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灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
114/209

5-4. 二人のセナト


 空も大地も区別なく、あまねくものを巻き込んでどす黒い霧がうねる。太陽は覆い隠され、赤錆のような鈍い光だけがぼんやりと世界を照らしている。

 存在を歪められた精霊が悲鳴を上げて身を捩り、血を流しながら助けを求めて手を伸ばした。その足元に霧が絡みつき、あらがう精霊を少しずつ、少しずつ、吸い込んでゆく。精霊は姿を保てずに薄い影となり、引き伸ばされて――最後まで(くう)に伸ばされた指先の形だけを残し、消えた。

「おのれ、魔術師ども……!」

 霧の手を逃れて飛翔する竜の背で、戦装束の男が呻いた。こめかみに血が伝い、手にした剣は霧を吸ったようにくすんでいる。白銀の竜も輝きを失い、翼や尾の端が擦り切れ、まるで黄昏時の嵐に翻弄される難破船のよう。

 貪欲な霧は不気味に揺れ動き、まわりの一切を吸い込みながら、竜と竜侯に向かってゆっくりと手を伸ばしてゆく――


「――!」

 ビクッ、とわななき、不意に目が覚めた。自分が誰で、ここがどこなのか、すぐには思い出せず少年は目をしばたたく。柔らかな白い光と、穏やかな静寂に満ちた書斎だ。窓の外から、微かに潮騒が聞こえる。動悸がおさまると、セナトはゆっくり息をついた。

「しまった、寝ちゃった」

 つぶやいて顔をこすり、下敷きにしてしまった書物を汚していないか慌てて調べた。よだれの染みなどつけては、怒られるだけでは済まない。

 無事を確かめると、彼はもう一度、今度は深い安堵の息をもらした。身を起こすと、肩から毛織のショールが滑り落ちる。いつの間にかうとうとしてしまった彼に、ネラがかけてくれたのだろう。

 ぼんやりとそれを椅子の背もたれにかけ直したところで、セナトはぎょっとなった。薄暗い奥の部屋から、魔術師オルジンがこちらをじっと見ていたのだ。セナトが身をこわばらせている間に、彼はほとんど足音を立てずにセナトのそばまでやって来た。彼と一緒に暗がりまでが移動してきたように思われて、セナトは夢の残滓に小さく身震いする。

 そんなセナトの反応には構わず、オルジンは机上に広げられている書物にちらと目を落とした。

「興味がおありですかな」

 かさかさと乾いた声がささやいた。セナトは眉を寄せ、怒りと反発の炎を掻き立てて、精一杯相手を睨みつける。だがその視線も相手に何らの傷を負わせることなく、ただ暗い瞳に吸い込まれていった。

 オルジンはちょうど開かれていた章をトンと指で示し、平坦な声で言い足した。

「竜を殺す方法に」

「……っ、おまえと一緒にするな!」

 セナトは怒鳴り、ひったくるようにして書物を奪った。激しい動作にも、オルジンの方は微動だにしない。彼は静かに続けた。

「次期皇帝ならば知っておくべきかと」

「おまえの指図は受けない。僕が知りたいのは、竜侯がどういうものか、過去に真実何があったのか、それだけだ。読む限りではおまえのような魔術師は、ろくなことをしなかったようだな」

 セナトは挑むように言い放ったが、やはり何の反応をも引き出せなかった。硝子玉めいた水色の双眸にじっと見つめられ、薄気味悪くなる。怯むまいと彼は強いて睨み返したが、じきに顔を背けてしまった。

「力を制するものが勝つ。それは今も昔も変わらぬ理です」

 ささやいたオルジンの声は、微かに熱を帯びていた。言葉が蜘蛛の糸のように、心に絡みつく。セナトはそれを振り払おうとばかり、勢いをつけて立ち上がった。

「うるさい、邪魔をするな!」

 怒鳴りつけたと同時に、外からネラが駆け込んできた。

「セナト様、どうなさいました?」

 慌てて声をかけ、彼女はぎくりと立ち竦む。セナトはネラの背後に隠れたいのをぐっと堪え、「なんでもない」とぶっきらぼうに答えた。

「こいつが下らないおしゃべりをしてきただけだ。オルジン、用がないならさっさと自分の居場所へ戻れ。書物に埋もれた、過去の夢の中へ」

 剣呑に命じたセナトに、オルジンは皮肉でもなく淡々と、

「夢を見ていたのはどちらでしたかな」

 それだけ言ってくるりと背を向けた。セナトは赤くなって歯噛みしたが、文句を言って引き止めるよりはと、黙って立ち去らせた。かなりの忍耐が必要だったが。

 魔術師が去って、薄暗かった室内がまた少し明るくなったようだった。セナトは手近な物に当り散らしたかったが、ネラの手前、我慢して少し乱暴にショールを取るだけにとどめた。

「これ、ありがとう」

「どういたしまして。起こして差し上げた方が良かったようですね」

「うん。いや、いいんだ。……魔術師が皆あいつみたいなのだったら、神々が力を貸してくれなくなったのも当然だって気がするよ」

 セナトは苛立ちをため息にして吐き出し、やれやれと頭を振る。ネラが気の毒そうに眉をひそめ、「こんな時に申し訳ありませんが」と切り出した。

「お祖父様がお見えになりました。客間にお通しするように言っておきましたが……お会いになられますか?」

 弱り目に祟り目。セナトは思わず椅子の背もたれに突っ伏してしまった。が、気分がすぐれないから会わない、などと言うわけにいかないのは、よく分かっていた。祖父はいつでも、自分の意志を通すのだ。たとえ本当にセナトが寝込んでいたとしても、枕元までやって来るだろう。

「もちろん、すぐに行くよ。ネラ、僕の顔に変な跡がついてないかい」

「大丈夫です」

 ネラは屈んで手櫛でちょいちょいとセナトの髪を梳かし、一歩下がって全身を点検してから満足げにうなずいた。いつもの、これぞ自慢の坊ちゃまです、と誇るような笑みを浮かべて。

 セナトは少しくすぐったくなって奇妙な顔をすると、急ぎ足に書斎を出た。

「わざわざここまでおいでになるなんて、何があったんだろう」

「立ち寄っただけだとおっしゃったそうです。皇都に御用があって、お帰りの際に回り道をなさったのでしょう。セナト様がお元気かどうか、見に来られただけだと思いますが」

「来てくれない方が、確実に元気だったと思うけど。……まあ、母上がご一緒でないだけましだね」

 セナトは曖昧な表情で肩を竦めた。もちろん、母に会いたくないという意味ではない。母にも会いたいが、祖父と同時に、というのはまずいのだ。昔からいつも、母と祖父とは何事につけ諍いばかり繰り返してきたものだから、セナトは二人の揃っている場面に居合わせるだけで、胃がぎゅっと縮こまるような気分になる。

 祖父一人に限って言えば、セナトは彼を畏怖してはいたが、嫌っているわけではなかった。

 客間の戸口で、ネラが先に立って告げる。

「イェルグ様、ネナイス様をお連れしました」

 同じ名前の二人を家族名で呼び分け、侍女らしく慎ましやかに後ろへ下がる。セナトは小さくうなずいてから、深呼吸をひとつして、部屋に入った。

「お久しぶりです、お祖父様」

「うむ。……息災のようだな、よろしい。皇都で会えるかと思うたが、早々とシロスへ向かったと聞いて驚いたぞ」

 セナト侯は長椅子に座っていたが、孫の姿を見ると立ち上がり、そばまでやって来てしげしげと眺め回した。表情は相変わらず厳しいが、声は穏やかだ。セナトは祖父を見上げ、すみません、と素直に詫びた。

「本物の竜侯に会って、どうしても色々と知りたくなったものですから。お祖父様もお変わりないようで、何よりです」

「わしの心配は要らぬ。そなたも竜侯に会ったか。過去から学ぶのは良いことだ……いずれ実際に、そなたの役に立つであろう。皇帝としてディアティウスを治める以上、竜侯をも支配出来ねばならぬのだからな」

 祖父の言い様に、セナトは複雑な気分になった。先刻のオルジンとのやりとりが脳裏をよぎる。

(だからあいつは、竜を殺す方法を知っておくべきだと言ったんだろうか。だとしても、それで竜侯を支配するなんて、出来るわけがないのに)

 天竜侯はともかく、オルゲニアのウティアは到底、世俗の支配など及ばぬ存在に思えた。協力してもらうか、あるいは互いに不干渉を保つのが良いところだろう。

 とは思えど、祖父に口答えをするほどのことでもない。セナトはただ「はい」とうなずいておいた。――と、まるでその心中を見透かしたように、セナト侯が言った。

「オルジンを伴っておるであろう」

「は、い……」

 返事が喉元でつっかえる。祖父の目が途端に冷ややかになったように思われて、セナトはぎくりと身をこわばらせた。

「古代の遺物に関して、あれはかなり造詣が深い。あれから学べることも多かろう。せいぜい利用するが良い」

「…………」

 今度は流石に、すんなりと(うけが)えなかった。セナトが返事に窮したまま立ち尽くしていると、祖父は意地の悪い笑みを一瞬、口元に閃かせた。

「あれを恐れているようでは、この先やってゆけぬぞ。そなたのまわりには、これからどんどん魔物のごとき輩が群がることになるのだからな」

 そして、彼は孫の頭を軽く撫で、励ますように肩をぽんと叩いた。

「萎縮するな、常に強くあれ。我が血と名を受け継いだそなたならば、必ずや偉大な皇帝になれる」

「ご期待に沿えるよう、精一杯努めます」

 昔から何度も繰り返してきた答えを返し、セナトはこっくりうなずいた。

 セナト侯は彼の返事を確かめて満足したように、体を厭え、書物ばかりに没頭せず運動もせよ、等とおざなりに言い足して、あとはもう、出された茶も飲まずに出て行ってしまった。

 祖父の乗った船が島を離れるまで見送り、セナトはふうっと大きなため息をついて空を仰いだ。

 あの魔術師に恐れを抱かないとは、流石にお祖父様だな、などと感心する。それだけに、要求されている水準がとてつもなく高いと、嫌でも気付かされた。まるきり別の生き物になれと言われているようなものだ。

 失望されるのではないかという不安が、胸中に黒い翼を広げる。祖父だけではない、両親の期待をも、彼は常々感じていた。望む姿はそれぞれ異なるかもしれないが、ともかくセナトが凡人とは一線を画した人物になることを、彼らは切に望んでいる。

 もし、それが出来なかったら――

 不意にぞっとして、セナトはぶるっと首を振った。

(やっぱり僕は帰ってくるべきじゃなかったのかも知れない)

 つい弱気になる。だがすぐに彼は、ファーネインのことを思い出した。自然と顔が上がり、背筋が伸びる。

(でもとにかく、やれるだけやるしかない。僕自身が望む大人になれるように)

 あの幼い少女が安心して出て来られるような世の中を作るだけの、力のある人物になる。それが今の目標だ。たとえ、祖父や両親の期待には外れるとしても。

 セナトは遥か西の海を見やり、本土の海岸線がうっすらと煙る水平線と交わって消える辺りへ向けて、心の中で呼びかけた。

 ――待っていて、きっと迎えに行くからね。


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