第19話 現在地――リアル――1
茜色に輝く空を見つめていた。
飛行機雲が糸を引いて空の彼方に消えても、右手に根を下ろした黒い蔦が抜け落ち、鮮血を滴らせても、彼――レオンハルト・ベッカーは空を見つめ続けた。
焼けたアスファルトの匂いが鼻に衝く。
(メルクーアは、もう、秋だったな……)
遠くで蝉が鳴いている。脳裏に微かな違和感が過るが、溢れ出す郷愁の念が、全てを塗り潰して行った。
アスファルトの匂いに混じる排気ガスの匂いすら、懐かしく、いとおしい。
流れる涙を拭うこともせず、レオの傷ついた右手は胸に添えられている。
いろいろとあった。
アレキサンダー・ヤモという『人間』を殺害した。
大勢の人のために、命を削って大魔法を使用した。
おかしな機械兵たちと命を賭けて戦った。
死にかけた少女を救おうとして――失敗した。
テオフラスト――神に挑戦した。
その全てが、遠くなる。
陽が落ち、藍色の空に星が瞬くようになっても、レオはその場から動けずにいる。
「……ねえ、ここ何処なの?」
背後から遠慮がちに放たれた問いに、レオはこう答える。
「……現実、世界……」
「ゲンジツ……?」
反芻するアキラに背を向け、レオは歩きだす。
「ちょっ……キミ、何処に行くの?」
決まっている。帰るのだ。
一歩、また一歩、地を踏み締める度に、新しい涙が流れ出してレオの頬を濡らす。
集合住宅地の近くにある公園。植え込みを挟む小さなグラウンドを抜け、レオは公園に面した路地に出た。
琥珀色をしたヘッドライトの流星が飛んで来て、それが通り過ぎるのを待った。乗車席から訝しそうに見つめるドライバーと視線が合い、レオは僅かに笑みを浮かべる。
騎士のマントにトーガ。腰に小剣をぶら下げた彼は、この世界では変わった人間にしか見えない。
走り去る乗用車を見送るレオの手に縋り付くようにして、アキラは自らのマントを破いて作った布でレオの傷の止血を試みる。
「アキラ・キサラギ……?」
その存在に、今、気づいたとでも言わんばかりに、レオは眉を寄せた。
「レオ……大丈夫かい? ここはエリクシールが薄いから、もっと集中しないと……」
その言葉に、レオは首を傾げる。
「レオ? だれだ、そいつ?」
「え……?」
止血の処置が済むのと同時に手を振り切って、レオは再び歩き出した。
閑静な住宅街を抜けて行く。戸惑い、頻りに周囲を見回すアキラを背後に、レオは歩き続ける。
行き交う人々が一様に、ぎょっとして、実戦の痕跡のあるレオに視線を集中させる。
レオは笑みを返し、その注目すら楽しんでいるようだった。
やがて、人通りの多い商店街に入った。
彼が人気の多そうな場所を選んで通っていることに、ほどなくしてアキラは気づいたが、楽しんでいる様子の彼を見て、黙って背後に続く。
「うおっ、騎士! かっけぇ!」
「後ろの小っこい娘、チョ→可愛い!」
同じ制服を来た二人組が、すれ違い様、揶揄に似た歓声を上げても、レオは肩を竦めただけだった。
商店街の路地を拍車の付いたブーツで踏み締めて行く。
「おわっ! ニイちゃん、その手、大丈夫か!?」
頭にバンダナを巻いた魚屋の若い男に、レオは傷ついた右手を振って見せる。
「……ちょいとね。ま、たいしたことない」
「そっかあ? 気ぃつけなよ?」
若い男は、一瞬訝しんで見せたものの、愛嬌のある笑みを浮かべ、頷いて見せた。
レオは足を止め、通路に迫り出した魚が並ぶ陳列を見て、言った。
「アジが安いな……」
「おお! 兄ちゃん、目が高いね。そいつは今日入ったばっかりの地物でね」
「ふんふん……財布取って、後で――」
のんびりと会話していたレオだったが、その表情が不意に険しいものになった。
その視線が、向かいのラーメン屋の看板に釘付けになっている。
大サービス三割引!
七月一日~七月二一日
「なあ……今日は、何月何日だ?」
「はん? 七月八日だけど……」
レオは無事な左手で額を抑え、じっと看板を睨み付ける。
「ね、ねえ、レオ……ここは……」
「黙ってくれ」
何か思い出そうとしているかのようなレオの様子に、アキラは困惑しながらも口を噤む。
「七月八日……こっちは秋じゃない……」
そう呟いた時、突然襲ってきた頭痛に、レオは頭を抱えてその場に膝を折った。
猛烈に頭が痛んだ。脳裏に、様々な思いが駆け抜ける。
熱でだるい身体。
出血、貧血、鼻血、免疫不全、肺炎……
もう、治らない。
頭を抱え、蹲るレオにアキラがすかさず駆け寄る。
「レオ!」
「おわっ! 兄ちゃん、救急車呼ぶかぁ!?」
瞬きすらせず、目を見開いたままのレオの頬に、じっとりと汗が浮かぶ。
「いや……病院には、この足で行く……」
呟き、立ち上がるレオの心臓の動悸が激しくなる。
――治らない病気。
――『魔法』でも、使わない限り――
今の彼――『レオンハルト・ベッカー』は……
レオは重く震える息を吐き出し、流れる汗を拭った。
「……キミ、本当に大丈夫?」
不安に揺れるアキラ・キサラギのコバルトブルーの瞳と、レオの瞳が合う。
「あ、ああ……大丈夫。俺は……大丈夫だ……」
SDGのシステムは、『黄金病』というイベントを経て、『レオンハルト・ベッカー』に何を見せ、何をさせたいのか。
テオフラストは、まだその時ではない、早すぎると言っていた。そこまで考えた時、猛烈に込み上げた吐き気に身を折って、レオは胃の内容物を吐き出した。
「レオ! しっかり!」
レオはアキラの肩を杖替わりに、ぐっと背筋を張ると、汚れた口元を拭った。
「大丈夫。大丈夫だ……」
だがその瞳の色は、不安と恐怖に揺れていた。
◇ ◇ ◇ ◇
アキラに腰を抱えられたままのレオは、商店街を抜け、静かな路地に入った。
「ここって、アルタイル……?」
おずおずと問うアキラに、レオは青ざめた表情で答える。
「違う。ここは現実だ。西暦20××年の日本という国だ」
「え? ゲンジツって、キミの故郷の? ニホンって何処?」
その答えに強い目眩を覚えたレオは、再び足元を覚束無くさせる。
「俺、そのこと言ったか……?」
「言ったのはニアさ。その時のキミは、帰るって言ったよ」
「いつ……いつだ?」
油断なく周囲に視線を走らせるアキラは、レオの左腕を自らの肩に巻き付けるようにして、ぐっと腰を引き寄せる。
「八年前。竜の巣で」
「……」
二人は身を寄せ合うようにして、信号のある大きな交差点を抜けて行く。
行き交う人々の奇異の視線に会い、アキラは忌ま忌ましそうに舌打ちした。
「何だ……? じろじろ見やがって……。丸腰の癖に、ケンカ売ってんのか……!」
身の丈を超す長刀と脇差で武装した身長140センチ程の小柄な女性が、男と抱き合うようにして歩いている。しかも二人はマントにトーガという中世の騎士のいで立ちだ。その光景が否が応にも人目を引くのは当然のことだった。
「アキラ……視線を合わせるな。絶対に刀を抜くなよ」
「……わかった」
渋々頷いたアキラに支えられ、レオは重苦しい息を吐く。その胸中を占める思い――
(二度目か……)
『赤い川』や、舞台『失われた英雄と暗黒騎士』で感じた既視感。『星の部屋』ではテオフラストもそれを匂わすようなことを言っていた。
他にも予感は色々あった。だが、彼の記憶は非常にデジタルなもの――『ゲーム』のそれだ。
パーティメンバー……ニアやアキラとの関係も任意ではあるが、細かい所までは振り返れない。認識が違い過ぎる。
アキラに支えられ、体温を感じる距離に有りなお、彼には認められない現実があった。
(俺は……どうなるんだ……?)
彼――レオンハルト・ベッカーは前を向く。
これから、それを確かめに行くのだ。




