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32.華麗なるネモフィラ・ルーベル


 ネモは、舞台裏の控室でガチガチに緊張していた。

 来客は既にホールに入っていて、控室にもざわざわとした喧騒が響いていた。

 ネモは最後の最後までスピーチの原稿を確認していた。

 文字を追いながら口の中で転がすように呟いて何度も内容を確認している。


「ネモ様、準備はよろしいでしょうか?」


 シラユキだ。

 シラユキはグの国の民族衣装風のドレスを着ていて、それがとてもかわいらしかった。

 よろしいか、と聞かれれば全くよろしくないのだが、百年経とうがネモにとってよろしい時が来ないのはわかりきっていた。どこかで腹を括らなければならない。

 原稿をテーブルに置き、両手で顔を軽く挟んで気合を入れる。


「うん、いけるよ」


 シラユキは優しく微笑み、


「ネモ様なら大丈夫ですよ、あまり緊張なさらずに」


 無責任なことを言わないでほしい。

 緊張の極限にあったネモは、シラユキの言葉を有り難いと思う余裕はなかった。

 シラユキが控室の扉を開ける。

 舞台袖まで出ると、ざわめきは一層大きくなった。

 

 シラユキが舞台にいる司会に合図を送った。

 

 司会が大きな声で宣言する。

 

「それでは、ここでネモフィラ・ルーベル代表より挨拶をさせていただきます」


 盛大な拍手が響き渡った。

 もう後には退けなかった。

 ネモは処刑台への階段を自ら登るような気持ちで足を進めた。

 ピッタリの寸法だったはずのドレスがキツく感じる。手が汗ばみ、どこか息苦しいような気がする。


 舞台に出ると、舞台袖との光量の差に一瞬目がくらんだ。

 目が慣れると、ホールに数多の人がいるのが目に入ってきた。

 客は誰もが上流階級の人間で、プライマにいた頃のネモだったら見たことすらないような階級の人間だった。

 誰もが洗練された服を着こなし、優雅に立食パーティを楽しんでいた。

 その視線が、ネモに集中していた。

 百を超える視線が自分に集中しているのを感じた。汗が吹きでそうになる。


 舞台の中央まで進み、拡声器の前に立った。

 壮観、といえる光景だった。

 巨大なホールにはいくつものテーブルが並び、豪華な料理が惜しむことなく並べられていた。

 客たちは料理に手をつけるのをやめ、皆が舞台上のネモを見ていた。

 この全員が、ある種ネモに会うためにやってきてくれているのだ。

 どこか現実離れしているような気がして、逆に実感がわかなかった。


 ネモはゴクリと唾を飲み込む。

 それからスピーチを始めた。


「わたしは、ルーベル社代表のネモフィラ、ルーベルと申します。本日はルーベル社の周年記念にお越しいただきありがとうございます」


 スムーズな発音ができた。声が震えていないことに安堵した。

 ネモの言葉が途切れる。

 客たちは、続く言葉を待っていた。

 ネモは背筋に冷たいものが走るのを感じる。


 全部忘れた。


 あれほど何度も読み返した原稿の内容が、まったく思い出せなかった。

 企業の成長の軌跡のような話だったはずなのだが、どう始めたものか思い出せない。

 成長、成長、成長。

 ネモはなんとか思い出そうとするが、努力しても思い出せないであろう予感はあった。

 時間がなかった。

 客たちがいるのだ。

 ネモは覚悟を決めた。

 もうここまで来たら、自分が思うことを話すしかない。

 

「我が社は幸運にも恵まれ、この二年で躍進とも言える成長を遂げることができました」


 ホール内は静まり、誰もがネモの言葉に耳を傾けていた。

 不思議と視野が広がった気がした。

 混乱に近しい緊張に苛まれていた心は、いつの間にかさざなみのような穏やかさに変わり、注目の的となっているのを意識せずにいられた。

 ホールの右側中程にサザンカがいたのが見えた。その周囲にはプライマに来ていた視察隊の面々がいる。

 左側の手前にはルーベル社の職人たちの姿が見えた。ヒイラギの姿が見える。最近になって職人の数を大幅に増員したので、すぐに名前が思い出せない職人もいた。

 ホールの一番奥、入り口付近に金髪の男がいた。格好からして警備だろうか。男はネモが見ていることに気付いたのかウィンクを投げてよこした。

 どこかで見たことがある気はする。はたして誰だったか。


「社の成長に伴い、わたし自身が常日頃考えていることがあります。それはわたしは成長できているのか、人の成長とはなんなのか、ということです。ご存知の通りわたしはプライマ出身、こことは違う世界が出身の人間です。今でこそこのような場所に立っておりますが、プライマに居た頃はごく普通の職人見習いでありました。人と付き合うのが苦手で、あまり人と関わらずに生きてきました。その頃からわたしは成長できているのかといえば、正直わからないとしか言えません」


 言葉が、自然に出てきた。


「未だに人付き合いは得意ではありませんし、この世界について知らないこともいっぱいあります。わたし自身がどこまで変われているのかは本当にわからないのです」


 ネモは、振り返っていた。

 心の中で。

 この二年間過ごした日々を。


「でも変わったと言えるところが、ひとつだけあります」


 色々な人間と関わった日々を。


「それは”縁”です。あの頃のわたしと違うのは、多くの人と関わった経験だと思います。たぶん、人間の本質というのは、時間経過では変わらないのだと思います。立派な大人に見えても、本質的なところでは、子供の頃と変わらない部分が誰しもあると思います。子供から大人になって、歳を重ねて、そうして明確に変わるのは、人との付き合いだと思います。自分を助けてくれる人、自分と一緒に過ごしてくれる人、そういった人との出会いと別れで得られる経験こそが、人間の成長における重要な部分ではないかと、わたしは最近考えるようになったのです」


 ネモは優しく微笑んだ。

 聴衆を意識してのものではなく、自然にこぼれた笑みだった。

 自分に関心を寄せてこれだけの人間が集まってくれたということを、今は素直に喜ぶことができた。


「ですから、今日お越しいただけた皆様とも良い”縁”ができればと思います。本日、こうして皆様に来ていただけたことに、心から感謝を申し上げます」


 軽く会釈をして、ネモは舞台袖へと下がった。

 その背に、盛大な拍手を感じていた。


 舞台袖に戻って、シラユキの姿を見てから思い出した。


「ごめん、食事を勧めるの、忘れちゃった……」


 本来の原稿では、締めくくりに食事を勧めるの言葉があったのだ。

 

 てっきり落胆されるか、まあ仕方ないでしょう、といった顔をされるかと思ったのだが、シラユキは咎めるどころか、どこか嬉しそうですらあった。

 そうして、こう言ったのだ。


「ご立派でしたよ、ネモ様」


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