21.直接目にした世界
エターリの中央公園には池がある。
池、といっても、その大きさはどちらかといえば湖に近いかもしれない。
外周をゆっくりとあるけば半時間以上は潰せてしまう。
池には無数の蓮が植えられていて、季節によっては素晴らしい景色が楽しめる。
生憎と今はまだようやく茎が伸び始めた頃であり、開花まではもう少しといったところだ。
それでも、ネモは公園の中にある巨大な池に大いに関心した。
公園自体が外界から隔離された場所として徹底されているのを感じたが、ここまで来ると本当に都市から違う場所に迷い込んでしまったのではないかと思わされる。
ネモはユリと池の周りを一周することにした。
ふたりは話しながら歩いた。
出会って間もない人間とこうして喋っていたらネモは緊張してしまうはずなのに、ユリ相手だとどうしてか居心地の悪さは感じなかった。
話の内容の半分はユリの愚痴で、ネモが設立する会社の法的な手続きに関してのことだった。
ユリの言っている内容は断片的にしか理解できなかったが、ユリが本当にネモのためにがんばってくれている、というのは感じられた。
ネモは池の周りを散歩していて気になったところがあった。
それは、池そのものではなくその外周、歩道の横の、木々に紛れている場所であった。
ところどころ、テントのようなものがあるのだ。
「さっきからよく見るあれってなんですか?」
ネモがテントらしきものを指さすと、
「ああ、あれはテント」
ユリが答える。どうやら本当にテントだったらしい。
「誰が住んでいるんですか?」
「そりゃあ浮浪者よ」
「ふろうしゃ」
ネモはその言葉に衝撃を受けた。
ネモのいた世界に存在していた物乞いが、このミューズにもいるなんて考えもしなかったのだ。
「この世界にも浮浪者がいるんですか?」
「そりゃいるよー、事情は色々だけどね」
途中から、ネモは池の景観よりも、森林側に目を向けていた。
多い、というほどではない。
テントはまばらで、全体で見てもそれほどの数はないだろう。
それでも目を引く程度の数はあった。中でも特別に目を引いたのは子連れの浮浪者だ。
テントの近くで、ネモの目からみてもみすぼらしい子供がひとりで遊んでいたのだ。
ユリに浮浪者がいる理由を聞いても、はっきりとした答えを返してはくれなかった。
その人に働く能力がなかったり、あるいは運だったり色々だろうと言っただけだ。
ミューズは夢のような国だと思っていたが、ここもまた違った現実でしかないのだ。
女神様は、弱者に手を差し伸べるためにこの世界を作った。
それは伝承でしかない。
このミューズにもやはり弱者はいるのだ。
ネモには、そんな気がしていた。
***
「ネモぴはお昼なにか食べたいものある?」
「えっと、その、わたし、この世界の料理のこと、まだあんまり分からなくて……」
「そっかそっか、じゃあどういうのが食べたいとかある? ガッツリ系とかさっぱり系とか」
「それならさっぱり系が食べたい気がします」
「オッケー、じゃあウチがいいとこ連れてってあげるから」
公園を出て、飲食街まで移動した。
飲食街となるとさすがに人が多かった。
飲食街は表通りからは一本道のはずれた裏通りにあり、そこには車が走るための道が設けられていなかった。
それに少数ではあるが露店も出ていて、どこかプライマの市場を思わせた。
ネモはそこでふと気付いた。
お金。
ネモはお金を持っていないのだった。
完全に忘れていた。
シラユキに相談しようと思っていたのだが、朝早くにユリが来てしまったために相談する機会がなく、そのまま忘れて出てきてしまった。
どうしよう。
ユリの顔を伺うが、ユリは目的地に向けてずんずん歩いている。
言い出すか迷ったが、どんな反応が返ってくるのかわからず、言う勇気が充填される前に店へと着いてしまった。
看板には『ヒマワリの店』と書いてある。
洒落た木造の店で、魚料理を出しているようだった。
ネモにも、看板に書いてある内容を読むことができた。
勉強の成果が役に立っている。ここ一ヶ月ネモは引きこもっていただけではなく、シラユキに教わって文字や言葉の勉強をしていたのだ。
言葉は簡単だった。俗語はまだわからないものも多いが、元は同じ世界の住人だっただけあり、長きにわたる時を経てなお、ほぼ同じ言語を使っていたからだ。
文字も似たようなもので、プライマの文字を基本としていたために習得はそれほど問題にはならなかった。
まだ難しい読み書きはできないが、それでもシラユキからは合格点をもらう程度には覚えていた。シラユキが褒めてくれたのを思い出してネモはちょっとうれしくなる。
店の中に入り、給仕に案内されてふたりは席についた。
雰囲気の良い店だった。
客層は洗練され店の内装も落ち着いてゆったりとしている。弦楽器を使ったどこか寂しさを感じさせる音楽が流れている。
「ここはウチのイチオシ。すぐ入れてこんなに美味しい店は他にないかも」
「魚料理、を扱ってるんですか?」
「うん、どして?」
「いえ、海から離れてるのに魚料理が出せるなんてすごいなって」
「そかそか、プライマだと運搬も保存も大変なのかもね」
メニューを手にする。
ネモはちゃんとメニューを読むことができた。
できたからこそ、後悔した。
たかい。たかいのだ。
細かいメニューの内容はわからないが、主菜と思しきものは平均で5000マニーほどだ。
ネモは金銭感覚の勉強もした。
この世界には、お金の単位がひとつしかない。
例えばネモのいたプライマでは、通貨はパニー、セリング、ボンドの三つの単位で数えられる。
パニーが最小の単位で12パニーは1セリング、20セリングで1ボンドといった具合だ。
それに対してミューズの通貨の単位はマニーのみである。
ネモの勉強したところによると、一般市民の平均的な月収は40万マニーほどであるという。
ちょっとしたお菓子が100マニー程度であると習ったネモは、5000マニーという数字を見て驚愕した。
たぶん、これはかなり高級な食事なのではないだろうか。
まあ、仮にどんな高級な食事だろうと安飯だろうと、ネモの手持ちはゼロである。
どうしたってユリに借りるしかないのだ。
ネモは勇気を出して言った。
「あっ、あの、ユリさん、わたし今持ち合わせがないんですけど」
ユリはネモを見てなにを言っているんだこいつは、という顔をした。
ネモはやってしまったと思った。
恥ずかしさで顔から湯気が出そうだ。
「あのさーネモぴ、こんなのウチが出すに決まってるじゃん! ウチが行こうっていったんだし」
「で、でもこんな高級そうなもの……」
「ネモぴが遠慮する意味がわからんしー」
ユリはどこか怒っているようにも見えた。
厚意を無碍にしようとしたせいだろうか、ネモはいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
そこで、ユリの表情が変化した。なにかに気付いてハッとするようなそんな表情だ。
「ネモぴ、ユキちゃんからお金のことって聞いたりしてる?」
「い、いえ、今はリの国の政府が色々と用立ててくれているとしか……」
「じゃあじゃあ、ウチがネモぴから雇われての報酬とかも聞いてない?」
「聞いてないです、シラユキに全部任せてて」
「ユキちゃん変なところで抜けてるなー、あのね、ウチがネモぴからもらう年収、いくらかわかる?」
なんだか怖い話になってきた、とネモは思った。
もしかしたら払えないのに自分を雇ったのか、とかそういう話に発展してしまうのだろうか。
ネモがこの世界でお金を手に入れられる方法といえば、自分の作品を売ることだけだ。
自分の作品はいったいどれくらいの値段で売れるのだろうか。
師匠の作品は、高いものでは100ボンドほどで売れたという話を思い出す。それをこちらの世界のお金に換算すればだいたい500万マニーくらいなのだろうか。
ネモからすれば目も眩むような大金であるが、この世界ではネモの作品は非常に評価されているはずなので、それくらいの値がついてもおかしくないように思える。
ユリの報酬はネモが払える金額の範囲内であるに違いなく、半分はネモの希望も混じった予想を口にした。
「ろ、ろっぴゃくまんマニーくらいですか?」
自分で言って恐ろしい金額だった。
ネモが職人見習いとして過ごした収入は、合計でも40ボンドに満たない。
それはこちらの世界では200万マニーくらいなのではないかと思う。
職人見習い時代の二年間に得た収入以上の金額を払う、そんな約束をしているという予想に、ネモは自分で言っておいて勝手に戦慄した。
「ぶぶー不正解でーす」
もっと高いのかそれとも低いのか。ネモは低くあってくれと願いながら、
「こ、答えはいくらなんですか?」
「5000万マニーでーす」
「ごっ、ごせっ……」
ネモの思考はその途方もない数字に打ち砕かれ、まともにものを考えられなくなった。
5000万マニーがなにもわからない。
それはいったいどれほどの大金なのか、いったいなにを買えるのか。
プライマの通貨やものに換算してどうにか理解できるような形にしようと試みるのだが、ポンコツになったネモの頭はそれを行うことができない。
ネモのポンコツな頭脳が出した結論は「いっぱい」であった。
手を使って数える幼児が十以上の数字を数えられないのと一緒で、ネモの脳はそれを理解できない数字とした。
「むっ、むりですよそんなの。わたしお金もってないです!」
「ネモぴ、ユキちゃんからウチの仕事の進捗、ほんとに聞いてない?」
ユリは半ば呆れ、といった顔をして言った。
「ユリさんは褒めざるを得ない仕事をしています、って言ってましたけど」
それを聞いてユリはちょっとだけ嬉しそうな顔をしてから、
「じゃあ、細かい内容は?」
「それは、ぜんぜんです」
「なるほどね」
ユリは得心が言ったとうなずく。
「ウチの今週やった仕事で、リスティーズっていうオークションハウスにネモぴの作品を出品登録してきたの。No.3とNo.4ね」
ネモは作品の名前をつけるのが苦手であった。
結果、こちらの言葉で数字を割り振っていく、という割と安直な名前の付け方に着地した。
「注目の出品ってことで競りは来月になるんだけど、その最低落札価格が四億マニー」
ネモの脳は、一瞬機能を停止した。
それから、
「た、た、た、た、た、たかいじゃないですか! 売れないですよそんなの!!」
ネモは立ち上がり、周囲の客の視線が何事かと集中した。
給仕がネモを見て迷惑そうな顔をしている。
ネモはあわてて座り直した。
「売れるよ。もっとずっと高い値段で。元の世界でどうだったかは知らないけど、ネモぴはこっちの世界で大金持ちなの、ちょーせれぶ」
ユリの言葉が遠く聞こえた。
元の世界でいきなり命を狙われる立場になった時とは違った非現実感があった。
「今日はウチのおごり。でもそのうちネモぴもウチをイイトコ連れてってね」
言ってユリは笑った。
しばらくして、料理は運ばれてきた。
おいしかったと思うのだが、ネモはその味の半分もわからなかった。
***
最後に訪れたのは大聖堂だった。
もちろん、女神教のだ。
ネモのいたプライマとは逆で、ミューズでは女神が信仰の対象になっている。
そうなると主神に対しての扱いが悪いのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
女神を追放したとて、それはそれらしく、一応は信仰すべき神とされているそうだ。
大聖堂に踏み入ったネモは心を打たれた。
荘厳な雰囲気の大聖堂は、プライマと同じような石造りの建物であったが、その細部は大きく違っていた。
天井に近い窓はどれもステンドグラスになっていて女神の物語が描かれていた。
聖堂は一部屋の巨大な空間で、奥にある本尊を除けば、あとは固定の席が設けられているだけの空間だった。
なにもない平日の昼間ではあったが、ぼちぼち人はいた。
大聖堂に訪れている人は皆席に座って、祈っている人もいれば休憩をしているだけの人もいるように見えた。
共通するのは皆が静かにしていることだった。
話し声もほとんどしない。
静謐な空間に鮮やかなステンドグラス、そして奥にある女神の本尊は、これ以上ない神聖さを感じさせた。
ネモはユリに先行して奥の本尊へと歩みを進めた。
席と席の間にある通りを行く。
進む度に視線を感じたが気にならなかった。
ネモは本尊に吸い寄せられるように歩を進める。
本尊の前には誰もおらず、すぐに目の前で祈れる状態であった。
ネモは本尊の前、これ以上は近寄らないようにと設けられた柵の手前まで歩き、そこで女神像を見つめた。
不思議な感覚だった。
女神像の瞳には、透明感を持った紫色の宝石がはめ込まれていた。
長い髪、憂いを帯びた表情、やせ細った身体、その手は前に出され、なにかを包み込むような形に作られていた。
ネモのいた世界には、女神様の像などありはしなかった。
少なくとも、ネモが生活をしていた範囲では。
だから、ネモは女神様の像を初めて目にした。
像は、ネモに似ているように見えた。
そう考え、自惚れかもしれないとネモは考えを改めた。
瞳の色が似ていて、髪が長いのでそう思ってしまったのかもしれない。
ネモは女神像の姿を心に思い描き、両手を合わせて祈った。
今日一日、ミューズの首都で過ごしてわかったことが色々とあった。
この世界は、ネモが思い描いていた完璧な理想郷などではない。
それでも、ネモがいたプライマよりもずっと良い世界ではあると思う。
ネモは感謝の祈りを捧げた。
この世界に導いてくれた感謝を。
あるいは弱者を救うという伝説は本当で、ネモはその伝説の通りに導かれたのかもしれない。
ネモは祈った。
この先も、この世界で暮らしていけるようにと。




