37 彼を知り、己を知れば
「彼女の生まれは、決して恵まれているとは言えなかった。絶えず貧困に苛まれ、荒んだ者達は日夜罪を犯す、そういう街に居た。それでも、彼女は善良に生きようと懸命で。そこに私は惹かれた」
壮年の男は、自らの半生を語るうちに知らず立ち上がっていた。
胸の奥から込み上げる昂ぶりが、そうしているようだった。
「だが、私達には、ごく当たり前に愛を育むことすら許されなかった。今は亡き父が私達に言い放った“住む世界が違う”という言葉は、忘れたくとも忘れられない。親に認められぬまま、秘かに逢瀬を重ねるうちにやがて彼女は身ごもった――君を」
立ち上がった男は語りながら部屋を歩き、語り聞かせる青年の前に立つ。
目の合う高さはほぼ同じ。青年と自分との、確かな血の繋がりを感じた。
「彼女は。君の母は体が弱くてね。君をこの世に産んですぐ……亡くなった。あの時“父の居ない”君に対して、若く非力な私にできたのは、知己の教会に君を預けひたすら見守ることだけだった」
男はありし日の苦悩を思い出し、自分の頭に手をやると、クセのついた金髪を掻き毟るようにした。
それが男の癖であった。
述懐を聞かされている軍服の青年は、直立不動のまま眉ひとつ動かさない。
ただひたすら、目の前の男を見た。睨むでもなく、慈しむでもなく、ただただ、見た。
「ようやく、最大の障害は除かれた。だからこうして、君を迎えに来たのだ。我が最愛の“妻”との愛の結晶。この世でただ一人になってしまった、愛すべき息子――バンカ。今まで、すまなかった」
父を名乗る男に対し、バンカが投げかける視線は冷たい。
バンカ自身も、自分がいつも以上に冷静で居られているのが不思議だった。
いつもの“自分”であれば、このような話を聞かされれば、身勝手な父親を殴り倒していても良いものだというのに。
「――――随分勝手なこと言うじゃねえか。ついでに、俺を軍から抜けさせて商売の真似事でも仕込もうってか?」
「そんなつもりはない。君が軍人という生き方を選ぶのなら、私は応援する。アンナロゥ大佐から目をかけられていることも知っているよ。さすがだ、バンカ」
「チッ」
ようやく、嫌悪感が舌打ちとなってせり出してくる。
バンカは今度こそ、唐突にやってきた“父親”を――レックス財閥4代目当主ネイル=レックスを睨みつけた。
「今さらのこのこ出てきて、親父だなんて思えねえよ。だが、本当にアンタが俺の親父だって言うんならよォ――息子が乗るための出世道は、きっちり用意して貰おうじゃねェか?」
ぎらついた目で“父”を睨んだまま、バンカは口端を裂けるほどに吊り上げて、白い歯を剥いてみせた。
バンカ=T=レックス。
彼は決して、財閥の御曹司などではない。
飢えた狼であった。
*
士官用にあてがわれた自室にヴォルテを呼びつけたアヤは、お気に入りの茶を二人分淹れてソファに腰を下ろした。
分隊のミーティングなどと託けてはいるが、既に日は暮れ、多くの兵士は休息に入っている。
要するに、アヤは英気を養いたかった。ヴォルテとお茶を飲むことが、今やアヤにとって、英気を養うことに繋がっていた。
「バンカ兵長のお父上が、あのレックス財閥の当主だったなんて」
ほぼ確定の噂として耳に入った、本日最大のニュースを反芻してアヤはため息。
ヴォルテもまた、茶をひと啜りして息をつくが、彼が含むのは驚きではなく喜びである。
「……良かったなあ、バンカのやつ。本当に、良かった」
「ヴォルテ伍長……嬉しそう、ですね」
アヤは屈託のない彼の笑みから思いをさとる。
――きっと、この青年は心の底から、何ら含むところなく祝福しているのだろう。同じ孤児であった、同期の戦友を。
「もちろんです。あいつは突っ張ってるけど、寂しがり屋でしたから。ずっと、心の拠り所を探して、だから、軍隊に入った、って」
友人の話をするヴォルテを見るアヤの目が、ほのかに憂いの色を帯びる。
彼女の意図を察し、ヴォルテはいつも通りの柔和な笑みをアヤに向けた。
見る者の心に沁みるような、自然な微笑みだった。
「僕は、孤独じゃありません。だって、ずっとファーザーが近くに居るんですから。それに、アヤ少尉たちが力を尽くしてくれるお陰で、どんどんファーザーのことを知っていけてる。近づいていけてる。こんなに恵まれているのに、他人を羨んだりする訳がないじゃないですか」
「……ヴォルテ伍長は、本当にファーザーのことを――ドリルのことを大切に思っているんですね」
「ええ。それが、僕の生きる道しるべみたいなものですから。ドリルは、僕そのものです」
「じゃあ、私ももっと、ドリルのことを知りたいな」
カップから離れたアヤの唇が、艶のある音で言葉を紡ぐ。
「だって……そうすれば、あなたをもっと知ることができるんでしょ?」
対面するソファからゆっくりと立ち上がったアヤは、きょとんとした顔をするヴォルテの隣に座り直した。
肩が触れ合う近さ。
黒髪から、シャンプーのいい香りがして。
眼鏡越しの青い瞳は、潤んでいて。
「少尉――!?」
ヴォルテが何か言うより早く、アヤは細腕を彼の肩越しに回し、唇を重ねた。
長い長い、わずか5秒のキスだった。
顔を離した瞬間に、二人はお互いの頬がみるみる紅く染まるのを見た。
お互いの胸が、大きく鼓動を打つのが聴こえた。
アヤは、自身の鼓動を抑えるかのように、重ねた両手をブラウスの豊かな膨らみに沈め。
レンズを隔てた青い眼から、理由もわからず涙が伝うのもそのままに、ヴォルテを見つめ。
「おねがい、アヤって呼んで。少尉じゃなくて。上官じゃなくて。ここに居るのは、ただのアヤ=ルミナ、だから」
衣擦れの音と、青年が息を呑む音がした。
ぱさり、と。
ブラウスが床に落ちる。
続いて、スカートと、下着も、落ちる。
――ヴォルテの目の前に、アヤ=ルミナが立っていた。
羞恥と決意の桃色が差す柔肌を露にして、高まる鼓動に全身を微かに震わせながら。
それでも健気に、彼女は両手を広げ、彼を迎えようとする。
「ほら……ね? ヴォルテ」
そして彼もまた、応えた。
生まれたままの姿になった少女を暖めるように、優しく。
包み込むように、解け合うように、抱きしめた。
「うん――――アヤ――」
再び、唇が重なる。
一対の男女が絆を繋げ、確かめ合う、契りの口づけであった。
*
夜の簡易機甲渠では、夜を徹した作業が続けられている。
決戦に備え、アーマシングのコンディションは最高に保っておかなくてはならない。
ここが我らの戦場とばかりに、整備兵は駆けずり回っていた。
その一角に、他とは異なる系統の作業を続ける者たちが居た。
「各機関の分解を終えたら、順次『輸送機』へ積み込み、“本部”へ移送だ」
素肌に軍服のジャケットを羽織ったアンナロゥが、作業員へ指示を飛ばす。
ちらちらと見える胸元、桜色をした乳首の左側だけが妙に赤くなっているが、それに質問できる者はこの場には居なかった。
「ああ、キミ。ちょっと頼まれてくれ。私の部屋にベッツ曹長が居るから、言づてしてくれたまえ」
作業員の一人を呼び止めたアンナロゥは、相手の困惑、動揺は一向に気にせず、用件だけを伝える。
「重犯罪者『ヴォルテ=マイサン』と『アヤ=ルミナ』の両名を、ただちに捕縛・尋問せよ。罪状は――――『惑星侵略罪』だ」




