2-2. 嵐の予兆
「さて、それじゃ、水道の配管についてはこれで決まりだな。まだ他に何かあるか? 急ぎの案件でなければ、来週に回して今日はもう終わりにしよう。昼も過ぎたし、皆、腹が空いただろう」
オアンドゥスが一同を見回す。手を挙げかけた一人が、それもそうかと思い直してひっこめた。
「よし、ではこれにて閉会! お疲れ様」
にっこりしてパンと手を鳴らした議長に、十人余りの議員も笑顔になって席を立つ。フィンも端の席から腰を上げ、うんと伸びをした。そして、横で同じく首や肩を回している黒髪の女に目をやって苦笑する。
「お疲れ様です、オルシーナさん。退屈じゃありませんか?」
「まさか」女は笑って立ち上がり、軽くフィンの腕を叩いた。「ウィネアの市議会に比べたら、よっぽど楽しいよ。旦那に見せてやりたいぐらい」
旦那、と言われ、フィンは曖昧な顔で沈黙する。オルシーナの夫が元ウィネア市議であり、往来で頓死したことを知っているからだ。
ディルギウスが軍団兵を殆ど全員、山脈へと連れ出したために、その間のウィネアでは強盗や暴行が多発した。オルシーナの夫もその犠牲者の一人で、白昼の大通りで強盗に刺し殺されるという、予期せぬ最期を迎えた。危険を感じたオルシーナはコムリスの知人宅に避難し、そこで竜侯の噂を聞いて、後にナナイスへやってきたのである。
フィンの気遣いを見て取り、オルシーナは苦笑を浮かべたが、敢えて明るく続けた。
「一度だけ、いろいろ偶然が重なって議会を覗き見られたんだけど、本っ当、あれは酷かったわ。信じられる? 何をどうしようかって話し合ってるんじゃないのよ。『今の発言は失礼である、訂正して謝罪せよ』とか言葉尻を捕えて揚げ足を取ったり、そもそも今の発言が対象にしているのは厳密に何であるか、とか難癖つけたり。そんなことばっかり。ようやく片付いたかと思ったら、今度は議員の発言順についてどーだこーだって議案が大真面目に提出されるの。呆れて言葉も出なかったね」
オルシーナは両手を広げ、話を聞きに来たオアンドゥスにも笑いかけた。
「その点、ここの議会は建設的だから、ちっとも疲れやしないわよ。解決すべき問題がはっきりしてて、皆、それに集中して取り組んでる。他人の提案にケチつけるだけの馬鹿もいないし。人数が少ないからってのもあるんだろうけど、議会っていうより、近所の寄り合いね。オアンドゥスさんも意見をまとめるのがうまいし、ナナイスが三年でここまでまともになったのも分かるわ」
「これはどうも」
オアンドゥスが恐縮する。オルシーナは「お世辞よ」とおどけ、演壇の背後にある黒板を見上げた。孤児院の廃墟から奇跡的にほぼ原形のまま出てきたものだ。
「あれも役に立ってるしね。いい考えだわ」
すると、壁際の席でやりとりを聞いていた青年が口を挟んだ。
「おかげで助かってます」
カリカリと忙しなくペンを動かしているのは、今日の内容をまとめているからだ。ウィネアや本国の都市では、議会の内容は専門の速記者が記録して清書し、広場に掲示する。だがもちろんナナイスにそんな人材はいないし、本国から雇うほど財政に余裕はない。
というわけで、議事を進めながらオアンドゥスが要点を板書し、書記は書記で蝋板にメモを取って、後で両者を付き合わせて記録・掲示用の文書を作成する方式になった。オアンドゥスの板書は、議員達からも要点を掴みやすいと好評だ。フィンは少しばかり得意げに言い添えた。
「元々おじさんは要点をまとめたり、人に説明したりするのが上手なんです」
「おいおい。身内にお世辞は要らんぞ」
褒められたオアンドゥスは照れ臭そうに、フィンを軽く小突く。オルシーナはそんな二人を微笑ましく眺めていた。
だが、和やかな空気はそこまでだった。
「失礼します。……っと、フィン兄、オアンドゥスさん!」
駆け込んできたマックの緊張した声に、フィンもさっと表情を改める。マックは室内にいる他の面々に軽く一礼してから、駆け寄ってささやいた。
「新任の監査官が来るって。しかも街道から!」
「まさか!」
思わず頓狂な声を上げたフィンに、マックは渋い顔で首を振った。
「俺もそう思ったけど、本当だった。先触れの軍団兵もうんざりしてたよ。船にしておけばずっと安全なのに、街道で行くって言い張ったんだってさ。で、道々、宿駅が荒れたまま放置されてるのは何事だとか、整備がなっとらんとか、ガミガミガミガミ。夜の間だけは静かだったらしいけどね。見張りもせずに一人で熟睡」
「……厄介な御仁のようだな」
オアンドゥスが唸り、フィンは眉間を押さえる。オアンドゥスはぽんと息子の肩を叩いた。
「今まではおまえに任せっきりだったが、今回は俺も一緒に応対するとしよう。マックも念の為、控えていてくれ。俺かフィニアスが爆発しそうになったら、うまくなだめてくれよ」
「俺にそれを頼むんですか?」
知らないよ、とばかりにマックがおどける。オアンドゥスはにやりとしてから、気分を切り替えるべく頭を振り、白墨の粉がついた上着を見下ろした。
「それじゃ、一旦家に戻って着替えておくか。後で執務室に行こう。おまえも急いで、何か腹に入れておけよ」
「分かりました」
フィンもうなずき、後の片付けを書記とオルシーナに頼んで会議室を出る。廊下を歩きながら、マックが気の重そうな声を漏らした。
「又聞きの噂だけで決め付けちゃいけないと思っていたけど、どうも実際、面倒そうだね。兄貴、どうする?」
「どうするもこうするも……なんとか穏便に帰って貰えるように、我慢するしかないだろうな」
フィンも嫌な予感を覚えながら執務室に入り、隅の物入れから空色の布を引っ張り出して身に纏う。マックが手を貸して、ちょいちょいと整えてくれた。
「イスレヴ殿が北部出身だから、親切すぎたんだ。ずっとそれに甘えていたが、今後は本国との付き合い方にもけじめをつけないとな」
「それだけで済む話ならいいけど」
いつになく悲観的なマックに、フィンはいささか怪訝な気がしたが、応接室にいた軍団兵に会って疑問は氷解した。
「お久しぶりです、閣下」
先触れの軍団兵は、ウィネアで何回か顔を合わせている青年だった。ぴしりと敬礼してから、彼は必要以上にしゃちこばって続けた。
「アンシウス司令官から伝言を預かっております。『監査官シムルス殿は本国の有力な一門であらせられる。ゆめ粗相のないよう厳重に注意願いたい。我々軍団兵と異なり竜侯たる貴殿であれば、融通の利く対応も可能であろうと存じ上げる』とのことです」
「……確かに承りました」
フィンは複雑な面持ちでうなずき、敬礼を返した。言葉の裏に隠された意図が、薄い靄となって漂い、耳元でささやく。隙あらばナナイスの海に叩き込んでやれ、と。つまりはそれほどまでに、監査官はウィネアの面々に嫌われ抜いたということだ。
マックは先にあらまし状況を聞いたらしく、内心を隠し平静を装って、明後日の方を向いている。確かに、こうまで言われては悲観的にもなろうというものだ。
二人が間違いなく理解したのを見届けてから、兵士は休めの姿勢になって、寛いだ笑みを見せた。
「監査官は北部の現状に大層ご不満です。ああしろこうしろと無茶な要求ばかり出すでしょうが、すべてをまともに取り合う必要はありませんよ。司令官とウィネアの市議会も、早々に匙を投げましたから」
「そうですか。……まあ、やる気のない監査官が来るよりは、いささか過剰でも意欲のある方が着任されたのを喜ぶべきなんでしょうね」
「どうですかね」
兵士は渋面になった。この道中で既に辟易しているらしい。だが彼はすぐに気を取り直して言った。
「それはそうと、驚きました。噂には聞いていましたが、まさか本当に市壁がないとは。シムルス殿は真っ先にぎゃんぎゃん喚きたてるでしょうね。納得させられる回答を用意しておいた方が良いですよ。でないと、今すぐ城壁を再建しろと命じて、自ら石切り場へあなた方を連行しかねません。まあ、そうしろと命じられても我々はお断りしますが」
「軍団兵が本国の監査官に背いたらまずいでしょう」
生真面目にフィンが言うと、兵士はにやりとした。
「そこはそれ。軍団には長い長い伝統がありますからね。色々と、あの手この手も伝えられているというわけで」
おどけた物言いにマックが失笑し、フィンも表情を緩める。監査官がどうあれ、軍団兵の中に味方がいるのは頼もしいことだった。フィンは少し気を楽にして言った。
「何にせよ、ナナイスはれっきとした自治都市です。本国で決定された、税金や法の施行に関すること以外は、監査官の命令に従う義務はありません。横車を通そうとするなら、そう言って拒否しますよ」
「閣下はウィネアの第八軍団とコムリスの第十軍団、それに皇帝陛下の信頼を得ておいでですからね。相手も引っ込まざるを得ないでしょう。しかしあまり彼の御仁の面目を潰さないようにお願いします」
兵士の答えを受けて、自分はそんなに大物だったろうかとフィンは内心苦笑しながらうなずいたのだった。




