(63) 正月2日の朝
「…申し訳…ありませんでした」
琥珀を寝かし付けると、妃奈は黒澤の前に三つ指を着いて頭を下げた。
「何を謝る?」
「……今日の…祝いの席で…」
「皆、喜んでいた」
「…黒澤さんに……恥を掻かせる積りは…なかったんですが…」
松浪夫人の言葉を気にしている妃奈の手をそっと取ると、ようやく顔を上げて黒澤の顔をオズオズと窺って来る。
「気にする事はない。元はと言えば、パーティーの人数をきちんと把握し切れなかった、俺の責任だろう?」
「…ですが…」
「人数が膨れ上がってしまったから、妃奈は追加料理に追われたんだ。でなければ、最初から会場で皆と一緒に祝っていた…そうだろう?」
「……」
目を伏せて瞳を泳がせる妃奈の手を引き寄せて、黒澤は彼女の躰を腕の中に閉じ込めた。
「……やはり…籍を入れないか?」
腕の中でフルフルと首を振る妃奈の背中を撫で下ろし、黒澤は彼女のつむじに口付ける。
「皆、それを望んでる」
「……」
「親父だって、黙認している」
「……」
「直に琥珀も大きくなり、幼稚園や小学校に上がる。『黒澤琥珀』として通わせてやりたいと思わないか?」
「…それは…」
「俺は、琥珀だけを籍に入れる積りはないぞ?」
黒澤の言葉に、妃奈はビクリと身を強張らせた。
「…妃奈」
「……森田さんは……私を嫌っておいでです」
「そうじゃない」
「……」
「妃奈がどうという問題じゃない。あれは、あの人の立場的な問題だ」
「…それでも、快くは思っていません」
「親父の気持ちが変わる事は、まずないだろう。それでも待つ積りか?」
「私は…別に、結婚出来なくても構いません」
「妃奈!?」
とても静かに語る妃奈の顔を、黒澤は眉を寄せて凝視した。
まだ、妃奈は自分から離れ様と考えているのだろうか?
琥珀を置いて、独りで出て行く積りなのだろうか?
「……大丈夫ですよ」
「…ぇ?」
「もう、どこにも行きません」
「…本当か?」
「琥珀にも…黒澤さんにも、もうあんな思いはさせません」
「妃奈…」
「黒澤さんと森田さんとのわだかまりが溶けて、本当に良かった。森田さんは、琥珀の事も孫だと認めて下さり、誕生祝いにも参加して下さいました。それで十分じゃありませんか?」
「お前…この先も、親父が参加する行事には、顔を出さない積りなのか?」
「…松浪の奥様には、叱られてしまうかもしれませんが…折角家族が集まる席に水を差す様な事は…やはり、私には出来ません」
「それじゃ、意味がないだろう!?」
黒澤の不機嫌な声に、妃奈はビクリと震えて胸に下げた鍵を握り締めた。
「だから…私は、黒澤さんと結婚しなくても…」
「妃奈は、家族だ!俺と琥珀の、家族なんだぞ!?」
「……一緒に居るだけじゃ…駄目ですか?」
「それじゃ、お前は家族だと認識しないんだろう!?」
「……私は…黒澤さんと琥珀の傍に居られたら…それで十分なんです」
そう言って胸に擦り寄ろうとする妃奈の躰を、黒澤は無理矢理引き剥がす。
そして、驚いた様に見上げる妃奈に詰問した。
「お前…本当は、俺との結婚を望んでないんじゃないか!?」
「……」
「どうなんだ、妃奈!?」
黒澤の言葉に、妃奈は悲しそうな表情を浮かべて項垂れた。
「妃奈!?」
「……私は…」
言い掛けた言葉を呑み込もうとする妃奈に、黒澤は嘆息し自分の頭を冷やした。
「激して済まない。唯、お前の本当の気持ちが知りたいだけだ」
「…憧れは…あります」
「……」
「でも…自分が…結婚するという事が……想像出来ない…」
「そんな事は…」
「そうじゃない……怖いんです…私…」
「妃奈」
「きっと、何もかも滅茶苦茶になる!今迄あんな生活をして来た私なんかが、人並みな結婚なんて…出来る訳がないんです!黒澤さんにも、琥珀にも、きっと迷惑を掛けて、疎まれて…」
息を荒げて妄想する妃奈を抱き締め、黒澤は労る様にその背中を撫で下ろした。
自己否定の激しいAPDの症状は、不意に現れ妃奈を暗闇に引き摺り込む。
「大丈夫だ、妃奈…俺が居る。俺が、全て教えると言っただろう?」
「でも…」
「俺を守るんだろう、妃奈?」
「…はい」
「俺と琥珀を、幸せにしてくれるんだろう?」
「勿論です」
「なら、俺に任せろ」
「でも…」
「大丈夫だ。お前が気掛かりに思っている事は、わかったから。悪い様にはしない…俺に任せろ。いいな?」
腕の中で頷く妃奈の顎を捕らえ持ち上げると、黒澤は彼女の濡れた睫毛に唇を落とした。
堂本傘下の組の組長は、毎年正月2日に百人町の堂本組長の屋敷に集まり、年賀の会に出席する。
新しく代替わりした組長や若頭も出席し、他の組長達に顔を繋ぐ事になっているらしい。
とはいえ、黒澤の様な組弁護士が出席する事等はないのだが、今年は堂本組長に年賀の会の前に自宅に来る様に呼び出され、黒澤は朝からモーニングに袖を通した。
妃奈は何も言わず、甲斐甲斐しく黒澤の世話を焼いている。
「多分、夕方前には終わるだろう」
「……そうですか」
「どうした?」
「…あの時の…騒ぎの事で、堂本組長に呼び出されたと聞きました」
「誰から聞いた?」
「先日、松浪のお屋敷で…それに昨日も、栞さんと、小塚さんが話していらっしゃるのを聞いて…」
心配そうにこちらを窺う妃奈に、黒澤は何でもない様に振る舞った。
「…大丈夫なんですか?」
「心配ない。堂本組長に渡さなきゃならない物があるだけだ。堂本宅に行くのは、午後からだが…そんなに、掛からないかもしれない」
「午後から?少し、準備が早いのではありませんか?」
「その前に、少し寄る所がある。それより妃奈、ちょっとここに座ってくれ」
黒澤はそう言って、書斎机の椅子を引いた。
不思議そうな表情を浮かべた妃奈が椅子に座ると、手入れされた美しい銀髪がサラリと背もたれに掛かる。
その髪を掬い上げて口付けると、妃奈は恥ずかしそうに俯いた。
「やはり、美容院に行って手入れすると綺麗なものだな」
「……もったいないです…」
「そんな事はない。これからはそう言わずに、ちゃんと手入れに行けばいい」
「黒くした方が、良かったでしょうか?」
俯いていた妃奈の大きな瞳が黒澤を上目遣いに見上げると、黒澤の喉がグゥと音を鳴らした。
妃奈が帰宅して以来、服の上から抱き締めてキスをする事はあっても、直接に肌を合わせた事はない。
琥珀の世話を言い訳に、妃奈は黒澤の誘いをずっと拒み続けている。
それは、森田組長に結婚を反対されている、彼女のケジメなのだろうが…。
妃奈を頭からかぶり付きたい衝動を何とか押さえ込み、黒澤はわざと大きな咳払いをした。
「黒澤さん?」
「いや…この色の方が、俺は好きだ」
「そうですか…良かった」
安堵した様な妃奈の前に、黒澤は数枚の書類を並べた。
「…此所と…此所に…サインして、捺印してくれ」
「これは?」
所々付箋で隠された書類を前に、不思議そうに妃奈が質問すると、黒澤は極力静かな声で話し掛けた。
「……妃奈は、高橋の姓に思い入れがあるか?」
「え?」
「結婚前に、他の姓になるのは嫌か?」
「…いぇ…別に構いませんが…何故ですか?」
「……直にわかる。俺を信じて、サインしてくれ」
黒澤の言葉にしばらく怪訝な表情を浮かべていた妃奈は、意を決した様に黒澤から渡されたペンを走らせ、用意された印鑑を捺す。
数枚に渡るサインを確認すると、黒澤は満足そうに書類を封筒に納め、モーニングの内ポケットに入れながら言った。
「今日の夜は、2人で出掛けないか?」
「2人で…ですか?」
「朝食の後、栞が言ってくれた。琥珀の事は任せて、一緒に出掛けないか?」
「……」
「嫌か?」
「いぇ、そういう訳ではありませんが…急に、どうしたんですか?」
「…妃奈と2人で出掛けた事など、今迄なかっただろう?」
「そうでしたか?」
「……」
「そんなに、気を遣って頂かなくても…」
そう困った様な表情を見せる妃奈の手を、黒澤は包み込んだ。
「そうじゃない」
「……」
「嬉しくは…ないか?」
「いえ…唯…」
「何だ?」
「私は…こちらで生活させて頂くだけで、本当に幸せなんです。ですから、特別な事をして頂かなくても…」
「お前、幸せが何か…わかる様になったのか?」
「…わかります」
消え入りそうな声で答える妃奈は、椅子から立ち上がり、黒澤から逃げる素振りを示す。
「…私は…黒澤さんと琥珀の……傍にさえ居られたら、幸せなんです!」
少し息を弾ませながら妃奈はそう言い切ると、足早に部屋のドアに向かおうとした。
その妃奈の腕をパシリと掴み、黒澤は妃奈の背中に語り掛ける。
「逃げるなと言っただろう?」
「…逃げてません」
「準備をして、待っていてくれ」
「……」
「…俺が、妃奈と2人で出掛けたい…駄目か?」
妃奈はゆっくりと振り向き、黒澤を仰ぎ見ると小さく首を振った。
「…わかりました。お待ちしています」
黒澤が出掛けるのを見送ると、妃奈は大きな溜め息を吐いた。
「どうしました?大きな溜め息ですね?」
「…黒澤さんが…2人で外出しようと仰って…」
妃奈の答えに、栞はにこやかに笑い掛ける。
「やはり、誘われたんですね?今朝その話をしたら、坊っちゃんとても嬉しそうにしてらしたんですよ」
「……」
「もしかして、お断りになったんですか、妃奈さん?」
栞の怪訝な表情に、妃奈は静かに首を振った。
「了承…させられました」
そう答えた妃奈に、栞は驚いた様に目を見開く。
「お嫌だったんですか?」
「いえ…そうではなくて……栞さんにも、ご迷惑を掛けますし…」
「それは、栞が言い出した事です。琥珀君の事は、心配ありませんよ?」
栞の言葉に、妃奈は眉を寄せた。
以前は囚われる事に嫌悪感を剥き出しにしていた妃奈だが、今ではすっかり外出嫌いになっていた。
浅草に居た頃も、ストールで髪と顔を隠す様にして外出し、用事が終わると飛んで帰った。
世間から否応なく曝される、無遠慮な視線…目立たぬ様にひっそりと生活していても、目を引いてしまうこの容姿は、人々の奇異な視線を集めてしまう。
自分だけならまだいい…一緒に外出する事で、黒澤迄妙な視線に曝されるのは堪えられない。
「黒澤さんは…何故私と出掛けたいなんて思うんでしょうか?」
「え?」
「私なんかと出掛けたって…嫌な思いをするだけなのに…」
溜め息を吐きながら呟く妃奈に、栞は不思議そうに言葉を掛ける。
「坊っちゃんは、妃奈さんとデートしたいんだと思いますよ?」
「…デート…ですか?」
「えぇ。恋人同士なら、当たり前の事でしょう?」
恋人同士なら、一緒に出掛けるのは当たり前の事…だから黒澤は、嬉しくはないかと聞いたんだろうか?
「今日の堂本組長からの処分が決まれば、本当に一段落着きますからね。さて、その処分が、どの程度の物になるのか…」
「黒澤さんは、心配ないと仰ってましたが?」
「なら、いいんですけどねぇ…」
栞の心配顔に、妃奈の胃は冷たくなった。
黒澤の書斎に駆け込むと、充電していた自分の携帯を開き、掛け慣れた番号を押して耳をそばだてる。
程無くして出た相手は、寝起きなのか不機嫌な声で受話器に出た。
「…又、お前か……今度は、何の用だ?」
「お休みの所、申し訳ありません。今日、黒澤さんが堂本組長に呼び出されている事は、ご存知でしょうか?」
「…承知している」
「どんな処分がされるのかも、ご存知なんですか?」
「…いや、それは聞いていない」
少し掠れた様な声で答える森田組長の電話から、水道の流れる音に続き冷蔵庫を開けた様な音がする。
黒澤の母親である陽子さんが亡くなって以降、森田組長は独身を貫いて来たらしい。
年末31日、妃奈は栞と一緒に作ったお節料理を森田組長に差し入れた。
妃奈が以前ねぐらにしていた場所に建つツインビル…まさか、そのビルが森田組の持ちビルで、森田組の事務所も森田組長の自宅も、この場所にあるなんて思いもしなかったが…。
琥珀と共に初誕生の内祝とお節料理を持参した妃奈に、森田組長は眉を上げただけで、何も言わずに両方の品を受け取った。
もしかしたら、お節料理の方は受け取って貰えないのかもしれないと思っていた。
受け取って貰えたとしても、捨てられてしまう可能性が高いだろう。
それでも妃奈が森田組長に接触するのは、少しでも自分の事を認めて貰える努力をしようと決心したからだ。
黒澤には任せろと言われたが、自分と森田組長の問題だ…黒澤の為にも、出来れば自分で何とかしたかった。
「何なんだ、一体…又、黒澤を守れとでも言いたいのか?」
「お願い出来ませんか?」
「そもそも、黒澤があんな事をしでかしたのは、お前のせいだろう!?」
「そうです。ですから、罰なら私が…」
「馬鹿な事を!!」
電話口で森田組長の叱責が飛び、妃奈はビクリと首を竦めた。
「今更そんな事が、出来る筈ないだろう!」
「……」
「それに、これは黒澤の問題だ。事情がどうあれ、堂本組長を脅したのは、黒澤自身がやった事だ」
「……」
「お前の為に、黒澤がどんな罰を受けるのか…お前は、黙って見ている事だ!」
森田組長はそう言うと、妃奈の答えを待たず、唐突に電話を切った。




