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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
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3-1. 蠢く“飢え”


   三章


 深く……どこまでも深く、光の届かぬ深奥へと沈みこんでゆく。

 凝った闇は静かにゆっくりとたゆたう。あまねくものを飲み込む底なしの渦。光も、音も、時さえもが、その中に沈んでゆく。

 ならばその淵は虚無かといえば、そうではない。触れられるほどに濃密な、憤怒と憎悪、復讐の餓え――既に、闇にして闇に非ざるもの。

 クォノスの外れに立ちながら、セナト侯は大地の下から立ち昇る血腥い気配を、花の香のごとく深々と吸い込んだ。

(モウスグダ)

 もうすぐ、惰眠を貪る寄生虫を一掃出来る。長年彼を苛んできた屈辱を、ようやく晴らすことが出来る。

 女の一門、母親の影から出られぬ惰弱な当主よ、と陰口を叩いた貴族。彼の発言力が削がれる元凶となったいまいましい母と、そのなすがままであった父。

 恥辱にまみれながらも、竜侯会議の一員である間はまだ良かったのだ。憎きゲナスが会議を解散させた時、力を奪われるという真の屈辱を知った。挙句に投げつけられた台詞が、

「選挙を経て評議員となるならば、議会の門は開かれている」

 ――などとは。

(皇帝めが!)

 己一人がすべての頂点に立っているつもりか。よりによって、由緒正しく高貴なる竜侯家の当主に、有象無象にへつらい機嫌を取る商人共と同じ席に着けと!?

 繰り返し繰り返し、幾度となく味わい直して密度を増した怒りが、今また一筋の黒い滴りとなって、渦の中に落ちてゆく。

 何が選挙、何が評議員か。所詮愚物共が貪欲な胃袋を満たす腐った酒を選り好みしているにすぎぬ。

(腐っている)

 あの都も、その腐肉にたかり蠢く、怠惰で愚劣な下衆共も。

(滅ビテシマエ)

(滅びるべきなのだ)

 もはや何者にも期待できぬ、望みをかけられぬ今となっては。目を閉じて意識を地の底に向けると、渦巻く闇の中にぼんやりといくつかの光景が浮かび上がった。

 皇帝ヴァリスと馴れ合う孫のセナト。西方との通商や利便を保つべく、議会での策を練っている議員と商人。どれも、彼の意と金とに従うことを誓った追従者の視界だ。

 セナトはひとつの視界に意識を向けた。孫に向かい合って座る、娘と呼ぶのも腹立たしい女の姿。先見の明はおろか誇りすらなく、皇帝におもねり取り入ろうとしている――

(所詮、我が孫と言えどもあの女どもに育てられた軟弱者か)

 初孫につけようとしたあらゆる下僕や守役を押しのけて居座った、腹立たしい侍女までが、図々しく陰謀の場に加わっている。その女が鋭い声を放ち、視界がぼやけて遠くなった。

 セナトはぎりっと歯噛みし、その視界が闇に沈むに任せる。

(忌々しい)

 フェルネーナが女どもの伝手を駆使してあの孫を取り込み、縛り付けるとは。

 己と同じ名の男児が母親の魔手に操られ、今なお皇都にあって侍女の背後に隠されていると思うと、怒りで頭の芯が痺れるほどだ。

 震えを堪えながら、彼は現実の視界に意識を戻した。少し離れた木立に、暗がりが凝っている。そこから見ているものの視線が感じられた。

「……あと、少し……」

 かすれ声がささやく。セナトもうなずいた。

「もうすぐだ。待っていろ」

 応えるように闇が波打ち、蠢く。セナトの酷薄な唇に笑みが浮かんだ。

 ――と、その時。

「義父上」

 ガサガサと草を踏み分ける音に続き、呼び声がした。闇の気配が薄れ、セナトも笑みを消してゆっくり振り向く。ルフスが部下の一人と共にやって来るところだった。

「こんな所で何をしておいでですか? お呼びになった鍛冶職人が参りましたが」

 問いかけに対してセナトは答えず、冷ややかな目を娘婿に注いだ。

(こ奴もつまらぬ男よ)

 己の妻が何をしているかも知らず、間抜け面を晒していいように使われて。今までに成した一番ましなことが、男児の跡継ぎを産ませた一事だけとは。

 セナトは鼻を鳴らし、無言のままルフスの横を通り過ぎて兵営へと戻って行った。

 一方ルフスは義父の背を見送り、不可解な悪寒に襲われて小さく身震いした。ついてきた部下も、不安げに眉をひそめる。

「竜侯様はこのところ、ご機嫌斜めのようですね」

「ご機嫌斜め、か」ルフスは苦笑した。「単に機嫌の問題ならば良いのだがな」

 答えながら視線を木立へ向ける。何が気になったのかと意識せぬままに。

 漂う闇の残滓を捉え、灰金色の目が険しくなった。

「ルフス殿?」

 部下の問いかけを目顔で制し、彼は剣の柄に手をかけて用心深く木立へ近寄る。

「誰かいるのか」

 鋭くささやき、さらに踏み出して――直後、大きく体勢を崩した。

「わっ!?」

 予期せぬ窪みに足を取られ、彼は危うく倒れかかった。かろうじて足を引き抜き、とっとっ、とよろけながら離れる。振り返ると、彼の片足に食いついた窪みは、小さな口のように開いた穴だった。

 ザザ、と砂がその中に落ちていく。ルフスは名状しがたい感覚に襲われ、まじまじとそれを見つめた。獣の巣穴か、もぐらの通路か。そう考えるのが普通だろう。だが彼の脳裏を、三年余り前の出来事がよぎった。

(将軍に食いつきかけた亀裂と同じだ)

 結局あの時の亀裂は、地盤が緩いのだろうということで、周辺に柵を立てて人が近付かぬようにしてある。その場所は、ここから数百歩は離れているのだが。

(まさか、ここまで……?)

 ぞくりと背筋が寒くなった。今立っているこの場所も薄っぺらい表層だけで、槍を刺せばズブリと下の空洞に突き抜けるのではないか。

 はっと気付けば既に敵兵が城壁の下まで坑道を掘り進めていたような、否、得体の知れぬ巨大な生き物が地の下を食い荒らしていたような、そんな恐怖が湧き上がる。

 ルフスは衝動的に剣を抜き、小さな窪みに突き立てていた。満身の力を込めて。

「……っ!」

 ガッ、と石に当たって刃先が止まる。予想外の衝撃に手が痺れ、ルフスは顔をしかめた。痛みが引くのを待って恐る恐るもう一度手元をよく見ると、剣が食い込んでいる先は、ただの、何の変哲もない窪みだった。刃にこすられた縁の砂が崩れ、トサ、と軽い音を立てて底に積もる。

 ルフスは深く長い息を吐き出し、何に対してか首を振りながら剣を引き抜いた。土を払い、不審顔の部下を気にしないよう努めながら、鞘に収める。

(何を緊張しているのだ)

 いつからこんな、壁に映った影に怯える子供のような有様になったのだ。軍団を預かる身でありながら、情けない。

 ルフスがむっつりしていると、部下が恐る恐るそばへやってきた。上司の意味不明な行動に不安になったのだろう、ルフスは我が身に置き換えて想像し、内心苦笑した。

「なんでもない。地面に八つ当たりしただけだ」

 冗談にしてしまおうと、軽い口調で言い訳する。だが部下は曖昧な表情を浮かべた顔を上げ、ルフスと地面を交互に見た。

「そうですか。自分には、その……」

 もぐもぐと何事か言いかけ、恥じ入ったように口をつぐむ。ルフスは目をしばたいた。

「どうした」

「いえ、何でもありません。気のせいでした」

「いいから言え。何だと思ったのだ」

 強く促されて、部下はためらいながら訥々と答えた。

「自分には、何かが軍団長の足に食らいついたように見えました。その穴も、底なしのように感じられて……その、なんと申しますか、不気味な気分が致しました。軍団長が剣を突き刺す前は、こぼれ落ちた砂がどこまでも吸い込まれていくようで」

 そこまで言い、彼はルフスの凝視に耐えかねてうつむく。自分の爪先を見つめながらも、時々ちらちらと視線を穴の方に向けて。

 部下の言葉にルフスは己の記憶を反芻し、言葉を失った。確かに最初、足を引き抜いて逃れた時、落ちた砂は……

(音がしなかった)

 細い草が数本生えたまま落ちた塊もあったのに、何の音もしなかった。

 彼がいつまでも黙っているので、部下はいたたまれなくなってもぞもぞ足踏みした。ルフスは我に返り、相手の心中を慮って平静を取り繕う。

「私の記憶違いではないようだ。確かに私にも、そのように見えた」

「――!」

 部下がぎょっとなって顔を上げる。ルフスは無表情を保ち、既に周辺の地面と区別がつかなくなっている窪みを睨みつけた。

「良からぬ事が起こっている兆しかも知れんな。兵達にも注意を喚起しておかねば。あまり……こちら側に近付かぬようにと」

 ルフスは言って、漠然と一帯を手で示す。部下は何か言いたげな顔をしたが、思い直して、はっ、と短く了解した。こちら側、とは、すなわち闇を封じた大地の裂け目があったとされる側である。その意味するところを考えたのだろう。だが凶事を口にすれば現実のことになりそうで、口をつぐんだに違いない。ルフス自身と同様に。

 知らずルフスは、白く輝く巨大な竜の姿を思い出していた。その威容に圧されることもなく堂々と立っていた、青年竜侯の姿をも。

 彼らは、闇の眷属と戦いながら逃げてきたと言った。ルフスはその話を信じたつもりでいたが、しかしやはり、どこか他人事の感覚でいたのだろう。今になって、自分の足元から闇が暴れだすかもしれないと気付き、青ざめている。

(彼を呼ぶしかないか)

 困った時だけ頼ってばかりいて、なんと不甲斐ない。

 己を恥じながらも、彼は考えていた。あの天竜の存在なくして、闇と戦える気がしない。夜毎に篝火を焚いて巡回するのとは、まったく状況が違ってくるだろう。

(手遅れにならないうちに……)

 ルフスは手紙をしたためるべく、まだ地面を気にしている部下を促して、兵営へと戻って行った。北の竜侯が皇帝に頼まれて本拠を空け、東に向かっていることなど知る由もなく。


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