第七百六十二話 帰って来た
「ミツバ……お前は神の奇跡を信じるか?」
「信じません。神がもしもいるなら……随分と意地悪だと思いますから。あなたは泣いてばかりです」
ミツバの言葉にヨハネスは涙を拭う。
空には黒い魔導師と白いマントの騎士。
二人が並ぶ姿をもう一度、見られるとは思わなかった。
もっと、長い時間がかかると覚悟していた。
十年、二十年。
自分の存命中に帰ってこられるのだろうか?
帰ってきてくれるのだろうか?
毎日、不安だった。
夢に見ていた。すでにないはずの右腕で去っていく息子を引き留めようとする夢。
起きて、自分の右腕がすでになく、息子が去ったあとだと気づかされる。
伸ばしても、伸ばしても。
手は届かない。
帝国最高の権力者、皇帝であっても。
手の届かない存在に息子はなってしまった。
あの日、止める言葉を持ち合わせていなかった。それしか手がなかったから。
それが情けなくて。
朝、起きるたびに涙が流れた。
多くの妃が死んだ。親友も死んだ。
息子も娘も死んだ。
最後には自分に一番よく似た息子が人類のために旅立った。
なぜ、自分はこんなに無力なのだろう。
この三年間、ヨハネスは自分を肯定する言葉を持ち合わせていなかった。
けれど。
それでも。
「帰ってきてくれた……ワシの息子が帰って来た……」
「あの子は……約束は必ず守る子です。よく、ご存じでしょう?」
ヨハネスは何度も頷きながら、ミツバの手を握りしめる。
そして。
「さすがワシらの息子だ……たまらんな。弟の結婚式の日に帰ってくるとは……」
この三年間、自分を責め続けたヨハネスだったが、それでも幸せだった。
残った子供たちがいた。
彼らは必死に帝国を再建してくれた。
嬉しかった。
けれど、それでも罪悪感は消えない。
一生、この痛みを抱えて生きていくのだろう。
だが、それは少しだけ軽くなった。
十数年前、小さな少女がいた。
泣いている少女を庇って、決して口を割らない息子がいた。
今、二人が帝国のために肩を並べている。
これほど嬉しいことはない。
縁が二人を繋ぎ、今、この時に導いた。
それを見ながら、ヨハネスは誇らしげに呟いた。
「ゆけ、アルノルト……!」
■■■
「フィーネさん! こちらへ!」
少女を抱きしめ、ジッとアルノルトのことを見つめていたフィーネに対して、近づいたのはルーペルトだった。
まだフィーネは結界の外。
何があるかわからない。
あたりは静寂に包まれている。
帰って来た英雄を見て、誰もがただ茫然としていた。
帰ってくると信じていた者は少ない。
死者が復活したようなものだ。だから、頭が追い付かなかった。
だが、ルーペルトは違った。
「ボーっとするな!! 近衛騎士団は結界の維持! 皇帝陛下たちを城へ退避させるんだ! 民の避難も急げ!! 敵があの魔導師だけとは限らない!!」
指示を飛ばしながら、ルーペルトはフィーネと少女を馬車に乗せる。
そんな中、逃げまどう民に紛れて一人の男が馬車に接近してきた。
瞬時にその男が武器を持っていることを見抜いたルーペルトは、剣を抜き放ち、その男の腕を切り落とす。
「ぐわぁぁぁっ!! くそっ!!」
腕を斬られた男はルーペルトに体当たりをしようとするが、飛んできた魔力弾により遠くまで吹き飛ばされる。
「せっかく周囲を落ち着かせたんだ。なるべく血を流さず制圧しろ。血は民のパニックを引き起こす」
「え? あ、はい……」
ルーペルトの背後に現れたのはヘンリックだった。
突然現れたヘンリックにルーペルトは困惑するが、すぐにヘンリックはその場をあとにする。
言葉を残して。
「だが、良い太刀筋だった」
民に紛れた敵。
それをヘンリックは的確に見抜き、素早く制圧していく。
別の場所ではセバスが同様に敵を制圧していた。
数はそんなにいない。
結婚式前にセバスたちが文字通り、狩ったからだ。
そんな中、後方にいた部隊が合流してきた。
「ルーペルト殿下!」
「アロイス! 民の避難誘導を!」
「了解しました!!」
二人は短い会話のあと、すぐに動き出す。
結界をいつまでも維持するのは近衛騎士団でも至難の業だ。
ひとまず安全な場所に撤退する必要がある。
その準備の最中、クリスタが馬車を降りた。
「クリスタ姉上!?」
「もっと近くで見る……!」
「無茶言わないでください! 下がりますよ!」
「アル兄様がどこかにいかないように監視しないと……!」
「そんなこと言っている場合ですか? 下がりますよ!!」
いやいやと首を振るクリスタに対して、ルーペルトは容赦なく引きずって、馬車に乗せる。
「ルーペルト……!」
「僕らが下がらなければ民の避難も進みません!」
「でも……」
「僕は……帰ってきてくれたなら、それでいい。姉上は違いますか?」
「けど……どこか行っちゃう……!」
「どこに居ようと……生きていてくれればそれでいい。僕らがアルノルト兄上を困らせちゃいけないんです」
「……ルーペルトなんて嫌い……」
「えぇ……」
そっぽを向きつつ、クリスタは大人しく馬車に座る。
それを見て、ルーペルトは馬車を発車させる。
だが、その瞬間。
フィーネがフラリと降りて、ジッと空を見つめる。
けれど、すでに馬車は走り出した。
そしてフィーネを呼び戻す言葉をルーペルトは持ち合わせていなかった。
「フィーネはいいの!?」
「いや、その……僕には止められないというか……二人の間にしゃしゃり出るのは違うというか……」
「ひどい!!」
「だって! アルノルト兄上とフィーネさんは……その……」
「言い訳!!」
「あー、もう! アロイス!」
「護衛は引き受けました! お下がりを!」
「任せたよ!」
こうして皇帝たちを乗せた馬車は城へと一時下がることになった。
■■■
「これは夢かな? レティシア」
「夢ではありませんね。困った方です」
皇太子と皇太子妃の乗る馬車。
一番先頭にいたその馬車の中で、レオナルトは空を見ていた。
空ではアルノルトとエルナが戦い始めていた。
周囲への被害を配慮しているせいだろうか、二人にしては控えめだ。
とはいえ、それでも赤竜を圧倒しており、そのうち討伐は完了するだろう。
タイムリミットはそれまで。
「行ってくるって言ったら怒る?」
「怒りませんよ。それに止めても行くのでは?」
結婚式。
新郎が新婦を放って、兄の下へ行くのはいただけないという思いがレオナルトにはあった。
けれど、レティシアはそんなレオナルトの背を押した。
「行くのであれば、お伝えしてください。レティシアが〝お兄様〟にご挨拶したい、と。お話しなければいけないことがたくさんありますから」
「あんまり兄さんを脅さないでよ……逃げちゃうよ?」
「私が脅さなくてもあの人は姿を消します。英雄としての生活に耐えられる人ではありませんから。耐えても三日でしょうね」
「よくお分かりで……」
「だから今しかないのです。行ってください、レオ」
「うん、行ってくるよ」
そう言ってレオナルトが指笛を吹くと、黒い鷲獅子が空から降り立った。
そんな中、レオナルトの後ろから声がした。
「レオ様!」
「フィーネさん……」
「ご一緒してもいいでしょうか!?」
その願いを聞いたレオはチラリとレティシアを見る。
レティシアは静かに頷く。
レオナルトも頷き返すと、フィーネを後ろに乗せて空へ上がったのだった。
「レティシア様、城へ避難を」
「はい」
近衛騎士団の団長であるアリーダの言葉を受けて、レティシアは静かに返事をした。
そんなレティシアにアリーダは告げる。
「よろしかったのですか?」
「フィーネ様を同行させたことですか?」
「はい」
結婚式をあげたばかり。その中で新婦を置いて新郎が別の場所に行くうえに、その背には別の女性。
よい気分とは思えなかった。
「フィーネ様に嫉妬するだけ無駄ですから」
「というと?」
「アルノルト様しか目に入っていない方に嫉妬しても仕方ないでしょう? 私の夫はレオなのだから」
そう言ってレティシアは微笑む。
同じ女性なのだからわかる。
その人しか目に入らないほど、恋しているのだ。
かつて自分が捕らわれた時、アルノルトはレオナルトを送り出した。レオナルトはレティシアしか目に入らない状態だったから。
自分で救ってこいと、叱咤して送り出したのだ。
今回は自分がフィーネを送り出した。
「これでおあいこですよ、アルノルト様」
そう呟きながら、レティシアは皇太子妃として城に下がっていったのだった。




