(66) 松浪 忍
「どういう事なんだい!?皆の前で、肌を曝したってのかい‼」
烈火の如く怒る忍に、電話の向こうで寅一と佐野が慌てふためいた様に宥める声がスピーカーから流れる。
『堂本組長も、まさか妃奈が本当に着物を脱ぐなんて、思ってらっしゃらなかった様で…。それに、親父は堂本組長を止めようとしてらしたんで』
「当たり前だよ‼可哀想に…妃奈は、どんな思いで…」
『まぁ、森田にも両手を上げて賛成すると言わせたし、組長にも認めて貰った。これで、妃奈と黒澤の結婚には、何の障害もなくなった訳だ。目出てぇ事じゃねぇか…ぉ、そろそろ皆が集まり出した。この話は、又帰ってからな』
プツリと通話の切れる音がして、忍はヤレヤレと首を振った。
長襦袢姿で黒澤と共に松浪組に帰る道々、妃奈は何も言葉を発する事なく、黒澤の車の助手席で唯々涙を流していたという。
妃奈を養女に迎える話は、琥珀の誕生祝いの後に忍から黒澤に申し出た。
森田の頑なな態度と、妃奈と琥珀の幸せを考えて提案したこの話を、黒澤は深い感謝と共に受け入れ、忍と2人して手続きを進めて来たのだ。
今朝、妃奈に署名させた書類を持って松浪邸を訪れた黒澤に、寅一は年賀の会に同じく養子縁組を披露する佐野と一緒に、堂本組長に妃奈を会わせるのが良いだろうと言った。
堂本組長の前で森田に報告する方が、妃奈を認めて黒澤との結婚を許す事になるだろうという判断だった。
全ては妃奈に内緒で、話を進めた…サプライズとして、妃奈を喜ばせたかったのだが…。
失礼しますと声が掛かり、白いブラウスにスラックス姿の妃奈が、鞄と色褪せたジャケットを抱えて座敷に姿を現した。
「疲れたかい?嫌な思いをさせちまったみたいで、申し訳なかったね」
「…いえ…他人の手垢まみれの躰です。今更、どうという事はありません」
感情のない様な顔と声で答える妃奈のその言葉に、忍の胸はキリキリと痛んだ。
「そんな事、言うもんじゃないよ、妃奈」
「……奥様…私を養女にという、お話ですが…」
「不服かい?」
「……大変ありがたいお申し出ですが…ご辞退させて頂く訳には参りませんか?」
妃奈の言葉に、隣に座る黒澤が嘆息した。
今日の妃奈の様子を見て、必ずこの養子縁組を辞退するだろうと予測出来たのだろう。
「…その事、ウチの人にも言ったんだろ?何て言ってたんだい?」
「…もう、決まった事だと…」
「なら、そういう事だよ」
「ですが…」
「何だい?やっぱり、ウチの養女になるのは、不服って事かい?」
「いえ…そういう事ではなく…」
妃奈は、忙しなく視線を泳がせる。
「…私の様な者が…こちらの様に立派なお宅の娘になど…なれる訳がありません」
「唯の極道の家だよ。それとも、極道の娘になるのは嫌かい?」
「いえ…そうではなくて……」
「言ってごらん、妃奈」
忍の言葉に、妃奈は畳に額を擦り付け、消え入りそうな小さな声で答える。
「……私と…黒澤さんの結婚話を進める為のお話でしたら…慎んでご辞退申し上げます」
頭を下げ続ける妃奈をじっと見詰めていた忍は、こめかみを押さえながらハァと大きな溜め息を吐いた。
「…馬鹿だねぇ」
「……」
「確かに、その思惑がなかった訳じゃないさ。あの頑固な森田が、自分から折れてお前達の結婚を許すとは、到底思えなかったからね。…あの男は堂本組に、自ら雁字搦めになっちまってんだよ。だけどね、妃奈…あんたを養女にって望んだのが、その理由だけだと…本当にそう思ったのかい?」
忍の苦笑に、妃奈が怪訝な表情で顔を上げる。
「情けないねぇ」
「ぁ…あの…」
「妃奈、わかんないのかい?あんたと琥珀の事が、可愛いからに決まってんじゃないか!」
「…奥様」
「ウチには、子供が出来なかったからね…以前、ウチの人が気に入って養子縁組しようとした男が居たんだよ。喧嘩も強く面構えも申し分なくて、その上頭のいい子でね…東大にストレートで合格したのさ。訳あって、ずっと学校の先輩の妹を子守りをする様な、優しい子でね…。もし、仁を養子にしてたら…ウチの組長も、嶋祢会中枢に色気を出してたかもしれないけどね…」
「…仁…というと、連城さんですか?弁護士の?」
驚いた様な黒澤の問いに、忍は自慢気にほくそ笑んだ。
「そうだよ。仁は、大学を出て検事になると言ったんだ。流石の組長も、手を退かざるを得なくてね…。だが今は、日本一の弁護士になって、実業家にもなって、子守りをしていた椿と所帯を持って幸せに暮らしてるよ。養子にはしなかったけど、あの子達は今でも私達の可愛い子供さ」
「…そうでしたか」
「それでもね、やっぱり公に認められた自分達の子供が欲しくてね。佐野とは、組の後継者の為の養子縁組だし、第一いい年をしたオッサンだ…面白くも何ともありゃしない。それに訳あって、佐野は子供が作れないのさ。それに比べて、妃奈は未々若いしね。琥珀だって、この家で産まれた子供だし、これは強い縁で結ばれてると思ったんだよ!」
「…奥様…」
「黒澤の元に戻って所帯を持つのは、喜ばしい事だ。けどね、ウチの様な生業じゃ…そうそう子供を連れては来れないだろ?だけど実家なら、どうだい?大きな顔して子供を見せに来て貰えるだろ?」
「……」
「要は、あたしが寂しいのさ…お前や琥珀と会えなくなっちまうのがね」
「…ありがとうごさいます、奥様」
平伏す妃奈に、忍が再び声を掛ける。
「これで、得心したかい?」
「…はい。しかし…」
「何だい?」
「もう少し…お時間を頂けないでしょうか?」
「……」
「琥珀は、連れて参ります!必ず、顔を見せに参りますから……今少しだけ…」
「理由を、聞こうじゃないか」
腕を組み眉を寄せる忍に、妃奈は深々と頭を下げる。
「…森田さんのお許しを…頂いてからでは、いけませんか?」
「お前ねぇ…」
「堂本の組長さんに…森田さんの謹慎中のお世話をする様にと、申し受かりました。今一度、森田さんと話が出来る様にと…チャンスを与えて頂いたのだと思います」
「…まぁ…お前が、それで納得するなら、構わないよ」
「ありがとうごさいます、奥様‼」
嘆息する忍は、チラリと眉間に皺を寄せる黒澤を流し見た。
「あんたも、何かしら言いた気だね、黒澤?」
忍の言葉に、今度は黒澤が頭を下げる。
「佐野さんの養子縁組の件…私も本日初めて知りましたが、以前より決まっていたお話しなのでしょうか?」
「漠然とは、ウチの人とも話していた事だよ。だが具体化したのは、妃奈を養女にって話を決めてからだね。何か、問題でもあるかい?」
「…些か、驚きました」
「何だい?」
「妃奈とは…年の離れた、兄妹になる訳ですね?」
「焼き餅かい、黒澤?」
「……」
「だって、仕方ないだろうさ?佐野と養子縁組しないで、妃奈だけを養女にしたら……跡目を継ぐ佐野と妃奈を、夫婦にしなくちゃなんないだろ?いいのかい、それで?」
「それは…」
「元々ウチの人は、佐野に妃奈を娶らせ様と考えていたのさ。そうすりゃ、佐野の跡を琥珀に託せるからね。だが妃奈が未成年だった事や、あんたの存在を知って、佐野が辞退したって聞いたよ?それで、ウチの人も仕方なく諦めたんだろうさ」
「…妃奈を養女にという事は、琥珀を跡継ぎにとお考えなのでしょうか?」
「全く考えてない…って事は、ないだろうね」
「……」
「だがそれは…本人次第なんじゃないかねぇ?この商売、血縁ややる気だけでは、どうしようもない物があるからねぇ…」
松浪夫人の言葉に、黒澤は安心した様に嘆息した。
「今一つ…伺いたい事がございます」
「何だい?」
「妃奈を養女にする件…嶋祢会長は、ご存知なのでしょうか?」
「…いや、まだ言ってないと思うよ?」
「それでは、蝶子さんもまだ…」
「あぁ、その事なら心配ないよ。佐野が妃奈を女として見ないなら、蝶子が突っ掛かって来る事はないだろうさ。妹となりゃ、確実に範疇外だろうしね」
「しかしあの折の、蝶子さんの非道を思えば…又、妃奈に酷い仕打ちをしないかと…」
ビクリと身を竦める妃奈を気遣いながら、黒澤は忍に真剣な眼差しを送った。
「安心おし!ウチの娘になるって事は、蝶子なんぞに…いや、嶋祢会長にも絶対に手も口も出させないって事だからね‼」
ニイッと口端を引き上げ、忍は締めていた帯を扱いた。
『羽織芸者風情がっ!?』
そう罵られ、置屋の階段から突き落とされた屈辱が甦る。
若かりし頃、芸に於いても人気に於いても一番の辰巳芸者だった自分を、2人の極道が気を引こうと競い合っていた。
知略に優れた色男と、仁義を尊ぶ豪胆な男…幼馴染みでもある2人の極道の座敷に揚がる『菊千代』と呼ばれていた自分が、どちらのモノになるのか…深川は、その話題で持ちきりとなっていた。
やがて色男だった嶋祢千太郎と懇ろの仲になり、身請け話が取り沙汰される頃、酷く体調を崩し何日も床に臥る日が続いた。
医者の見立ては、妊娠3ヶ月…今で言う妊娠悪阻だった。
千太郎に知らせ様としたが、どうしても連絡が付かない。
そんな折、千太郎の父親…先々代の嶋祢組長が置屋に現れ、目の前に風呂敷に包んだ札束を積み上げたのだ。
「これで、倅との仲を精算して貰いたい」
「何を仰ってるんです、組長さん?」
「先日、倅の縁組みが調った」
「…千太郎さんは、承知なさったんですか?」
「この縁組みで、嶋祢の力は磐石な物となる。倅の意見等、必要ない。唯、邪魔なモノは排除しておきたい」
そう言って、まるでゴミでも見る様に見下され、私はカッと頭に血が上った。
「何言ってんだい!?千太郎は、あたしを嶋祢組の姐にすると言ったんだよ!」
「倅の寝物語を聞きに来た訳ではない。それに、お前だとて…客との艶話を真に受けるとは、辰巳芸者の名が泣くぞ」
「芸は売っても、身は売らぬ…あたし達辰巳芸者は、それを誇りにしてんだよ!身を任すのは、心底惚れた男にだけさ!馬鹿にするのも、大概におしっ!」
そう嶋祢組長と睨み合い、下腹に手を当てて言い放った。
「それにね…あたしのお腹には、千太郎の子供が居るのさ!次代の嶋祢組長がね‼」
「…その子供は、処分して貰おう」
「何だって!?」
「その子は、災いの元になる。その分の慰謝料は上乗せしてやる。医者に行って、さっさと処分して来い」
そう冷酷に告げ、踵を返す嶋祢組長を廊下迄追い掛けて、私は組長の袂を掴み、持参して来た札束を押し付けた。
「馬鹿におしでないよ!」
「離せ、置屋の女将も承知している話だ」
「卑怯だよ!女将さんにも、ごり押ししたんだね!?」
「離せと言っている」
「この子は、絶対に産んでみせるよ!千太郎だって、きっと…」
縺れ合いながら階段手前の廊下で争う内、嶋祢組長が羽織の袖を振りほどき、私の躰を突き飛ばした。
「羽織芸者風情がっ!?」
一瞬、何が起きたか…わからなかった。
階段の上に立ち、自分を憎々しげに睨む千太郎の父親の眼。
花弁の様に美しく宙に舞う、無数の一万円札…。
絹を裂く様な芸妓達の悲鳴と、名前を叫ぶ女将さんの声…。
意識を取り戻した時告げられたのは、子供が流れてしまった事と…二度と子を成せなくなった事。
数日後、顔に幾つもの痣をこしらえた嶋祢千太郎が見舞いに来た。
「…どうしたんだい、その顔?色男が、台なしじゃないか」
「……」
「親父さんにでも、殴られたのかい?」
「……いや…寅にな…」
幼馴染みで恋敵の松浪寅一の名前を上げると、嶋祢千太郎は深々と頭を下げた。
「…済まない、菊千代」
「それは…どういう意味の謝罪なんだい、千太郎?」
「……」
「父親の事かい?」
「…それもある」
「子供の事かい?」
「……」
「はっきりお言いな、じれったい‼」
「……お前との、夫婦約束の事だ」
ベッドの横で項垂れる嶋祢千太郎の言葉を、私は最後迄言わせなかった。
「…仕方ないね」
「菊千代…お前…」
「結婚するんだろ?」
「……」
「いい所の、お嬢さんなんだね?」
「仙台の…大きな組の一人娘だ」
「…そうかい」
「済まない」
「…結婚しても、こっちで住むのかい?」
「いゃ…仙台の組を継いで…何れは、嶋祢組に吸収する事になるだろう」
「そりゃ良かった!しばらくは、あんたの顔を見ずに済むって事だね」
精一杯の強がりを言って顔を背ける私に、嶋祢千太郎が絞り出す様な声を掛ける。
「…菊千代」
「……」
「今後…お前やお前の家族には、嶋祢の人間は、指一本触れさせない」
「……」
「書き付けにして持参した…受け取って欲しい」
「…勝手に置いて行きなよ」
枕元に書き付けを置くと、嶋祢千太郎は黙って頭を下げ出て行った。
「千太郎が来たのか?」
時を置かずにそう言って現れたのは、入院翌日から日参する松浪寅一だった。
「…寅」
「何でぃ?」
「千太郎の事、殴ったって?」
顔をしかめた寅一は、持参した果物籠から林檎と甘夏を取り出し、私に向かって突き出した。
「千太郎の顔が、あんたみたいになったら、どうすんだい?」
私が甘夏を受け取りながら睨むと、寅一は残った林檎をガブリとかじりながら眉を寄せた。
「あんな腫れなんざ、怪我の内にも入らねぇ」
「手加減したのかい?」
「そんな訳、ねぇだろ!?」
「……」
「菊千代」
「何だい?」
「ウチに来ねぇか?」
「又、その話かい?しつこい男だね!」
「……」
「あたしゃ、あんたと千太郎を天秤に掛けて、袖にした女だよ!?男としてのプライドって物が、ないのかい!?」
「ねぇな」
あっさりと言ってのける男は、林檎をかじりながらガハハと笑い声を立てた。
「袖にされようが、他の男に取られようが、俺は菊千代に心底惚れちまってるからな」
「馬鹿におしでないよ!」
「馬鹿になんかしてねぇさ。それに、競って負けたのは千太郎だ。無理もねぇ」
シャリシャリと林檎を芯迄食べ切ると、寅一は私の手から甘夏を取り上げ、器用に皮を剥くと一房を自分の口に放り込み、残りを皮の上に乗せて私の手に戻した。
「…聞いたんだろ?」
「何が?」
「あたしは…もう、子が産めないって…」
「聞いた」
「なら、駄目だろうさ?あんたは、もう組を継いで、松浪組の組長なんだよ!?」
「それが?」
あっけらかんと尋ねて来る寅一に、こめかみの奥が痛くなる。
手練手管で女をその気にさせて惹き付ける千太郎に対し、寅一は馬鹿正直に臆面もなく好意を口にする。
その言葉に度々ペースを乱され、ドキリとする事はあったが、結局自分はスマートに導いてくれる千太郎を選んだというのに…。
「あんた、馬鹿じゃないのかい!?組の跡継ぎは、どうすんだい!」
「そんなもん、何とかなんだろ?」
「はぁ?」
「そんな事より、俺は、おめぇに嫁に来て貰うと決めてんだ!」
「…あんたと話してると、頭が痛くなるよ…」
そう言って布団を被ろうとした腕を掴まれ、寅一はニヤリと笑い、顔を覗き込んで来る。
「どうすればいい?」
「何が?」
「どうすれば、おめぇは嫁に来てくれる?」
「何寝惚けてんだい!?一昨日おいでな‼」
「俺は、真剣だ。何なら、百日通いでもするか?」
「馬鹿言ってんじゃないよ!濁流に飲まれて死んじまいな!」
「つれねぇなぁ…俺が居なくちゃ、寂しいだろうよ?」
「寝言は、寝てから言うんだね!」
カラカラと笑いながら寅一は私を寝かせると、あやす様にポンポンと布団を叩いた。
「ちったぁ、元気になって来たみてぇだな?」
「……」
「早く、良くなれ。おめぇが居ねぇと、深川に行く気もしねぇ」
「…そりゃ、生憎だったね」
「百日通いでも、何でもしてやる。又、おめぇを口説かせろ」
「……」
冗談とも本気ともつかない言葉に、私は呆れた様な笑みを返した。
「…今度、躰に墨を入れる事になった」
「…ぇ?」
「組長としての、箔を付ける意味もあってな。それで、おめぇに似せた観音さんを彫って貰おうと思ってる」
豪快に笑いながら、良いだろうと自慢する寅一に、私はヤレヤレと頭を振った。
「だが、観音さんだけじゃ物足りねぇ。何か良い案はねぇか?」
「…いいんじゃないかい?あたしなんかじゃなく、浅草の観音様にすればいいよ」
「いや、俺にとっての観音さんは、おめぇだからな!それに対になる様な…何かねぇか?」
「……じゃあ、般若でも彫ってもらったらどうだい?」
いい加減うんざりしながら出任せを答えると、寅一は手を叩いて喜んだ。
退院して座敷に復帰すると、寅一は言葉通り百日通いを果たし、私と契りを結んだ。
出来上がった背中の刺青は、私にそっくりの観音像と、緋色の紐を靡かせた般若の面。
そして、これでもかと埋め尽くされた菊の花…。
「綺麗なもんだろ?当代一の彫り師、渾身の作だ」
「本当だ…綺麗なもんだねぇ…」
思わず刺青に指を這わすと、その手を捉えて抱き寄せられた。
「俺の嫁に来い、菊千代!この刺青は、俺の覚悟だ!」
「…言っただろ?あたしじゃ、あんたの子を産んでやれない」
「そんな事、どうだっていい!」
「そんなにあたしが欲しいなら、妾にすりゃいいじゃないか?」
「馬鹿言え!おめぇに妾なんぞ、出来る訳ねぇだろ!?」
「……」
「おめぇは、組の姐になる器の女だ!日陰者が似合う女じゃねぇ‼」
「…寅」
「大事にするぜ?おめぇを泣かせる様な事はしねぇ…床の中だけは、別だがな?」
寅一と祝言を挙げたのは、それから一年近く経ってからの事だった。
驚いた事に、祝言の席で嶋祢千太郎と再会しても、私の心は微塵も動揺しなかった。
公私共に千太郎との交流が始まり、千太郎の家族との付き合いが始まっても、それは変わらない。
唯、千太郎に子供が出来、度々我家に滞在する様になった時、千太郎が私達に頭を下げた事があった。
「…済まない…寅」
「何言ってやがる?昔の事だろ…なぁ、忍?」
「そうだよ、千太郎」
「それにな…俺は、子が出来ねぇのを承知で忍を娶った。おめぇがあれこれ思う事なんざ、何もねぇよ。それより、おめぇに申し訳ねぇとさえ思ってる」
「何がだ?」
「忍は、女としても姐としても、当代随一の女だ。言っちゃ悪ぃが、おめぇのカミさんより数段上だからな!」
「寅っ!?何言ってんだい!?」
赤くなって手を上げて怒る私に、寅一が笑いながら逃げ出した時、千太郎がそっと私に言った。
「…忍さん…あの書き付けは、まだ持ってるかい?」
「あぁ、大事にしまってあるけど…」
「約束は、必ず守らせて貰うよ」
今迄は、寅一に対してだけだった約束は、今後妃奈や琥珀、そして佐野に対しても有効になる。
妃奈が琥珀を庭の物置小屋で産んだ時、自ら琥珀の臍の緒を縛り、後産の出血を物ともせずに産湯に入れるのを、屋敷に居た全員が唖然として見守った。
妃奈は、バスタオルで包んだ息子を抱くと、初めて顔を上げ瞳を巡らせて私を捜し、縋る様に頷いた。
慌てて庭に飛び降り、産まれたばかりの小さな赤ん坊を受け取ると、安心した様に意識を飛ばす妃奈を支えながら、私がこの親子を守らなければならないと強く思ったのだ。
そう…私達は、これから…正真正銘の『家族』になる。
私の目の黒い内は、誰にも邪魔はさせない…誰にも傷付けさせない‼
私の家族は、私が守ってみせる‼




