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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
131/209

1-4. 月夜の高楼で



 暗い。どこまでも、どこまでも暗い闇がそこにある。

 目ではそれを捉えることが出来ずとも、確かにそこに“在る”と、魂が感じ取っている――その証拠に、震えが止まらない。

 不意にひやりと冷たいものが肩に触れ、マリウスは弾かれたように跳ね起きた。水で湿らせた手巾が肩から腹に落ちる。喘ぎながら振り向くと、不安を湛えた妻の顔があった。

「ああ……エディオナ……」

「ごめんなさい、あまりうなされているものだから。でも、かえって良くなかったかしら」

 エディオナは布を拾い、汗ばんだマリウスの額を拭った。マリウスはその手にそっと己の手を重ね、目を閉じた。

「いや、ありがとう。おかげで悪夢から逃れられた」

 ほっと息をつく。エディオナがその顔を覗きこむようにして問うた。

「酷くお心を悩ませることがありまして?」

「悩みの種は尽きないが、君がこうしていてくれるだけで、楽になるよ」

「優しいお言葉ね。でもわたくしはあなたの苦しみを見ていることしか出来ませんの?」

「私自身にもどうしようもないことだよ。君にも、あの将軍にさえも」

 マリウスは寂しげに微笑み、軽く妻の額に唇を当てて、寝台から降りた。上着を羽織り、

「少し歩いてくる」

 出て行こうとした背中に、エディオナがささやく。夜の闇を一瞬切り裂く、銀の針のように。

「エレシア様は必ず戻られるわ」

「ああ」

 もちろんだ、とマリウスは小さくうなずいて、振り返らずに部屋を出た。

(分かっている。恐らく今このノルニコムにいる誰よりも、私が一番、エレシア様の無事を信じているだろう)

 己に施された炎の加護がまだ消えていないからには、炎竜ゲンシャスも竜侯エレシアも、まだどこかで生きているのだ。それを彼は知っている。

 だが、誰にもその秘密を打ち明けてはいなかった。

 はじめは、じきに加護が弱まって消え、絶望に突き落とされるのではと恐れて。

 そして次には、早まった民が彼自身を竜侯の跡継ぎに祭り上げて暴走することを懸念して。

 さらに時が経つと、果たしてエレシアは本当に帰ってくるだろうか、民は――否、己は、本当にそれを望んでいるだろうかと、分からなくなって。

 人気のない廊下を、弱々しい手燭の明かりを頼りに歩く。かつてエレシアがよく登っていた楼に出ると、涼しい夜風が頬を撫でた。マリウスは心地良い夜気を吸い込み、その中に人の気配を感じ取って振り向いた。

「――将軍」

 楼の反対側で、手摺に寄りかかって星空を見上げる人影。それが、マリウスに呼ばれて振り向いた。

「マリウス殿か。如何された?」

「将軍こそ、なぜこんな場所に。明かりはどうされたんです、まさか闇の中を手探りでここまで登られたわけではありますまい」

 困惑するマリウスに、グラウスは広い肩をすこし震わせて笑った。

「むろん手燭を持参したが、月も明るいし、どうせ夜明けまでここにいるのでな。消してしまった」

「……眠れないのですか」

「毎晩ではないさ。俺はそれほど繊細な性質ではない」

 グラウスはひらひら手を振っていなし、また手摺から身を乗り出す。その視線は、今度は空ではなく大地に向けられていた。

「だがその俺でも、時折なにやら不穏な気配を感じて眠れぬことがある。ああ、ノルニコムの民の敵意ではないぞ。そちらはもう慣れた。そうではなく、もっと遠くからじわじわと我々を取り囲んでくるような……闇の気配だ」

「将軍も感じておいででしたか」

 民の敵意云々はあえて聞き流し、マリウスは将軍の横に並んで闇に目を凝らした。

 エレシアがいなくなって三年。

 炎竜の力を注がれていた辺境の篝火がひとつふたつと闇の獣に消され、夜空を駆ける竜の翼もなくなって、東部ノルニコムもやはり、端からじわじわと崩壊しつつあった。かつて北部が辿ったのと同じ運命をなぞるように。

 北部よりも悪いことに、ノルニコムの東には奈落がある。世界の果て、神々の怒りのしるし、生けるものすべてが寄りつかない底なしの亀裂。そこではもう、どのような神の力も働かない。

 奈落が忌地であるのは闇の眷属にとっても同じ筈だが、人間達にとっては、まるで奈落から闇が無限に吐き出されては寄せ来るように感じられ、恐怖と絶望とがいやますのだ。

 マリウスはさっと周囲を確かめてから、声を潜めてささやいた。

「ここだけの話ですが、我々は三年前のあの日以来、いつになったら将軍は都に帰るかと、そればかり考えてきました」

 不穏な発言にも、グラウスは鼻を鳴らして肩を竦めただけだった。

 実際彼も、もっと早く帰れるだろうと踏んでいたのだ。代わりの軍団司令官を評議会が任命し、自分は再び皇都に戻ってヴァリス帝のそばで、皇都守備隊の司令官として彼を支えられるはずだと。

 だがノルニコム人は表向き従順に振舞っていても陰での画策をやめず、逃亡兵の追跡と掃討も簡単にはゆかず、ずるずると居座るはめになった。そして今では……

「ですが今では」マリウスがグラウスの心中を代弁する。「将軍がなるべく長く居続けてくれぬだろうかと期待している。勝手なものです」

「勝手なのは俺もだ。都のことも気にかかる一方で、ノルニコムを離れたらとんでもない災厄が降りかかるのではないかと、まるで我が土地のように案じているのだからな」

 グラウスはにやりと皮肉に笑い、ふと真顔になってマリウスを見つめた。

「貴殿も辛い立場であろう」

「……どういう意味でしょうか」

 警戒して顔をこわばらせたマリウスに、グラウスは眉を上げて苦笑した。手摺に寄りかかり、ふっとため息をつく。

「竜侯エレシアの下で戦闘の指揮を一手に担っていた、優秀な司令官。貴殿自身も、俺や本国に対して不満はあろうが、それとは別に民の憤懣をも受け止めねばならぬ。貴殿個人が態度を和らげたくとも、民はそれを許すまい。闇の獣の脅威から、その民を守らねばならぬという理由があってさえ」

「…………」

「口を閉ざす必要はない。貴殿らが女領主の帰還を諦めておらぬことは、俺も承知だ。かつての主を恋しがっておるからとて、片っ端から投獄するほど愚かではないぞ」

「将軍も、お辛いことですね」

「まったくな」

 グラウスはちょっと笑った。皮肉でも自己憐憫でもなく、からりとさばけた笑い方だった。

「俺自身、再びあの貴婦人にまみえることが叶わぬものかと、わずかながら望みを抱いておるのだから、始末が悪い。万が一それが実現した時には、今度こそ焼き尽くされるであろうにな」

 処置なしとはこのことだ、とグラウスは首を振り、手摺の上で頬杖をついた。その横顔を、マリウスは愕然として見つめる。

 確かにグラウスは“亡き領主”エレシアに対して敬意を払い、これまで決して侮辱も軽蔑もしなかった。だがそれは、彼の武人としての誇りと、民心をなだめる必要があってのことだとばかり思っていたのだ。しかし今、目の前にいるのは、儚く散った恋心の名残を夜空に追う、一人の男だった。

 マリウスの凝視に気付き、グラウスは照れ隠しの奇妙な表情で振り向いた。

「笑いたければ笑っても良いぞ。まあこれも、“ここだけの話”だ」

「将軍……」

 どう応じたものか分からず、マリウスはただ曖昧に首を振って視線を落とした。

 しばし沈黙が降りる。風に流された雲が、柔らかな月光をつかのま遮った。

「そう言えば」

 グラウスが咳払いし、ごまかすような口調で切り出した。

「今ふと思い出したが、貴殿は元々、騎兵隊の司令官であったな。珍しい」

 ディアティウスの軍団は基本的に歩兵中心である。馬の数がそう多くはないのと、飼育・調教の技術がほぼドルファエ人に独占されており、本国人がそれに携わるのは卑しいこととされてきたせいもあって、騎兵部隊はあくまで歩兵の援護という位置付けだ。

 よって軍団司令官も伝統的に歩兵である。グラウスも時と場合に応じて騎乗はするが、その方面に長けているわけではない。

 マリウスは「はい」と応じてうなずき、ふと懐かしむ表情になった。

「私が兵役に就いた日に、当時の司令官が一目見ておっしゃったのです。『おまえはくるぶしが低すぎて歩兵に向かん、馬に助けて貰え』」

 いかめしい口調を作って言い、彼は小さく苦笑した。グラウスは「ほう」と面白そうな顔になって、マリウスの足を見下ろす。ちょうど月がまた顔を出したので、マリウスはひょいと片足を光の当たる場所へ出した。弱い月光だけでも、サンダル履きの足の形ぐらいは見える。

「格別低いとも思えぬが、確かに高くはないな」

 グラウスが評すると、マリウスは足を下ろして微笑んだ。

「お気遣いありがとうございます。ですがそうして騎兵に任じられたおかげで、色々と学ぶ事が出来ました。今では騎兵であることに誇りと自信を持っていますよ」

 その温かな笑みは、目の前の人物に向けられたものではなかった。グラウスはそのことに気付き、居心地悪そうに頭を掻いた。顔を背け、複雑な声を漏らす。

「……良い上官だったのだな」

「はい」

 マリウスもまたグラウスの心情を察して、表情を消した。

 彼を見て騎兵になれと命じた往時の司令官は、その後も何かと目をかけてくれた。父を早くに亡くし、後ろ盾となる親類縁者もなかったマリウスにとって、どれほど彼の存在が大きかったことか。贔屓されて実利を得るようなことは勿論なかったが、領主とその奥方に並んで、司令官は精神的な支えだったのだ。

 ――それを、ゲナス帝が奪った。

 遠い記憶が次々とよみがえり去来する。これ以上、ここに、本国の将軍と並んではいられない。

 マリウスは目を伏せ、胸から溢れそうな思いをぐっと飲み込んだ。

「お邪魔しました」

 かすれ声でそれだけ言うと、彼は一礼し、楼を去った。

 二人の男の様々な想いを飲み込んで、暗く重く夜風が渦を巻いていた。


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