第九節:フリーエージェント、哀れな敵にトドメを刺す。
「……これは確かに、誤算でしたね」
美女は驚きから覚めると、苦笑を浮かべた。
「【修羅の群体】ーーー自ら抗体を名乗る変容人類群の副長が、まさか生きていたとは」
「だから言った。もっと深く調べるべきだったとな」
「それは確かに。私の落ち度でしたね」
フフ、と笑い、チラリと蜘蛛男に目を向けた美女は、軽く肩をすくめて豊満な胸を抱くように自分の体を抱きしめる。
「怖いですね。準備が足りていなかったようなので、一時撤退しましょうか」
「逃すと思うのか?」
「逃げますとも」
美女がスッと足を動かした瞬間、トウガは前に向かって跳ねた。
宣言通り、逃がすつもりなど一切ない。
しかしその進路上に蜘蛛男が割り込み、こちらに向けて長い副腕を振るった。
紅の外殻に覆われた腕でそれを受け止めたトウガは、そのまま体当たりで吹き飛ばして強行突破しようとする。
が、それよりも前に蜘蛛男のヘソの辺りから、一条の細く白い糸が放たれた。
「今日は実験体を取り戻すのは諦めましょう。……そこの失敗作にはまだ名前をつけていなかったので、貴方がたに合わせてこう命名しましょうか」
トウガが自分の首に巻きついた糸を掴んで締められるの防いでいる間に、美女は擬似発生した【異界の門】に足を踏み入れていた。
「ーーー【煩悩の魔群】」
門に潜り込んで顔だけを覗かせた美女は、小さく手を振りながらニッコリと冷たい笑みを浮かべた。
「解脱に至らなかった哀れな者たちはいずれ皆、同じ存在になる……」
そうして美女が消え、門がゆらっとゆらいで消えると、トウガは大きく息を吐いた。
「異界とこの世界の融合が、極楽浄土に至る救いだとでも言うつもりか」
そんなことはあり得ない話だった。
トウガ自身はまだいい。
この鬼神の肉体への変容を、自ら望んで受け入れたのだから。
だが、みゃーのような……目の前の失敗作と呼ばれた蜘蛛男のような存在を生み出す悲劇が。
救われない者を生み出す行為が、正しいものであってはならない。
「ギヒヒ……!」
向こうの力に適合しきれず、変容がいびつに歪んでいる存在が、目の前の蜘蛛男なのだ。
理性が残っているようには見えず、人の命令で捨て駒にされている。
「……哀れだとは思うが」
トウガは、明らかに救われないだろう目の前の元人間を殺す決意を固めた。
異界や魔物の影響で狂った者の姿は今まで散々見てきたのだ。
変容によって完全に理性を失った者が元に戻った例はない。
トウガは首に巻きついた糸を掴むと、力任せに引き寄せた。
蜘蛛男が踏ん張って背中を逸らしかけたタイミングで力を抜き、そのまま前に足を踏み出す。
引き合うことで張っていた糸が緩んでバランスを崩した蜘蛛男の腹に、トウガは拳を叩き込んだ。
「ギ、ィイ!」
蜘蛛男は体をくの字に折りながらも副腕を振るい、頭上から一対の鋭い爪先が振り下ろされる。
「甘い」
トウガは拳を引いて手を開くと、両手を顔の横に立てた。
副腕の内側に両手の甲を沿わせて外にいなすと、そのまま両手を打ち下ろす掌底ーーー虎形拳を、蜘蛛男の頭に叩きつける。
「ゴバッ!」
ショッピングモールの床にヒビが入るほどの勢いで、蜘蛛男が倒れ伏した。
しかし、相手の動きは止まらない。
いなしたのとは別の副腕をこちらを見もしないまま振るうのを避け、トウガは首の糸を外して後ろに下がった。
「ギヒ、ギヒヒ!」
「……痛みを感じていないのか」
ダラダラと緑の体液を垂れ流しながら、四つ這いの姿勢からいきなり跳ねた蜘蛛男に、トウガは構えを取って左の回し蹴りを放つ。
副腕の一本を関節を狙って叩き折り、さらに身を捻ってバランスを崩した蜘蛛男の頬につま先を突き込んだ。
「グギュ!」
「……術式展開」
足を下ろしたトウガは大きく腰を落とし、ゴロゴロと転がった蜘蛛男に手のひらを向けて左手を突き出し、右拳を腰の辺りに添える。
赤い全身鎧の上を走る黄色い筋が呪文を受けて輝き始め、トウガの知覚が加速した。
空中にいる蜘蛛男が落下する速度が緩み、世界の動きが鈍くなる中で……一人元の速さのままに地面を蹴る。
一瞬で距離を詰め、蜘蛛男の肩甲骨に向けて左の拳鎚を振り下ろした。
次いで、右のショートアッパーで顎を突き上げる。
「……貴様をこんな異形に作り変えた連中は、必ず壊滅させてやる」
トウガは、大きく右腕を引いて体をねじった。
ギリギリと音を立てるほど力を込めて握りしめた拳に、灼熱の力が宿る。
「安らかに眠れーーー《修羅の一撃》」
瞬転。
トウガは全身の力をただ一点に込めて、渾身の右拳を叩き込んだ。
空中に光の螺旋を描きながら撃ち抜いた拳が、アッパーで空中にのけぞった相手の胸元に突き刺さった直後。
ーーー拳から解き放った力により、蜘蛛男は燃え上がりながら爆散した。




