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0022話 予想外(1942年8月25日) 

●8月25日

 サーラサラサラー

 ぺったん

 サーラサラサラー

 ぺったん

 サーラサラサラー

 ぺったん

 サーラサラサラー

 ぺったん


 …………飽きた。

 もう飽きたよ。

 書類に目を通して署名して捺印するのに飽きたよ。


 朝からずっと書類を処理している。

 指が痛むよ。腕が痛いよ。肩が凝ったよ。腰にも響いて来た。


 それでも、目を通して署名して捺印して、目を通して署名して捺印して、目を通して署名して捺印して、目を通して署名して捺印して。


 でも書類の山は一向に減らない。

 終わらない無限地獄。いや書類地獄。


 まぁこの中には昨日考えて決めた新たな艦艇の配置に関する物もあるから自業自得の部分もあるんだけどさ。幕僚達は誰もあの案に反対しなかったよ。おかげで事は速やかに進んだけど、その分決済する書類は増えたよ。トホホ。

 書類は管理職の大敵だね。


 ちょっと一休みしよう。

 そう言えば豊田副武大将からお裾分けでもらった「塩○」の饅頭がまだあったな。

 食べよう。疲れた時には甘い物が一番だ。

 ……あぁ美味い。

 甘さが体中に染みわたっていくようだ。

 ふぅーーーーっ。さて、また書類仕事に精を出すか。


 おっ、この書類は平塚の火薬廠向けのだ。

 思うんだけど。

 幾ら連合艦隊で火薬を大量に使用するからと言って、火薬の製造と供給は後方業務なんだから何も連合艦隊司令長官から直接、火薬廠宛てに命令書を出すような体制にしなくてもいいんじゃないのかな。


 連合艦隊司令長官は実戦部隊の指揮をとるのが主任務じゃないか。

 何のために軍令部と海軍省があるんだ。後方業務の万全を期すためだろう。

 こんな火薬廠宛てへの仕事も是非やってほしい。


 自分は断固抗議する!

 現在の連合艦隊司令長官職は過重労働だと!

 そして要求する!

 職務の軽減を!

 ……虚しい。


 馬鹿な事を言ってないで、この平塚火薬廠宛ての命令書にも署名して捺印っと。サーラサラサラー、ぺったん。


 そう言えば史実では戦時中に連合艦隊司令長官が平塚火薬廠宛てに出した命令書でちょっとした騒ぎが起きたという話があったな。

 その時の連合艦隊司令長官が、「塩○」の饅頭をお裾分けしてくれた豊田副武大将だ。


 大戦後期の1944年9月、連合艦隊司令部は長年の伝統に終止符を打ち地上に移る。

 それまでの連合艦隊は創設以来、司令部は必ず軍艦に置いていた。

 しかし、太平洋戦争では過去の戦いに比べ格段に戦線は広がり指揮する部隊も多くなった。

 円滑に指揮するためには軍艦では手狭で通信設備も限られているという事から地上に移ったのだ。


 ただし、誰もが諸手を上げて賛成したわけではない。

 連合艦隊の伝統と歴史を重んじ司令長官は艦上にあり率先垂範して将兵を率いるべきだという声も少なからず上がっている。


 平塚火薬廠でちょっとした騒ぎが起きたというのも連合艦隊司令長官の居場所に纏わるものだ。

 命令書を連合艦隊司令長官が出す場合、その命令書を書く項目の中に「発令場所」というのがある。

 それは連合艦隊司令長官が、どこからその命令書を出したかを記す項目だ。

 これは通常、長年の伝統として連合艦隊旗艦に連合艦隊司令部があり連合艦隊司令長官が座乗している事から連合艦隊旗艦の名前が必ず書かれていた。


 現在の連合艦隊司令長官である自分の場合、発令場所は当然の事ながら「大和」と書いている。時々、大和の上に「宇宙◯艦」と書きたい衝動に駆られるのだが、それはまぁ別の話だ。


 史実において地上に連合艦隊司令部を設置した豊田副武大将の場合、この発令場所を空白にして命令書を出している。

 連合艦隊旗艦に乗っていないのだから仕方のない事ではある。


 しかし、この命令書を受け取った平塚火薬廠の責任者たる廠長は驚いた。

 発令場所。つまり連合艦隊司令長官が乗艦する艦の名前が空白なのだ。

 もう連合艦隊には司令長官が乗る軍艦も無いのかと愕然とした。

 もし、これを一般の職員や工員にでも知られれば士気に関わると廠長は青くなり、慌てて書類を見た者全員を確認し箝口令を布いたそうだ。


 連合艦隊司令長官は連合艦隊旗艦に座乗し指揮しているもの。

 それはこの時代、一般人にまで浸透している日本海軍長年の伝統だ。

 全ての事情を知る由もない者が見れば誤解をするのも当然だろう。

 それだけ歴史と伝統には重みがあるという事だ。


 ちなみに自分は連合艦隊司令部を地上に移す気は無い。

 合理性や理屈から言えば地上に移す事は正しい選択だろう。

 だが、世の中、合理性や理屈ばかりが全てではない。

 史実で歴史と伝統を重んじ連合艦隊司令部の地上への移設に反対する声が少なからず上がっている事からもそれはわかるだろう。


 人は感情の生き物だ。

 理屈で動く者ばかりではない。

 特に士気という点では理屈よりも感情に直結する場合が多い。


 第二次世界大戦においては日本軍の行き過ぎた精神主義が批判の対象となったりするが、連合軍の中にも合理性よりも長年の伝統を重視したケースが見られる場合もある。


 例えばイギリス軍のバグパイプだ。

 コーネリアス・ライア○原作の戦争映画「史上最大の作○」では、ノルマンディー上陸作戦においてバグパイプを吹く兵について前進するイギリス軍部隊が登場するが、あれは実話という話だ。

 

 イギリス軍のと言うよりスコットランド兵の場合、バグパイプを吹く風習は中世初期にまで遡る。

 バグパイプ手は最前列に立ち伝統の曲を吹いて兵士達の士気を鼓舞し敵を威嚇する事が役割りだ。

 兵士達からすれば武器を持った自分達が、バグパイプで両手が塞がっているバグパイプ手を残して逃げる訳にはいかない。バクパイプ手の勇気には勇気をもって応えるのがスコットランド流の戦士であり兵士だ。

 

 その伝統は何と現代のイギリス軍においても残されている。

 現代のイギリス陸軍のロイヤル・スコットランド連隊は5個大隊で編成されているが、その各大隊にバクパイプ手が配属されているのだ。

 こんなハイテク兵器での戦争の時代になってさえ、イギリスのスコットランド部隊はバグパイプを廃止しようとはしない。

 

 合理的に考えればバグパイプは廃止して歩兵の訓練に専念させた方が数字上は戦力が上がるだろう。

 だが、目には見えない士気という点を考えると長年の歴史と伝統を受け継ぎ部隊を纏めて来た誇りあるバグパイプ手はスコットランド部隊には必要不可欠なのだ。


 士気は精神的要素だ。全てが理屈で動くものではない。

 

 もし全てが合理性と理屈で片付くのなら、あのイタリア軍だって第一次世界大戦や第二次世界大戦で、あんなに弱かったわけがない。

 だが、実際には第一次世界大戦、第二次世界大戦におけるイタリア軍の弱さはもはや伝説的だ。

 既に神話の域にさえ達しているかもしれない。

 実際、イタリア軍が敵の何倍もの兵力で優勢だったにも関わらず降伏した例は幾らでもある。数えるのも嫌になるくらい多い。


 士気を重視する自分はそれ故、連合艦隊司令部を地上に置く気はないのだ。

 それに連合艦隊司令部を地上に置いたからと言って、すぐに劇的に効果が上がるわけでも、必ず海戦に勝利するというわけでもない。

 実際、史実では連合艦隊司令部を地上に移した1ヵ月後に「レイテ沖海戦」が行われたが、その結果は無惨な敗北だ。

 

 現状では多少の不便さには目を瞑り、全海軍将兵、全国民への士気を考慮して自分は連合艦隊司令部を旗艦「大和」に置いておくつもりだ。


 昨日、日本機動艇協会が発行している月刊雑誌「舵」について触れたが、その「舵」の1943年6月号の編集後記には次のような言葉がある。

「(山本元帥死す。生死を超越して常に陣頭に指揮を採るは、皇軍武将の慣わしであるとは云え、元帥戦死の報は、青天の霹靂の如く全国民の胸をうった)」

 

 そう皇軍の指揮官は常に陣頭指揮をとらにゃあいかんのですよ。

 それが慣わしなのですよ。伝統なのですよ。将兵と国民が期待している事なのですよ。


 ちなみに今回の歴史では自分は戦死なんぞせんぞ。太平洋戦争を勝利に導いた立役者、偉大なる提督として敬われながら、自宅で大往生を遂げるのだ! 絶対にだ!


  それはそれとして、自分は史実のように、後に戦艦「武蔵」を連合艦隊旗艦とするつもりもない。

 「大和」は特別なのだよ「大和」は。

 「大和民族」と言う言葉があるように、旧国名「大和」は日本民族を表す言葉そのものという意味合いもある。

 「大和」という言葉は日本そのものを表すと言っていい特別な言葉なのだ。


 史実でも今回の歴史でも既に戦艦の役割は限定され海戦の主役は空母となってしまった。

 しかし、それを知るのは海軍軍人であり一般の国民はまだ戦艦こそが主役だと信じている。

 いや海軍軍人にさえそういう考えを持つ者はまだまだいる。

 それ故に大日本帝国海軍の連合艦隊旗艦には最強の戦艦「大和」こそ相応しいのだ。  


 とは言うものの士気については頭を悩ます状況が出てきている。「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」では、連合艦隊旗艦「大和」を始めとする大半の戦艦は後方にいて、殆ど役に立たなかった。


 そうした事から航空隊では

「戦艦部隊は無駄飯食いの役立たずじゃないか」

「俺達ばかりに戦わせやがって」

「俺達こそが連合艦隊の主力だ!」と息巻いているという話を小耳に挟んだ。


 その逆に戦艦部隊では

「何時になったら俺達に活躍の場は与えられるんだ」

「連合艦隊司令部は何をしているんだ」という不満が噴出しているという話を小耳に挟んだ。


 困った。連合艦隊司令部は航空隊と戦艦部隊の板挟みである。

 直接的には何も言ってこないが、そういう話が連合艦隊司令長官たる自分の耳に聞こえてくるという事自体が問題の深刻さを表している。


 何か上からは押さえつけられ下からは突き上げられる中間管理職になった気分だ。連合艦隊司令長官なのに。連合艦隊司令長官なのに。トホホ。 


 航空隊と戦艦部隊の不満を解決するには新たな戦いで戦艦部隊に活躍の場を与えるしかないだろう。

 そうしなければ不満が鬱積し士気の低下を招きかねない。

 何とか「ハワイ攻略作戦」で、戦艦部隊を活躍させる場面ができればいいのだが……





 お昼の時間になった。

 今日のお昼は「稲庭城下うどん」だ。

 「ざる」にしたが、うん、美味い。夏はやっぱり「ざる」が一番!

 

 ちなみに、この「稲庭城下うどん」は後藤英次中将が送ってくれたものだ。

 彼は開戦時、「第4艦隊」麾下の「第24航空戦隊」司令官として南方の最前線で航空隊を率い戦って来た。

 今年の6月に人事異動で軍令部付となり、その時、暫くぶりに故郷の秋田に帰郷したらしい。それで、秋田名物の「稲庭城下うどん」をこちらに送ってくれたというわけだ。ありがたや、ありがたや。

 夏になったら「ざる」にしていただこうと思い、今までとっておいた。

 

 現代日本でもスーパーで生麺タイプの「稲庭城下うどん」はよく見かける。

 しかし、後藤君の送ってくれたこの「稲庭城下うどん」は伝統工法で造られた乾麺タイプだ。

 

 普通、乾麺というと現代日本のスーパーで販売されているウドンや蕎麦は長さが約20センチ程だ。

 パスタのスパゲッティの乾麺などはちょっと長くて約24センチ程だろう。

 

 だが、この「稲庭城下うどん」は結構長く約32センチという長さだ。

 職人が丹精込めて一本一本捏ねて、手綯(てな)いし、伸ばしたまさに職人芸により造られし至高の麺!!

 江戸時代、秋田の地を治めていた佐竹のお殿様が、このウドンを愛し庇護したというのも頷ける美味しさだ。

 その約300年にも及ぶ歴史と伝統を守って来た究極の手造り麺が今、ここに!!


あぁっ美味い。茹ですぎると味が落ちてしまうのだが、これは絶妙の茹で加減。

 麺そのものの味といい、食感といい、舌触りといい、咽喉越しといい、まさに絶品!!

(つゆ)も見事に出汁がとれていて、麺の旨さと最高のシンフォニーを奏でている!!

美味い! 美味いよ「稲庭城下うどん」!! 

満足、満足!!

 連合艦隊司令部の面々も旨いと喜んでいる。

 後藤君には感謝だね。





 午後、「第8艦隊」司令部から報告が来た。


 昨晩、行われたグッドイナフ島からタウロバへの舟艇移動は成功したそうだ。

現地では昨晩、雨が降り大変だったようだが、逆にそれが幸いし敵の妨害を受けず天候は味方したと言える状況だったらしい。


 グッドイナフ島に向かった機雷敷設艦「津軽」も無事に負傷兵を収容し、大発用の燃料を引き渡し、ラバウルに向かっているそうだ。

 良かった、良かった一安心。


 他にポートモレスビー攻略作戦を行っている「南海支隊」の進撃状況についての報告もあった。

「南海支隊」本隊は昨日、ココダを出発したそうだ。

「南海支隊」先遣隊はイスラバでオーストラリア軍を撃破し更に前進中との事だ。


「南海支隊」先遣隊の進撃が少しだけ史実より早い。

 恐らく航空支援のおかげだろう。史実では「ガダルカナル攻防戦」の発生により航空兵力をそちらに注ぎ込む結果になった。

 だが、今回の歴史では「ガダルカナル攻防戦」が発生していないので、ラバウル航空隊を中心とする航空隊は「南海支隊」に対する航空支援を史実よりも行えている。

 その結果が「南海支隊」先遣隊の史実よりも早い進撃速度となって表れているのだろう。


 ただし、その先遣隊から本隊への伝令では既に手持ちの食糧は尽きている状況らしい。野生の芋を掘って食べて飢えを凌いでいる状況だそうだ。可哀想に。


 そう言えば史実では、イスラバは「南海支隊」本隊の引き連れていた最後の軍馬が力尽き亡くなった地だ。亡くなった馬は食糧とされた。それまで軍馬の世話をして来た者にとっては辛い結果だ。


 オーエンスタンレー山脈に軍馬を引き連れて行ったという話を知った時は、あんな山脈に馬を……と驚いたものだ。結局、ポートモレスビーまで約半分の距離までしか来られなかったわけだが。


 史実においてココダ街道の険しさについてはココダの次のギラからは馬の通行も不可能で人がようやく通れるという報告が「第8艦隊」経由で海軍上層部に入って来ている。

 ココダ街道はギラの次はデネギ、そしてイスラバへと続いている。

 そのイスラバまで「南海支隊」が軍馬を引き連れて行ったというのは相当な困難があった事だろう。だから軍馬も力尽きたのかもしれない。


 それはともかく現在「南海支隊」の状況が「第8艦隊」司令部に伝わっているのは、「南海支隊」に「海軍通信隊」が同道しているからだ。これは史実でも同様だ。

 

 今回の「ポートモレスビー攻略作戦」では「南海支隊」がスタンレー山脈越えでポートモレスビーに迫るのに合わせて海上から「川口支隊」がポートモレスビー近郊に上陸作戦を行う作戦だ。

 陸と海からポートモレスビーを一気に落とす挟撃作戦。

 

 その為もっとも効果的なタイミングで「川口支隊」の上陸作戦ができるようにしなければならない。

 海軍は適切に「川口支隊」がポートモレスビーまで海上移動できるようにしなければならない。

 その為には「南海支隊」の進撃状況を常に把握しておく必要がある。

 

 そういう訳で「第8艦隊」司令部から「南海支隊」に「海軍通信隊」が同道する事になった。

 「海軍通信隊」の人数は指揮官の派遣参謀1人に通信隊の士官1人、暗号員4人、電信員5人の総勢11人だ。

 指揮官の派遣参謀は小屋愛之大尉。 

 その辺は史実通りの話だ。


 史実においてギラからは馬の通行も不可能と報告して来たのもこの「海軍通信隊」だ。

 今回の歴史でもあと数日もすればそういう報告を送って来るだろう。  


 ちなみに小屋愛之大尉は元は重巡洋艦「鳥海」の水雷長だったが、人事異動で第8艦隊司令部付になったところをこの任務に派遣された。

 史実では「第1次ソロモン海戦」の後に第8艦隊司令部付になったが、今回の歴史では「ミルン湾海戦」の前に第8艦隊司令部付になっている。

 今回の歴史では「ミルン湾海戦」で「鳥海」が沈み大勢の犠牲者を出したわけだが、その前に艦を降りるとは運がいいのか、悪いのか……


「海軍通信隊」はスタンレー山脈の麓のココダに無線中継基地を設営し、「南海支隊」に同道した通信隊は携帯無線機でこの中継基地を介してラバウルの第8艦隊司令部に状況を知らせる態勢をとっている。

 海軍に入った時には、まさか海の男が海を離れて険しい山々を登ったり密林に入ったりする羽目になるとは想像だにしなかっただろう。

 不運だとは思うがこれも任務だ、頑張ってくれたまえ。


 史実では「海軍通信隊」の面々は非常に苦労する。隊員全員がマラリアにかかりダウンしてしまった事もあったらしい。食糧不足にも苦しんだ。

 まぁ「南海支隊」自体が同様な悲惨な状況においやられていたのだから仕方がない。


 ついでに言えばニューギニアでは日本軍と同様に連合軍もマラリア、アメーバ赤痢、デング熱等の熱帯病に苦しめられた。

 ニューギニア戦線でアメリカ陸軍第1軍団を指揮したロバート・アイケルバーガー将軍は戦後に出した回想録の中で語っている。

「(戦闘を一とすれば厳しい自然環境の苦しさは三であった)」

「(恐ろしいのは敵の弾より熱帯病だった)」


 具体的には1943年1月にニューギニア東部の日本軍の重要な拠点ブナ、ギルワ等が陥落し、東部ニューギニア戦で一つの区切りが付いた時点において約2万8千人もの連合軍将兵が熱帯病に罹患していた。

 これは投入された兵力の約四分の一にまで達する人数だ。

 それまでの戦闘における連合軍の戦死者が約3千人だから、戦死者の約9倍もの人数が熱帯病に罹患していた事になる。

 更に言えば、日本軍が東部ニューギニア戦に投入した兵力は約2万人。敵である日本軍の兵力よりも多い人数が熱帯病に罹患している。

 ロバート・アイケルバーガー将軍が「(恐ろしいのは敵の弾より熱帯病だった)」と言うのも無理はない。

それほど熱帯病は日本軍だけでなく連合軍にも大敵だったわけだ。



 それはともかく、これで「南海支隊」が食糧不足に苦しんでいるという情報を連合艦隊司令部が知ったという状況はできあがった。

 これで以前より密かに考えていた「南海支隊」への空中補給作戦にとりかかれる。

 まさか情報が入ってこないうちから空中補給作戦をやるなんて言い出せなかったからね。


 この密かに考えていた空中補給計画については8月19日に内南洋で予備兵力となっている「木更津航空隊」の一式陸上攻撃機36機をラバウルに送る措置をとったと述べたが、部隊は順次、空路と海路から現地に到着中だ。

 昨日、第11航空艦隊所属の「第34駆逐隊」の駆逐艦3隻が輸送船の護衛任務でラバウルに到着したとも述べたが、その輸送船に乗船していたのが「木更津航空隊」の先発隊だ。


 航空隊も飛行機だけなら移動も早いが、それだけでは長期に渡り部隊として運用する事はできない。

「木更津航空隊」の場合、機体に乗る搭乗員の数だけなら約270人だ。

 しかし、飛行隊には他に整備兵を始めとして、通信、工作、機関、医療、主計、内務等の各科があり、こうした後方要員がいなければ航空隊はその力を充分に発揮できない。

 そして、この後方要員の方が人数が多いのだ。

 1個航空隊におけるこうした後方要員の人数は約1100人~1200といったところだ。

 流石に千人以上ともなると、移動はそうそう簡単にはできず、それなりの日数がかかってしまう。

 それに勿論、整備用の部品や爆弾や機銃弾等大量の補給物資も必要だ。


「木更津航空隊」も全要員が揃いフル活動できる態勢が整うのはまだ先にはなるが、限定された小規模な作戦ならは数日中には可能となるだろう。

 空中補給の指示を出しておこう。



 南の「第8艦隊」の報告に続いて、北からも報告が入って来た。

 アリューシャンのキスカ島、アッツ島を防衛している「北海支隊」だ。

 状況が予想外に悪い。

 非常に悪い。

 とても悪い。 

 陸軍からは物言いがついた。


 キスカ島、アッツ島への敵の空襲がかなり激しいようだ。

 飛行場は建設中で水上機以外の飛行隊はまだ進出できない。

 陸軍はキスカ島、アッツ島に高射砲大隊を配備しているが敵機の空爆を完全に阻止する事はできていない。

 海軍が8月5日に編成し配備したばかりの水上機部隊「第5特設飛行隊」は敵機の迎撃で消耗が激しく、残存機は僅かに1機という状況に陥っている。現在、補充の機体を送っている最中だ。

 そうした結果、両島を守る「北海支隊」は敵の空爆に叩かれ死傷者が続出している。


 ちょっと気になる点があり過去の報告書を取り出して精査してみた。

 やはり…… 

 明らかに史実よりも空爆の規模が大きい。

 回数的には天候の関係で変りないようだが、一回あたり空爆してくる敵機の数が史実よりも明らかに多い。 

 史実では初めて敵の空爆があった時、敵機の数は4機だったが今回の歴史では驚きの8機という具合にだ。


 これはどうした事だ?

 なぜ史実より敵の航空攻勢が激しい?


 ……そうか。

 考えてみれば「MI作戦(ミッドウェー攻略作戦)」の後に「AL(アリューシャン攻略作戦)」を行った。

そして占領したキスカ島、アッツ島に飛行場の建設を開始した。

 

 アメリカ軍からしてみれば、北方のアリューシャン列島沿いに日本軍がアメリカ本土への侵攻作戦を計画していると考えてもおかしくはない。

 史実でもやはりアメリカ軍では日本軍の北方からの侵攻を危惧していた時期があった。

 今回はミッドウェー海戦で日本が勝利したからその危惧は更に強まるだろう。


 だから史実よりも北方でのアメリカ軍による航空攻勢が激しいのかもしれない。

 飛行場建設を妨害するために、北方からの侵攻を遅らせるために、史実よりアメリカ軍はこの方面に航空兵力を注ぎ込んでいるのかもしれない。


 厄介な事になった。

 敵だけの問題じゃない。これには味方の陸軍が絡んでいる。

  

 北海道と樺太、千島列島を守備する陸軍の「北部軍」から「北海支隊」の苦境について大本営に抗議と提案が来ている。抗議については大本営というより海軍へだ。


「北海支隊」は現在、大本営直轄部隊の扱いだ。

 ただし「北海支隊」への補給は「北部軍」が担当している。

 補給品を準備し輸送船を手配するのは陸軍。それを護衛するのは海軍という体制だ。

 しかも、アッツ島の陸軍部隊は北海道の旭川で編成された部隊。「北部軍」にとっては子供に等しい存在だ。

 それ故に「北部軍」には現地の状況がよくわかる。

「北海支隊」が苦境にあるのがよくわかる。見過ごすわけにはいかないとうわけだ。


「北部軍」の言い分は……

 そもそも、キスカ島、アッツ島を占領し飛行場を建設しようと言い出したのは海軍だ。

 陸軍はそれに協力し尽力し苦労している。

 海軍の要望を満たそうと日々悪戦苦闘している。

 それなのに海軍の艦隊は何をしている? どこにいる?

 たまに補給物資を運んで来ても直ぐに帰ってしまう。

 飛行場がまだ完成していないのだから航空隊が来ないのは仕方がない。

 しかし、海軍には空母がたくさんあるじゃないか。これだけ空襲されているのに、ただの1隻も空母の姿を見せないのはどういうわけだ。なぜ援けてくれない。

 無敵帝国海軍はどうした。

 これじゃあまるでキスカ島、アッツ島は見捨てられた島じゃないか。


「北部軍」の不満も尤もな話だ。

「北部軍」の憤りにも一理も二理もある。正論だ。

 その抗議に加えて「北部軍」は作戦案を提示して来た。


「北方攻略作戦」の要望だ。

 このままでは「北海支隊」の状況は悪化するばかり。

 この戦況を覆すためにもまずは敵飛行場のあるアダク島を攻略し、後にダッチハーバーを攻略する足掛かりを得たいというものだ。

「北部軍」麾下の兵団と所有輸送船と海軍第5艦隊の支援を得て作戦を行いたいと大本営に要望してきた。


 大本営の参謀の話では「北部軍」の前司令官だった浜本喜三郎中将が現地の実態を知るために、先月、キスカ島とアッツ島に参謀を派遣していたという話だ。

「北部軍」の司令官は人事異動で8月1日付けで浜本喜三郎中将から樋口季一郎中将に交代している。

 そこに派遣されていた参謀が戻り新司令官の樋口季一郎中将に現地の実情を伝えたところ、彼は激怒し

大本営に海軍への不満と北方攻略作戦を提示して来たというわけだ。


「大本営陸軍部」としては「北方攻略作戦」は却下したが、「北部軍」の要求を無下にも出来ず海軍に対処を要求する。

「大本営海軍部」は、まぁ軍令部なわけだが、対処を連合艦隊司令部に一任するという形で丸投げして来た!

 

 これは、きっと意趣返しだろう。面倒を押し付けてやれという。

 軍令部には、いつも連合艦隊司令部の我儘に付き合わされている。連合艦隊司令部の幕僚は態度が大きく鼻持ちならないという不満があるから。

 その不満は史実と変わらないが、今回の歴史では史実より勝ち捲って更に連合艦隊司令部の幕僚達は鼻高々だから、軍令部のエリートを自任する参謀達が面白くないのも無理はない。


 それにしても史実とかなり動きが違って来ている。


 史実では「北部軍」の司令官が樋口季一郎中将になってからキスカ島とアッツ島に参謀が派遣された。

「北方攻略作戦」も1943年になってから「北部軍」が言い出したもので、その攻略対象はもっと近いアムチトカ島だった。

 ただ現時点では、まだ史実通りアメリカ軍はアムチトカ島に飛行場を建設していないのだから、アダク島を攻略対象にするのは不思議じゃない。


 史実と比較すると北方について日本側では数ヶ月は早い動きになっている感じだ。

 予想外だ。


 まさか1942年8月の終わりの時点でアリューシャン方面が問題になってくるとは考えもしなかった。

 史実ではアリューシャン方面が危機的状況を迎えるのは1943年だ。

 今回の歴史ではその危機的状況にもならず終わると考え、あまり注意を払っていなかった。

 甘かった。迂闊だった。


 それにしても「北部軍」樋口季一郎中将か……

 昨日「オトポール事件」について触れた時に名前を出した人物だ。

 満州国から入国の許可が下りず国境の町オトポールで立ち往生していた大勢のユダヤ人達を救ったというあの人物だ。

 昨日は触れなかったが、ハルピン特務機関長だった樋口季一郎少将は「オトポール事件」より約4ヵ月前にハルピンで開催された「第1回極東ユダヤ人大会」でもユダヤ人擁護の演説をしてユダヤ人の喝采を浴びている。

「ユダヤ人を追放する前に彼らに土地を与えよ、安住の地を与えよ」と熱弁をふるったそうだ。


 その恩をユダヤ人は忘れず戦後に返している。

 

 1945年8月15日、日本は降伏したが千島列島において不法に侵攻して来たソ連軍との間で戦闘が勃発した。

 この戦闘は21日まで続き停戦となる。

 後にこの戦闘についてソ連側はこの方面の指揮官であった樋口季一郎中将を戦犯として処分しようとした。

 それで日本を占領統治しているアメリカに樋口季一郎中将の身柄の引き渡しを求める。

 しかし、これをアメリカ側が拒んだ。

 その理由はニューヨークに本部を置く「世界ユダヤ協会」がアメリカ政府に働きかけたからだ。

 「オトポール事件」の恩を返す時が来たとユダヤ人達が影響力を発揮したのだ。


 ついでに言うと、ユダヤ人は大戦後にイスラエルを建国したが、それ以来イスラエルの建国に力を尽くしてくれた人、ユダヤ人に助力してくれた人、寄付をしてくれた人については「ゴールデン・ブック」という記録書に名前を記載しその助力を讃えている。その「ゴールデン・ブック」は現代では27巻にもなっているらしい。

 樋口季一郎将軍の名前もこの「ゴールデン・ブック」の第6巻の中に記載されているという話だ。


 ちなみに、何故かこの「ゴールデン・ブック」にはおかしな俗説が流れている。

 エルサレムの丘にはユダヤ人が寄付した金貨や金の指輪、金細工の物を鋳造して造られた本の形をした「黄金の碑」、その名も「ゴールデン・ブック」が建てられており、それにはイスラエル建国に貢献した人物や、ユダヤ人に力を貸してくれた人々の名前がヘブライ語で刻まれており、その中に樋口季一郎将軍の名前も刻まれているという話だ。

 そういう事実はないのだが、どこから流布しだしたものなのか。恐らく「ゴールデン・ブック」と言う名前から想像の翼を広げた人でもいたのだろう。

   

 ところで、この「オトポール事件」では満州国で救ったユダヤ人の人数について文献により開きがある。

 数千人から2万人と幅がある。

 

 樋口季一郎将軍は戦後に某出版社より回想録を出しており、そこには2万人とある。

 この回想録の直筆原稿が現存しており今は防衛省防衛研究所が保管しているが、そこには何千人と書いてあるそうだ。

 何故か、出版する時は人数について訂正されたらしい。

 

 この件について樋口季一郎将軍についての著作がある某作家が、その出版社に問い合わせたところ、担当の者は既に亡くなっており事実は分からないとの返答を得たそうだ。

 何せ樋口季一郎将軍の回想録が出版されたのは1971年と、かなり昔の事だ。無理も無い。 

 そういう事情があるせいか最近では2万人説を否定する人もいる。

 まぁ本人直筆の原稿が現存しており、そこに何千人と書かれていればそちらに信を置くのも無理はない。


 だが2万人というのもあながち有り得ない話ではないと思う。


 2万人のユダヤ人を救ったとする文献は他にも1973年に出版された「流氷の海 ある軍司令官の決断」という樋口季一郎将軍を主人公にしたノンフィクション本がある。

 

 この本の著者、相良俊輔氏は戦後に実際に樋口季一郎将軍に会い取材してこの本を書いている。著者が樋口季一郎将軍と一緒に写ったツーショット写真も本の中に載せられている。

 この本の参考文献には樋口季一郎将軍の回想録の題名は見当たらない。

 だが救ったユダヤ人の数は2万人と書いている。

 実際に本人に取材して2万人と書いている以上、それをただ誤りとするのもどうだろうか。

 

 確かに樋口季一郎将軍が回想録の原稿を書いた時は何千人と書いたかもしれないが、後に2万人だったと思い出したのかもしれない。

 よくよく思い返してみれば最初に書いた事、言った事は間違っていた、勘違いしていたなんて事は人にはよくある話だろう。

 樋口季一郎将軍もそれで後に出版社に訂正をお願いしたとも考えられる。

 取材に来た相良俊輔氏にも2万人と語ったのかもしれない。

 

 ただ「流氷の海 ある軍司令官の決断」の場合は、樋口季一郎将軍の他に資料談話提供者の名前が30人以上記載されているので、その人達から2万人という数字が出た可能性もあるし、もしかしたら、その人達の中には既に出版されていた樋口季一郎将軍の回想録を読んで、そこから数字を引用して話した可能性も考えられる。


 残念な事に相良俊輔氏も樋口季一郎将軍も既に故人だ。先に述べたように回想録を出した出版社の担当の人も故人。この謎はおそらく永遠に解けないままだろう。

 

 まぁそういう訳で、自分としては樋口季一郎将軍の直筆原稿が残っていたとしても、2万人説はあり得ないと簡単に切り捨てる気にはなれない。

 まぁ数千人から2万人を救ったと幅のある判断をしている。

 

 話が反れてしまった。元に戻そう。


 アッツ島とキスカ島の「北海支隊」の救援をどうしたものか…… 

 現状では北方に空母を派遣したくはない。

 正直な気持ちで言えば「北海支隊」の事は大事の前の小事。


 だからと言って苦境にある「北海支隊」をそのままにはできない。

 ここは海軍が動かねばならない場面だ。


 とは言えできる事は最初から決まっている。

 空母を派遣せず、現地の飛行場がまだ建設途中なら、出来る事は水上機部隊の更なる増援だ。

 幸い史実に比べ水上機部隊にはまだ余裕がある。


 昨日、編成する事に決めたばかりの水上機部隊「R方面航空隊」は史実に比べ規模は小さい。

 ガダルカナル島での激戦が発生していないからだ。

 今の所「R方面航空隊」は「聖川丸」「国川丸」の2隻の水上機母艦だけで、水上機もこの2艦の搭載機だけにするつもりだ。

 史実ではショートランド島に水上機母艦を集めた他に、基地を設営して内地から水上機を運んで作戦を行っている。今回の歴史ではその増強は行わない。艦載機だけに限定する。


 つまり今回の歴史ではショートランド島の水上機基地に内地から水上機を送り込む代わりに、アッツ島とキスカ島に水上機を送り込もうというわけだ。

 現在、配備されている「第5特設航空隊」の大幅増強だ。補充機を輸送途中だが、更に増強するのだ。

 それで敵の空爆をできるだけ凌ぐ。

 「北部軍」と現地「北海支隊」には当分の間、それで耐えてもらうしかない。


 できる事なら「第5艦隊」によるアダク島にある飛行場砲撃作戦を行わせたいところではあるが……

 敵航空兵力が優勢なところに水上艦隊を送り込むのは危険すぎる。 

 霧に紛れて作戦を、と言いたいところだが今はあまり霧が出ない時期だ。

 

 それに霧は味方につける事ができれば効果は大きいが失敗する危険性も大きい諸刃の剣だ。

 

 史実における1943年7月の「キスカ島撤退作戦」は霧をうまく利用して作戦を成功させた「奇跡の作戦」とまで言われている。

 しかし、その作戦の途上では作戦参加艦艇のうち16隻中5隻が霧の中で僚艦との衝突事故を起こしている。その中の駆逐艦「若葉」などは損傷が酷くて任務続行が不可能となり単艦で引き返した。

 この作戦にはレーダーを装備していた艦も参加していたが、こうした事故が発生している。これが霧の恐いところだ。


 霧の恐さは水上機も同様だ。

 史実での「第5特設航空隊」は激戦で戦力を直ぐに消耗してしまい、あまり大きな問題にはならなかったようだが、千島列島に配備されて哨戒任務についていた水上機部隊だと、霧には凄く苦しめられている。


 北の霧は濃い。

 哨戒飛行に出て霧が発生したと思ったら15分も経たないうちに自機の翼の先端さえ見えなくなるそうだ。

 そして視界はゼロになる。

 基地に戻るのも一苦労で霧の薄いところを探すが見つからない事もある。

 仕方なく北海道へ退避する事もあるそうだが、北海道にも霧は出る。

 中には基地に戻れず北海道まで飛んだがそこでも霧で山中に墜落した機体もあるそうだ。

 哨戒飛行に出撃した全機が基地に戻れなかったり、中には未帰還機になってしまった機体もある。

 それだけ北の霧は恐いものがある。

 

 キスカ島、アッツ島の場合、今の時期は霧が出にくいので、水上機を霧による原因で失う可能性は低いだろうが、霧が発生しやすい時期になったら事故で失う機体が急増するかもしれない。

 

 強風と酷寒も要注意だ。 

 強風による飛行機の破損や機械の凍結は珍しい事ではない。

 霧と強風と酷寒という過酷な環境が損失を大きくする。それは覚悟しておかなくてはならないだろう。

 

 これは史実のアメリカ軍も同様だ。

 アリューシャンに配備されたアメリカ軍の航空機では、戦闘で失った機体の約2倍以上もの機体が霧と強風と酷寒という環境が原因の事故で失われている。


 日本もアメリカも北方では敵よりも環境が大敵だったのだ。

 何だか、南方で熱帯病が大敵だっとの似たような感じだ。


 そう言えば史実では太平洋戦争当時、海軍の佐官で海軍軍令部に勤務し大本営海軍部での参謀でもあった皇族の高松宮宣仁親王殿下は、この8月にキスカの視察を要望した事があったようだ。

 「高松宮日記」にそうした記述がある。

 しかしキスカは危険だからと許可されず、それが大分ご不満のご様子だ。

 最後にはご自分の事を「生ける屍なり」とまで書かれている。

 他の者達と同じように軍人としての本分を尽くしたくても危険な地には行かせてもらえないともなれば鬱屈もするだろう。

 だが、まぁ上の人間の危険な最前線には行ってほしくないという判断もよく分かる。

 何せ高松宮宣仁親王殿下はただの皇族ではなく、天皇陛下のご実弟なのだから。そりゃあ危ない事はさせたくもないだろう。


 そんな話はともかくとして、キスカ島、アッツ島には水上機の他には設営隊を送り込むか。

 海軍内部向けには「北部軍」の不満を緩和するという名目で、陸軍向けには飛行場建設を促進させるための増援を送るという名目で、設営隊を送り込む事にしよう。


 本日25日は史実と同じく丁度「第18設営隊」の編成が完了する日だ。

 この部隊はガダルカナル島に送られる予定で、あと数日で出港する予定だ。

 この部隊をキスカ島に送り込もう。南洋行きから北洋行きになるわけで、装備を改めなければいけなくなるから出発は少し遅れるかもしれないが、そうしよう。


 そうすればガダルカナル島の飛行場建設は遅れるが、ガダルカナル島から手を引きたい自分にはそれこそ望ましい事だ。下手に設営隊を増強して飛行場が早く完成すれば航空隊を送らなければならなくなるし、そうなるとガダルカナル島から手を引く事はそれこそ難しくなる。


 逆に南洋行きの設営隊をアリューシャンに向かわせたともなれば、「大本営陸軍部」も「北部軍」も海軍が努力している事を少しは認めてくれるのではないだろうか。


 よしっ! これで行こう。「第18設営隊」はアリューシャンへ!


 そう言えば、史実における「第18設営隊」というのは、最初に受けた命令が無謀の極みとも言えるものだったが、(から)くもそれから逃れられたという逸話があった部隊だ。


 この「第18設営隊」は、史実で当初はやはりガダルカナル島に派遣される予定だった。

 8月28日に横須賀から輸送船でガダルカナル島に向かったが、既に「ガダルカナル島攻防戦」は始まっている。

 この「第18設営隊」が最初に受けた命令は、ガダルカナル島に敵前強行上陸を行い、敵を排除して後、飛行場を再整備するというものだった。


「第18設営隊」の人員は約千人。

 ただし武器の数が問題だ。設営隊は建設作業を主任務とするから元々保有している武器は少ない。

 この時、「第18設営隊」が装備していたのは三八式小銃100丁に九六式軽機関銃4丁。

 つまり部隊の約9割は非武装。

 そんな部隊に敵前強行上陸作戦を行えと!?

 流石に部隊の士官達の間でも表立っては言わないが、裏ではその作戦に懸念を持っていたようだ。

 幸いな事にこの作戦はまだ輸送船がガダルカナル島に向かっている途上で中止の命令が出され、部隊は新たにブインに向かい飛行場を建設する任務を与えられる事になる。

 命拾いしたね。

 当初の命令が実行されていたらきっと部隊は全滅だっただろう。


 まぁとにかく、水上機と設営隊をアリューシャンのキスカ島、アッツ島に送り込み少しでも陸軍の不満を和らげよう。




 それにしても、以前にも述べたが、現在ラバウルの航空消耗戦の度合いが史実より低いのは、アメリカ軍がハワイ防衛、アメリカ西海岸防衛に飛行機を回し、更には潜水艦による通商破壊戦が効いているからかもしれないと考えていた。

 だが、北方のアリューシャン方面も理由の一つだったのかもしれない。


史実だと1942年7月に南西太平洋方面軍のアメリカ陸軍航空隊の指揮官に任命されたジョージ・ケニー少将が、増援として派遣される事になった200機もの航空機と共にアメリカ本土からオーストラリアへ向かっている。

 もしかしたら今回の歴史では、こうした増援はかなり減ったのかもしれない。


 ちなみにマッカーサー将軍を礼賛する傾向にある文献だと、こうしたアメリカ本土からの増援には触れずジョージ・ケニー少将がオーストラリアに来てから、破損や故障していた航空機の整備が進み、稼働率が上がって前線での航空兵力が上昇したとしているものもある。

 マッカーサー将軍のアメリカ政府から貰える支援が少なかったという不満と主張を肯定したり、暗に強調したいのだろうが、実際には増援が来ているのが実態だ。


 それにジョージ・ケニー少将が有能な航空隊指揮官であり前任のジョージ・ブレット少将がそうではないかのような印象も与えているが、実際には彼も航空隊指揮官としてできる限りの事はしていた。


 そのジョージ・ブレット少将だが、日本軍のニューギニア上陸を阻止できなかった事を理由としてマッカーサー将軍に罷免されている。

 あの時、誰が航空隊指揮官であっても日本軍のニューギニア上陸を阻止できたとは思えないのだが…… 可哀想な話しだ。


 まぁそれはともかく、史実よりもアメリカ軍の航空戦力がオーストラリアへ派遣されないとなると、こちらとしては、ラバウルへは当初考えていた程には航空戦力を送り込まなくても済むかもしれない。

 だが、そうはならないかもしれない。

 

 史実よりもアメリカの増援が少ないとしたら、オーストラリアは当然の事ながら史実以上に危機感を募らせ国産兵器の生産に拍車をかけるだろう。

 オーストラリアも自国防衛に必死なのだ。


 だが、幸いにもオーストラリアの工業力は高くない。

 元々人口が700万人でしかなく徴兵制で若者の多くを兵士にしている以上、オーストラリアの工業力には限界がある。


 史実ではオーストラリアが後方基地として前線に送った主要な補給品は食糧品、衣料品、建築資材だった。


 マッカーサー将軍が戦後に出した回顧録において、1942年後半に指揮下の南西太平洋方面軍が受け取った補給品の65%~70%はオーストラリアで生産した物だと記している。


 数字的に見れば70%という数字はかなりの物に見えるが、ではその南西太平洋方面軍とはどれほどの規模かというのが問題だ。

 それは全オーストラリア軍とアメリカ軍のごく一部の部隊が配属されているという編成だ。

 1942年における南西太平洋方面軍のアメリカ軍は2個師団に航空部隊と少数の艦隊でしかない。


 つまり1942年においてオーストラリアは自国の軍の他に、僅か2個師団のアメリカ陸軍に100%の補給を提供する事すらできなかったのだ。


 まぁ戦前のオーストラリア経済からすれば仕方のない事ではある。

 

 元々、第一次産業がメインな国でありそれは現代でも変わらない。

 特に牧畜は盛んで豊富にあるのは羊毛であり食糧だ。

 史実では、オーストラリアの捕虜収容所で毎月2足の靴下の支給があり、これが多すぎて捕虜は靴下をほどいてマフラーにしていたなんて話もあったりするぐらいだ。


 その逆に兵器生産という点ではオーストラリアの工業力は弱かった。


 例えばオーストラリアと同じくイギリス連邦の一員であったカナダはイギリスで開発されたホーカー・ハリケーン戦闘機を生産している。


 ではオーストラリアはどうか。

 ホーカー・ハリケーン戦闘機もスピットファイア戦闘機も生産していない。


 アメリカが開発したP38戦闘機、P39戦闘機、P40戦闘機等、何れも生産していない。

 それらの機体はアメリカで生産され遥々オーストラリアまで運ばれて来た。


 史実において、1942年後半から1943年にかけて、オーストラリアのすぐ側のソロモン諸島やニューギニアで航空消耗戦が行われ敵も味方も大量の戦闘機が失われている。

 しかしながら、この時、連合軍側の主力となった戦闘機の機種をオーストラリアが生産する事は無かったのだ。できたのは修理する事だけだ。


 太平洋の島々でM4シャーマン戦車やM3軽戦車が使われたが、それらも皆アメリカで生産されたものであり、オーストラリアは生産していない。


 史実においてアメリカの潜水艦艦隊は三つの基地をオーストラリアに置いて戦った。

 そのアメリカの潜水艦は開戦当初、魚雷不足に悩まされた。ではオーストラリアでアメリカ潜水艦用の魚雷が大量生産されただろうか。否だ。生産されていたら魚雷不足に悩む事はなかっただろう。


 ただ、オーストラリアも兵器を何も生産していなかったわけではない。

 独自開発した戦闘機を生産し実戦に投入していた。

 その代表が「ウイラウェイ」多目的機だ。日本の文献では「ワーラウェイ」としているものもある。


 オーストラリアが飛行機の国産に乗り出した時期は遅い。

 1936年だ。コモンウェルス飛行機会社が設立され国産飛行機の開発に乗り出した。

 まずはアメリカのノースアメリカン航空会社の練習機NA16のライセンス生産権を取り、この機体に改良を加え完成したのがウイラウェイ練習機だ。

 使い勝手が良かったのか、その後、爆弾を搭載できるように改良され、カメラを積んだ偵察機型も生産された。


 太平洋戦争が始まりオーストラリア周辺での戦闘が始まると、オーストラリア軍は戦闘機の不足に苦しんだ。

 そこでウイラウェイ多目的機を戦闘機として戦場に投入している。


 だが、元は練習機。零戦に比べれば性能は遥かに低い。

 零戦の最高速度が軽く500キロを超えるに対し、ウイラウェイ多目的機は350キロ程度しか出ない。

 上昇率も零戦の4割程度。武装は7.7ミリ機銃だ。

 これでは零戦に対抗できるわけもなく空戦では一方的に零戦に撃墜されている。


 オーストラリアはイギリスに新型戦闘機を要望しつつアメリカからP39戦闘機とP40戦闘機の提供を受けたが、それでも暫くはウイラウェイ多目的機を戦闘機として使わなくてはならなかったという状況だ。


 オーストラリア軍はウイラウェイ多目的機を戦闘機として投入すると共に、この機体を元に戦闘機を設計し生産している。それがブーメラン戦闘機だ。

 この戦闘機は単座で速度も大幅に早くなり20ミリ機関砲も積むそれなりの性能ではあったが、イギリスからもっと高性能のスピットファイア戦闘機が送られて来た為、零戦と交戦する機会はなかった。

 その為、ウイラウェイ多目的機と同じく以後は地上攻撃を主な任務としている。


 ところでウイラウェイ多目的機は1度だけ零戦を撃墜した記録がある。

 1942年12月26日に偵察飛行に出ていたウイラウェイ多目的機が眼下に零戦が単機で飛んでいるのを発見し上から不意を突いて撃墜している。


 撃墜後、パイロットが基地に帰還して撃墜報告した時は大騒ぎになったらしい。

 司令部からは基地にビールが届けられ、翌月にはアメリカ軍からパイロットにシルバー・スター勲章が送られたという話だ。ウイラウェイ多目的機で零戦を撃墜した事は、それほど大事件だったわけだ。


 しかし、この撃墜話に水を差す話もある。

 実は日本の戦史家が調べたところ、その日に該当地域を飛んでいた零戦は無かったらしい。その代わりに陸軍の一式戦闘機「隼」が飛んでおり未帰還機もあるとか。

 まぁそういう事もあるかもしれない。


 ちなみに、この零戦を撃墜したウイラウェイ多目的機A20-103号機は何と現代で現存している。オーストラリアの首都キャンベラにある戦争博物館で保存され展示されている。


 まぁそんな話はともかく、オーストラリアはあまり高性能な戦闘機は生産できなかったというわけだ。


 戦闘機以外でオーストラリアで比較的、大量生産されたと言えるのは「ボーフォート雷撃機」だろう。

 元はイギリスで開発されたが、今一つ知名度が低い機体だ。

 有名な海戦や軍艦を沈めた逸話があまりないせいだろうか。


 陸に目を転じてオーストラリアではM4シャーマン戦車は生産されなかったが、独自に戦車開発は行っていた。

 それがセンチネル巡航戦車だ。

 

 センチネル巡航戦車は幾つかの型があるが最初の型AC1は1942年8月から量産が始められ66両が生産されている。40ミリ砲1門、機関銃2挺、最高速度32キロ、装甲厚25~65ミリだ。

 

 しかし、AC1型は生産はされたものの前線の部隊には、より高性能なアメリカ製M4シャーマン戦車が配備された為、実戦には出る事はなく訓練にのみ使用された。

 

 AC2型は途中で設計が複雑化し過ぎたとして開発中止となった。

 

 AC3型はAC1型の車体に87.6ミリ榴弾砲を搭載したものだが、試作車両のみで生産には至らなかった。

 

 AC4型はイギリスで新しく開発された76.2ミリ対戦車砲を戦車砲として搭載したものだが、これも試作車両のみで生産には至らなかった。

 面白いのはこの76.2ミリ対戦車砲がイギリスより到着するまでの間、この車両には実験として87.6ミリ砲が並列配置された砲塔を搭載していた期間がある事だ。

 主砲2門が並列配置された戦車なんて滅多にない。


 そういう訳でオーストラリア陸軍は自国製の戦車を前線では使わず、イギリスとアメリカから供給された戦車で実戦を戦い抜いている。


 その中でオーストラリアが独自に改造を施した面白い戦車がある。

「マチルダ・ヘッジボッグ」と呼ばれる戦車だ。

 イギリス製のマチルダ戦車の車体後部に海軍の使用する「ヘッジボッグ対潜爆雷投射機」を7基も装備した戦車だ。弾は臼砲用の物を使用し、全弾一斉発射でも一発ずつの発射でも可能だったようだ。

 目的は対地下壕用という事らしいが戦車に対潜爆雷投射機を付けるとは面白い事をするものだ。


 ところで、第二次世界大戦中にオーストラリアで開発製造された兵器の中で、最も優秀な兵器と言えるのは「オーエン短機関銃」ではないだろうかと思う。

 この短機関銃は、弾倉が銃の斜め上に付き、独特なグリップの形をしている見た目がとても変わっている銃だ。しかし、命中率は良かったらしい。

 しかし、あまりに外観が変わっているので性能は良かったが他国は採用をためらったなんて話しがある。


 まぁそんな話はともかくとして、オーストラリアの兵器生産能力は限られている。

 

 もし、史実よりもアメリカからオーストラリアへの戦闘機の増援が低調だとすると……

 ウイラウェイ多目的機を戦闘機として使う期間が長くなるだろう。

 そして後にはブーメラン戦闘機が制空戦に投入される。

 史実では起きなかった零戦VSブーメラン戦闘機の空戦が起きるかもしれない。

 それもそんなに遠い未来の話じゃない。あと2ヵ月と言った処か。


 オーストラリアはパイロットの育成を急いでいるだろう。

 状況によっては、ミッドウェー海戦でのアメリカ海軍パイロットのように訓練未完了でも出撃せざるを得ないかもしれない。

 

 もう一つオーストラリアの航空戦力が増強される可能性のある要素が存在する。

 ニュージーランドだ。

 

 史実において太平洋戦争が開始された時、ニュージーランド本国には近代的、高性能と言える戦闘機は1機もいなかった。

 だが、開戦初頭の日本軍の怒涛の進撃を見てニュージランド政府は自国への危機感を募らせる。

 そこで、イギリス軍と共にドイツ軍と戦っていたニュージーランドの戦闘機パイロット達を本国に帰還させる措置をとる。

 

 更にニュージーランド政府はイギリスへ戦闘機の供給を要請し、これが受け入れられる。

 イギリスはニュージーランド政府の不安を解消する為に急ぎ戦闘機を送る。

 この時、ニュージーランドに送られたのは中東に送られる筈だったP40キティホーク戦闘機だ。

 元はアメリカの戦闘機だがイギリス軍にも多数供与された戦闘機だ。


 イギリスが供給してくれた戦闘機により、1942年8月の時点においてニュージーランドでは「第14飛行隊」「第15飛行隊」「第16飛行隊」の3個戦闘機隊が編成されている。

 以後も続々と飛行隊が編成されていく。


 ニュージーランドの航空隊は侮れない。

 これまで精強なドイツ空軍を相手にフランスの空で、イギリスの空で、中東の空で戦って来た歴戦のパイロット達がいるのだ。

 侮ったら痛い目を見る事になりかねない。


 史実ではニュージーランドの戦闘機隊が太平洋の戦いに投入されるのは1943年4月になってからだ。

 ニュージーランド戦闘機隊の戦果報告が正しければ、以後、空戦においてはニュージーランド戦闘機隊は味方の損害よりも多い零戦を撃墜している事になる。

 

 ちなみにニュージーランド戦闘機隊で最初に零戦を撃墜したボブ・マーチン軍曹にはアメリカから勲章が贈られている。

 前に述べたが、オーストラリア軍でもウイラウェイ多目的機で零戦を撃墜したパイロットがアメリカ軍から勲章を贈られている。

 アメリカ軍にとっては、それだけ零戦を撃墜するという事に大きな意義を持っていたという事だろう。

 つまりは、それだけ零戦が大敵だったというわけだ。


  ともかく、オーストラリアが航空戦において戦力不足を痛感し、アメリカからの支援も足りないと感じればどうするか。

 一つの選択として同じイギリス連邦を構成し、隣国でもあるニュージーランドに援軍を要請する事は充分考えられる、

 ニュージーランドとしてもオーストラリアの次はニュージーランドが危ないという考えで、戦力の整備に奔走したのだ。史実よりも早い時期での戦闘機隊の戦線投入は充分あり得る事だろう。

 それ故にこれも油断は禁物だ。

 

 つまりは、現時点においては史実よりもラバウルでの航空消耗戦の度合いはやや低いかもしれないが、これからもそうとは限らないという事だ。

 厄介な話だ。



 つらつらと南方について思いをはせていたら「第4艦隊」から報告が入って来た。

 マキン島とナウル島についてだ。

 

 どうやら17日から始まったマキン島での小さな戦いもようやく終幕を迎えたようだ。

 マキン島における残敵掃討戦が終わり、撤退に失敗した敵兵を捕虜にしたとの報告だ。

 史実より1日遅い報告だ。何でだ?

 まぁいいか。


 マキン島守備隊の生存者は陸戦隊員18人、第14航空隊所属の基地要員3人、気象観測所員4人、通訳1人の合計26人。戦死者は46人。

 アメリカ軍捕虜は下士官2名、兵7名、アメリカ軍戦死者は10名との報告だ。

  

 ところで史実において日本軍には「戦陣訓」という訓令が出されており、その内容の中で有名なのが次の一節だ。

「(生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ)」

 つまり公式的には日本兵は捕虜になる事はない。

 よって日本軍の兵士達には捕虜になった場合の心得や、捕虜になった場合にどういう振る舞いをするかという事が教えられる事はなかった。

 その為に心ならずも捕虜になった兵士達の中は敵の尋問に対して、色々と喋ってしまった者もいたという話がある。

「戦陣訓」の弊害とも言われるものだ。

 ただし軍機に関する事は絶対に喋らないという固い決意で捕虜生活を送った者もいる。

 まぁ色々なケースがあったと言う事だろう。


 日本とは違い捕虜になる事を恥や屈辱とは考えないアメリカ軍の捕虜も結構、情報を喋っている。 


 マキン島で捕虜になったアメリカ軍海兵隊の兵士達も色々と喋っている。

 今回の歴史では本日25日だが、史実では8月24日の時点でアメリカ兵捕虜から得られた情報として「第4艦隊」から次のような報告が為されている。要約して記述してみよう。


マキン島を攻撃した兵力は潜水艦2隻。海兵隊約160人。

 潜水艦の武装は魚雷発射管4門から6門、砲2門。 

 潜水艦の乗員は各艦約60人。海兵は各艦に約75人乗船。

 1隻は少佐が艦長。もう1隻は大尉が艦長。

 海兵隊は第160海兵連隊第2大隊。

 大隊は4個中隊編成で中隊は2個小隊編成。

 大隊長のカールソン中佐が第1中隊と第2中隊を率いてマキン島に上陸。

 他の2個中隊はハワイのホノルルに在り。

 7日から10日前に真珠湾を出港しマキン島に直航した。


 ふむ。色々喋ってくれるとは素直でよろしい。

 

「第4艦隊」からのナウル島についての報告は、一兵も失う事なく占領したと言うものだった。

「第27駆逐隊」の駆逐艦「有明」1隻が攻撃に派遣され艦砲射撃を開始したら、すぐに建物の屋上に白旗を掲げて降伏したとの事。

 ふむ。ナウル島も素直でよろしい。

 ナウル島はイギリス領だが、もはやイギリスには遠い太平洋の島を守り抜く余裕は無いのだろう。


 ナウル島攻略についても史実と微妙に違う部分があるが、今の所は困る事態になっていないから、まぁいいか。


 ちなみにナウル島は日本より遥かに遠い南の島だが、日本の開戦初期における軍上層部による将来での占領地の統治計画では日本の領土になる予定だったようだ。


 それは「高松宮日記」の1941年12月17日に書かれている。

 以前にも述べたが「高松宮日記」は太平洋戦争当時、海軍の佐官で海軍軍令部に勤務し大本営海軍部での参謀でもあった皇族の高松宮宣仁親王殿下の私的な日記だ。

 つまりは軍の中枢にいた人物が書いたものだ。

 その日記に記された統治計画については、始めに「連絡会議」とあるので、恐らく大本営の連絡会議で話し合われた案だろう。


 その内容を要約して記述してみよう。


1.「帝国領土とすべき地域」……グアム、香港、英領マレー、英領ボルネオ、蘭領スマトラ及び同附属諸島、ビスマーク諸島、ニューギニア、ソロモン諸島、ハルマヘラ島とチモール島以東の蘭領、ナウル島、オーシャン島。


2.「フィリピン」……独立させるが海軍は保有させない。治安軍のみ保持させる。


3.「上記以外の蘭領(インドネシア)」……帝国の強い保護下に独立させる。


4.「ビルマ」……帝国の強い保護下に独立させる。


5.「仏印(現在のベトナム、カンボジア)」……当分の間、現状のままとし将来フランス本国と切り離し帝国の強い保護下に独立させる。


6.「タイ」……独立国とする。


7.「インド、オーストラリア、ニュージーランド及び太平洋の島々」……情勢の推移に応じて判断する。


8.「太平洋における旧ドイツ領」……適時ドイツと交渉し帝国領とする事を承認させる。


 つまり将来は、主に重要な資源の出る地域は日本の領土にし、それ以外は傀儡政権の独立国にするという計画だったわけだ。

 まぁ妥当なところだろう。

 以前にも述べたが、日本は南方諸民族のためにアメリカと開戦したわけではない。

 日本が生き残るために戦争を起こしたのだ。

 アジアの解放を謳ったのもあくまで大義名分。副次的な産物に過ぎない。

 日本が頂点に立ち指導的立場となり……いや、言葉を飾っても仕方がない。日本がアジアの支配者となり日本が最も繁栄する大東亜共栄圏を成立させなければ意味は無いのだ。


 それこそがこれまでの戦いで流された日本人の血に、犠牲に報いる道なのだ。 


 まぁそれはともかく、ナウル島を日本の領土にするというのは理解できる。

 以前にも述べたが、1940年12月7日と27日には、ナウル島の燐鉱生産施設と燃料タンク、それに鉱石運搬船4隻がドイツの仮装巡洋艦コメートとオリオンに砲撃され破壊されている。

 ナウル島の燐鉱石の埋蔵量はかなりのものになるからだ。


 だが、まさかこの時点で大した資源を産出しているわけでもないソロモン諸島も日本の領土に組み込む計画があったとは驚いた。

 いやぁソロモン諸島はいらんでしょ。そこまで求めるのは手を広げすぎだよ。


 この後は然したる報告は入って来なかった。

 そして一日が終わる。

 ふぅっーーーーーーー。

 重い責任から来るプレッシャーで溜め息が出るよ。

 今日はもう寝よう。おやすみ、と。

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