第21話 郷愁
アデライーデの見慣れた一室では、遅めの朝食を摂り、落ち着きを取り戻したレオが食後のお茶を飲み始めたところだ。
向かい合って、メルクーアの大麦で作ったパンを齧るニアが、着慣れた従騎士の衣装に身を包み、ぱたぱたと作業に勤しむ猫の姉妹を睨みつけている。手首の『赤水晶の腕輪』を摩りながら言う。
「部屋の片付けはニアがする。二人にはリンを頼みたい」
(変わった……)
流暢に喋るニアを視界の隅に収めながら、レオは、その行動を見守る。
「そうはいきません。これが私たちの仕事ですから」
「リンはどうなる」
「すぐ隣の部屋に居ますが、連れてきましょうか?」
食い下がるエルに、ニアは眉を吊り上げた。
「部屋から出て行けと言っているんだ」
「レオさま……」
エルは困った様子で、レオに向かって視線を飛ばす。答えたのはニアだ。
「レオ、猫は物を盗る。追い払った方がいい」
「盗らない。彼女たちは信用できる。根拠のない事を言っては駄目だ」
レオは一口お茶を啜り、落ち着き払った様子で観察するかのようにニアを見つめる。
「根拠ならある」
「面白い、言って見ろ」
レオは表情を消した。一方的な言い様に怒りを覚えたのだ。その様子に困惑したニアは、目元を潤ませて必死に訴える。
「姉妹のブレスレット。あれはなんなんだ? 元はレオのだったろ?」
「リンが世話になってる。感謝の印に送っただけだが、それがおまえの言い分か? つまらん、もっと楽しませてみろ」
一瞬だけではあるが、身を固くして俯く姉妹の様子をニアは見逃さなかった。偏見からではあるが、ニアの言葉は正鵠を射たのだ。
「レオは騙されてる!」
「いいぞ。続けろ」
「心配なんだ。なんでわかってくれないんだ……」
悔しそうに呟くニアの目尻に涙が溢れ出した。
「……」
ニアがなんの証拠もなく姉妹を非難したことは明らかだ。理屈でなく、感情に訴える様子がそれを証明している。これも中途半端に得た知性が原因か。
(知性という名の禁断の果実……悪いのは俺、か)
「エル、アル。二人ともご苦労だった。下がってくれ」
「なっ……」
結局は折れた形になったレオに納得できないアルは、何か言いかけたが、エルに手を引かれて退室した。
ニアは溢れる涙を拭いながら、ソファに深く腰掛け、膝を組むレオに詰め寄った。
「……」
二人はしばらく見つめあった。先に口を開いたのはレオだ。
「怒っているのか?」
「……少し」
ニアは『赤水晶の腕輪』が気になるのか、少し手首を気にする素振りを見せた。レオは注意深くその様子を観察している。
(腕輪の付与効果に気づいているのかもしれないな。取り上げようとしても、そう簡単には行かないだろう……)
「でも、わかってくれたんだろ? だから猫を追い払った」
「……」
レオは口を噤んだまま、視線を逸らした。それとこれとは別の問題と言わんばかりの態度に、ニアの怒りは沸点に達した。
「レオは甘い!」
「……うるさいな」
レオは眉間に苛立ちを刻み、言った。
「おまえも出て行け。しばらく帰ってくるんじゃない」
「!」
ニアは一度強く床を踏み鳴らすと、涙を拭いながら、姉妹が出て行ったのと同じドアから出て行った。
「……」
レオは静かになった室内で深いため息を吐き出した。
「レオンハルト・ベッカー、という男か……」
◇ ◇ ◇ ◇
「レオンハルト・ベッカーか……」
天井のシャンデリアを見上げ、呟いた。
このメルクーアに、彼が『レオンハルト・ベッカー』として現れて一月余りの月日が経過しているが、この世界に於いて、彼の本当の名を呼ぶ者はいない。
「失われた英雄……いつからそんなものになった?」
(どいつもこいつも……レオ、レオ、レオ)
「うんざりだ」
吐き捨てる。
「ナナセ……俺、もう駄目かもしれないよ……」
不意に、騎士の衣装を引っ張る小さな人影があった。
「……!」
ぎょっとして身を起こす。
「リンか。どうかしたか?」
(聞かれた? ……どうでもいいさ……)
エルとアルの差し金だろうか? それもまたどうでもよい。所詮、彼女らも『レオンハルト・ベッカー』にしか興味はないのだ。
リンが遠慮がちに、膝に手をおく。彼はそんなリンを抱え上げて膝に座らせる。
「最近はどうだ? エルやアルはよくしてくれるか?」
リンはふんふんと頷く。着ている白いワンピースは姉妹が与えたものだ。
「顔の傷は消えそうにないな。少し……見せてくれないか?」
「んん」
リンの顔に刻まれた大きな傷は、数度の治療の甲斐なく、右頬にうっすらと白い線のような痕跡を残すことになった。
「……強く生きろよ。お前はこのメルクーアで最も強く、最も誇り高い種族の一人だ。どんな過去も、傷も、お前の誇りを傷つけることはできない」
「あぅ……」
リンは頬を軽く上気させ、頷く。彼も頷きかけ、
「誇り高く生きろ。だがそれは傲慢であることとは一線を画する。そしてできることなら、他者に優しくなれ。そうすることでより強く生きられる」
語り続けた。幼いリンが言葉の内容を理解できるかどうかはあまり問題ではない。彼が語りかけているのはリンではなく、己自信なのだった。
「リン、おまえの人生は、まだ始まったばかりだ。これから先、どのように辛いことがあっても忍耐を忘れてはいけない」
「……」
彼は思うままに話した。
そして、語る一方で酷い違和感を感じている。
(なんだ、俺……偉そうに、語ってやがる……でも、昔、こんなことがあったような、なかったような……)
リンは膝の上で大人しく、レオンハルト・ベッカーという名のメルクーアの『神官』の話を聞き続けるのだった。




