第34話 虚勢と希望
「何で……」
ヒュドラの接近、それに漏らした僕の声は掠れていた。
「………え、嘘だろ」
「何でこんなところにヒュドラが!魔獣は転移陣通れないんだろ!」
「……違う。あれは変異種だ。あのヒュドラは、草原の奥地からここまで自力でやってきたんだ」
「はっ、ふざけているだろ……あのヒュドラ、人間の足なら一週間はかかる距離をずっとあのスピードできたのかよ!」
「……もう、だめだ」
次の瞬間、僕から一拍遅れて冒険者達がヒュドラの存在に気づき、動揺の声を上げる。
「……何で、変異したヒュドラが」
……そんな中、僕は呆然とそう呟いていた。
六つ首に、僕を明らかに敵視する態度。
それはあのヒュドラは以前僕が首を切り落とした個体であることを示している。
しかしだとすれば、明らかに変異するまでの時間が短か過ぎた。
たしかに傷つけば周囲の魔力を吸う速度が上がり、ヒュドラが変異する期間は短くなる。
だが、それでも三、四ヶ月の期間が普通は必要なのだ。
いやそもそも、ここまであのヒュドラが生きていることがおかしいのだ。
変異した超難易度の魔獣は、変異前とは比べ物にならない実力を有する。
だから、超難易度の魔獣は変異しないように討伐されるのが普通なのだから。
何が起こり、何故ヒュドラがこの場所にやって来たのか、僕は考え始めて……
「逃げろ!早く逃げろ!」
「……無駄だろ。あの速度見ろよ逃げきれるわけがないだろうが……」
「くそっ!何でこんなことに!」
……だが、周囲の冒険者の悲鳴に僕は我に戻った。
「っ!」
そう、今はそんなことを考えている場合では無い。
今大事なのは、変異したヒュドラがこの場所に向かってきていて、いずれはこの場所に辿り着くということで、ヒュドラが何故変異したのかなどでは無いのだから。
……そして、あのヒュドラがここにたどり着くまでの時間は、決して長くないことだけは明らかだった。
「くそっ……」
目の前のに迫る災厄を見つめて僕は、絶望と恐怖で、膝を折って命乞いをしてしまいそうな衝動に駆られる。
……目の前のヒュドラには、例えこの場にいる人間全員で掛かっても勝てないという自信が僕にはあった。
そんな中僕はとある決断を下した。変異したヒュドラという災厄が迫る中、自分が絶対に守りたい存在を守るための決断を。
「ナルセーナ、ここから一人で逃げてくれ」
「っ!」
そう僕が笑って告げた言葉に、振り返った時ナルセーナの顔は恐怖に歪んでいた。
それは仕方がないことだろう。
何せ僕だって、蹲ってしまいそうな程の恐怖をあのヒュドラは放っていたのだから。
「でも、お兄さんは………」
だが、そんな状態であってもナルセーナは一番に僕を心配してくれていた。
おそらくもうナルセーナはここから逃げ出したくて仕方がないはずだ。
そんな状態で、ナルセーナは僕を心配してくれていて。
………そして、それで僕はもう満足だった。
「お願いだ。行ってくれ」
「嫌です!お兄さんが一緒じゃなきゃ駄目なんです!」
ナルセーナはそう告げても、この場から離れようとはしなかった。
それに僕は喜びを感じながら、同時に罪悪感を感じていた。
「あのヒュドラの速度は異常だ。僕ではあのヒュドラから逃げられない。でもナルセーナだけなら逃げられる。だから頼む。街の人を守れるのはナルセーナだけなんだ」
「………っ!」
街の人を引き合いに出し、そう告げた僕にナルセーナは唇を噛み締め涙目で俯く。
その姿に僕は罪悪感を覚える。
この言い方が卑怯であることは、口にした僕が一番理解している。
それでも、例えその大切な人に卑怯だと罵しられようとも、ナルセーナを救えるなら、僕はどんな不名誉さえ甘んじて受け入れるつもりだった。
「そんなこと、出来る訳ないじゃ無いですか!」
………しかし、目に涙を浮かべたナルセーナの口から出たのは、僕に対する罵りの言葉なんかじゃなかった。
次の瞬間、ナルセーナは唇を噛み締め、側にいる冒険者の元に振り返った。
その冒険者は心が折れたのか、へたり込んだ状態でがたがたと震えていて、しかしそんな冒険者の様子を一切気にすることなくナルセーナはその胸倉をを掴み、激しく揺らして叫んだ。
「しっかりして!今から急いで冒険者ギルドに知らせて来て!」
「っ!煩い!どうせもう手遅れなんだ!俺たちは死ぬしか……」
「だったら今すぐ殺されたいの?良いから行きなさい!」
「ひっ」
ナルセーナのその叱咤は、心が折れへたり込んでいた冒険者に恐怖を覚えさせる。
どうやら一度ナルセーナにノックダウンされた冒険者だったらしく、ナルセーナの脅し文句に顔を真っ青にすると、次の瞬間に彼は、負傷していると思えない速度で冒険者ギルドへと走って行った。
「お兄さんと一緒に私は戦います」
その冒険者が走って行ったのを確認した後、ナルセーナは一連の出来事に思わず呆然としていた僕に向かってそう告げた。
「………何で、そんなことをしてまで」
……そのナルセーナの態度に僕は思わずそんな言葉を漏らしていた。
何故なら僕は、今の恐怖に震えるナルセーナなら、理由さえ作れば、ナルセーナはここから離れてくれると僕は思っていたのだから。
僕と共に戦う、そう宣言したナルセーナは感情的になったからか、大粒の涙を流していた。
……しかし、そんな感情的な状態になってもなお、ナルセーナの身体の震えは止まっていなかった。
ナルセーナはヒュドラに対してそれだけの恐怖を抱いているのだ。
実力があるからこそ、変異したあのヒュドラの実力を正確に見抜いてしまい、身体の震えが止まらない。
そんな状態でナルセーナは僕と戦うと告げたのだ。
「お願いだからこの場から……」
そのナルセーナの恐怖が理解できたからこそ、僕はナルセーナの言葉は虚勢だと思い込んだ。
だから僕は、なんとかナルセーナを説得できると思って、ナルセーナの目を覗き込む。
「ーーーっ!」
ーーー 僕が、ナルセーナの目に宿る光に気づいたのはその時だった。
ナルセーナはヒュドラへの恐怖に耐えきれず、がたがたと震えていた。
だから僕は、何とかナルセーナを説得できると思い込んでいて、それはとんでもない勘違いだった。
恐怖に身体を震わし、ヒュドラに勝てないとそう思い知りながらもなお、ナルセーナは未だ諦めていなかった。
そんな状態になりながらも、ナルセーナは何かに対して希望を抱いている。
「私と、お兄さんがいれば負ける訳がないでしょう!」
そして、その状態でそう告げたナルセーナの姿に、僕の中ある記憶が蘇ることになった………
主人公の性格が変わっているという意見が多く、一応補足させていただきますが、主人公の性格は決して変わってません。
ただナルセーナに危害を与えようとする人間に対して過剰反応するようになっただけです。
自分に暴力を振るわれるだけなら、今まで通り耐えるだけです。




