第六百八十九話 ザンドラお姉さま
『クリスタ……』
ベッドの上で廃人状態になっているクリスタを見つめる存在がいた。
それは周りの者には見えない。
ただ、そこにはいた。
そっとそれはクリスタに手を伸ばそうとするが。
『やめておけ。術式もない憑依は危険な技だ。この前はたまたま、その娘が強い素質を持っていて、お前と極端に親和性があったから成功しただけだ』
『では……こんな状態の妹を放っておけと?』
怒りに震えた声を出したのはザンドラだった。
そんなザンドラを見て、制止した人物、白いローブを着たアルフォンスは肩を竦めた。
『我らは大地に宿った思念体。現世と冥界の狭間に存在する、いてはならない者。本来なら現世に介入はできない。アードラーの血があればこそ、意識を保ったままでいられる。近しい者には声も届けられるが、それですら理から外れた行為だ』
『ですが……』
『その娘は先天魔法の中でもさらに希少な〝未来予知〟の持ち主。虹彩異色のような異常を発生させず、高い魔力をその身に宿す生まれつきの規格外。お前の弟に近い。正確にいえば古代魔法文明の魔導師に近い。それでも、精神は未熟な子供だ。何の補助もなく憑依すれば事故が起こりかねん』
アルフォンスの説明を受けて、ザンドラは唇を噛み締める。
前回はクリスタ自身が意識を底に沈めた。故に成功した憑依だ。
しかし、今は違う。
受け入れ態勢が整っていない。
何もできない。
そのことにザンドラは無力感を覚えていた。
けれど。
『我らは時と共に消え去る存在。見守り、手助けはできても困難を乗り越えるのは本人だ』
『……今でも存在するあなたは?』
『俺は特別だからな』
これほど理不尽で、しかも納得できる説明があるとは思わなかった。
初代皇帝アルフォンスは規格外の魔導師だった。
それこそ滅びたはずの古代魔法文明の魔導師が、いきなり現れたようなものだ。
『……クリスタ。聞こえる?』
ザンドラはクリスタに問いかけ始めた。
しかし、反応はない。
『兄の死がよほどショックだったのだろう。心を閉ざしている。未熟な子供には無理のないことだ。無駄なことはやめておけ』
『この子は……立ち直れる強さを持っている子です』
『根拠は?』
『私の妹で……あなたの子孫です』
その返しにアルフォンスは苦笑すると、そのまま姿を消した。
それと入れ替わる形で、部屋にリタが入って来た。
「クーちゃん! タオルを持ってきた!」
リタは努めて明るい声を出すが、クリスタは応えない。
それでもリタは満面の笑顔でクリスタの体を拭き始めた。
それを見て、ザンドラは目を伏せる。
『……心を閉ざさないで、クリスタ。前を向いて……』
アルノルトは生きている。
それさえ伝えられれば。
そんな中、リタがクリスタのぬいぐるみを取り出した。
「ねぇ、クーちゃん。アル兄は大丈夫。絶対に生きてるから……死んだりしないから。ね?」
クリスタ愛用のぬいぐるみ。
かつてアルノルトがプレゼントしたぬいぐるみを見て、少しだけクリスタの目に生気が戻った。
今しかない。
ザンドラはそう思い、叫んだ。
『アルノルトは生きているわ!!』
■■■
昏い闇の中。
真っ黒で、何も見えない。
そんな中、少しだけ光が見えた。
今更、なにもかもどうでもいい。
そんな風に思っていた。
けれど、クリスタの耳に声が届いた。
『アルノルトは生きているわ!!』
懐かしい声。
その声の持ち主の印象は今と昔で変わっている。
昔は不器用ながら優しい姉だった。
今は恐怖の権化。
そんな人物の声でも。
アルノルトは生きているという言葉に、クリスタは反応せずにはいられなかった。
俯き、闇の中にいたクリスタは少しだけ、本当に少しだけ目を開けた。
その瞬間、目に映ったのは優し気に微笑む姉だった。
そっと抱きしめられて、クリスタは呟く。
「ザンドラ……お姉様……」
『大丈夫よ……アルノルトは生きているから。勇気を出して……〝前〟を見なさい』
難しい話だ。
〝前〟を見るといつも見たくないものばかりを見る。
だから、最近は先のことを意図的に考えないようにしていた。
クリスタなりの能力との付き合い方だった。
この先はどうなっているんだろう?
この後はどうなるんだろう?
そんなことを考えてしまうと、知らず知らずのうちに未来を覗き見してしまう。
それが当たるかどうかはわからない。
けれど、直感的にクリスタは理解していた。
それは起こりうる未来。外れたとしても、可能性はあるということだ。
少なくとも、クリスタの目に映る未来は生々しい。
ゆえに見たくはなかった。現実だけでも苦しいのに。
未来の苦しさまで受け入れられない。
血生臭い政治争い、戦争、悪魔。
クリスタには多くのことが負担だった。
近しい者が死んでいく。いつか一番大事な人たちが死んでいくのでは? と考えれば考えるほど。
心がまいっていった。
クリスタはルーペルトとは違う。
皇国出身の母を持ち、最年少であり、弱い立場だったルーペルトは、いつか廃されるかもしれないという危機感を持ち、そう言い聞かされて育った。一方、常に保護されてきたクリスタ。二人は同じ皇族でも、育ちが違った。
クリスタは当たり前のように人の死を受け入れることはできなかった。
死は怖いもの。幼い頃から未来を見てきたゆえに、必要以上に死が怖かった。
ヴィルヘルムの死も見てしまった。
家族はどんどん死んでいく。
この世の無常さを、そういうものだとは受け入れられないのだ。
怖くて、苦しくて、悲しくて。
〝それでも〟と前を向くのは嫌だった。
心が壊れてしまいそうだから。
誰にも死んでほしくはなかった。仲の良い家族でいてほしかった。
帝位争いなど大嫌いだった。
こんなにも優しく笑ってくれる姉をどこかに連れ去ってしまうのだから。
「……行かないで……」
『〝いつでも〟。傍にいるわ』
その言葉に背を押されて、クリスタは少しだけ前を向いた。
一人ではないと思ったから。
瞬間。
戦場が目に入った。
人が傷つき、倒れる姿に怯みそうになる。
それでもクリスタは前を見る。
すると。
黒いローブを着たアルノルトの姿が見えた。
その隣にはレオナルトがおり、そして。
「みんないる……」
家族が肩を並べていた。
かつてのように。
兄姉たちが協力している。
その光景は少し見覚えがある。
ヴィルヘルムが健在だった頃の家族の姿だ。
それが戻ってくる。
そこで光景は途切れる。
けれど、十分だった。
そこまで頑張ればいいとわかったから。
「……アル兄さま……」
ゆっくりとクリスタは体を起こした。
それを見て、リタはパッと顔を輝かせた。
「クーちゃん!!」
「リタ……ごめんね」
心配をかけた。
そのことに謝罪しつつ、すぐにクリスタはベッドから降りた。
そして。
「リタ……紐を持っている?」
「紐? あるけど……」
クリスタに訊ねられ、リタは紐を取り出す。
長さは問題ない。
それでクリスタは自分の髪を結って、ポニーテールにする。
少しでも自分を凛々しく見せるために。
「失礼します……」
扉をノックして、アロイスが恐る恐る部屋に入って来た。
起き上がっているクリスタを見て、アロイスはホッと息をつく。
だが。
「……ジンメル侯爵」
「は、はっ」
威厳ある物言いにアロイスは思わず膝をついた。
「どれほど集まった……?」
「南部諸侯の六分の一ほどが集まりました。すべてレオナルト殿下や皇帝陛下に恩ある者です」
「足りない……。半数まで持っていかないと」
「それは難しいかと……南部はヴィルヘルム皇子の影響力が強く……」
「私が説得して回る……」
そう言ってクリスタは歩き出した。
あまりの変化にアロイスは茫然とするが、リタがクリスタを追いかけたのを見て、自分も慌てて追いかける。
「目標は帝都。皇后陛下の勅書に従い……反逆者ヴィルヘルムを討つ」




