼した。

 顔を上げると、ナナイスを預かる皆から、温かいながらも厳しいまなざしが当てられていた。一同を代表するように、オアンドゥスがゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ナナイスの事は心配するな。だから、フィニアス、いいか。絶対に、帰って来い」

「はい」

 フィンはただ、短く応じてうなずいた。それ以上の言葉は、必要なかった。


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