(21) パーティー
久し振りに妃奈が外出するというので、夕食は外食にしようと思い、夕方会合が終わって直ぐに妃奈の携帯にメールを入れた。
すると一言、『家』と返信されて来た。
今日は新宿中央公園に行った後、秋冬物の洋服を買いに行く様に小塚に言って置いたのだが…。
直ぐに小塚の携帯に電話を入れた。
「小塚か?…妃奈は、もう家に戻っているそうだが?」
「はい。公園に行き、ホームレスの男性と少し話をした後、美容室に行きました。昼食後買い物に出たのですが、余り体調が思わしくない様でしたので…最低限の買い物しかしておりません」
「…そうか。公園では、どんな話をしていた?」
「それが…人払いをされてしまいましたので、話の内容迄はわかりかねます。唯、相手の男性は、所長の事をご存じの様でした」
「俺を?ホームレスに知り合いなんぞいないぞ?」
「松岡渉と名乗られました。近い内に、訪ねて頂きたいという事です」
「松岡?…心当たりがないが…」
「高校時代の天敵…というお話でしたが?」
「……あぁ…アイツか。妃奈と親しかったのか?」
「さぁ…高橋さんは、何もお話にはなりませんので、わかりかねます」
「…そうか。休みの日に、ご苦労だったな」
電話を切ってそのまま自宅に戻ると、薄暗いリビングのソファーに幾つもの紙袋が投げ出してある。
妃奈はいつもの様に床の上に座り込み、ソファーの座面に頭をもたげる様に微睡んでいた。
美容室に行ったと言っていた…銀髪に近い艶やかな髪が美しく、思わずサラサラとした髪を撫で梳いてやると、妃奈の眦に涙の跡を見付け…その瞬間、黒澤の頭にカッと血が上った。
誰だ!?
誰が泣かした!?
妃奈の躰に覆い被さる様にして、彼女の肩を揺すり起こす。
「妃奈!?妃奈‼」
「……?」
うっすらと目を開けた妃奈が、機嫌の悪い黒澤に怪訝な眼差しを寄越す。
「誰だ!?誰が、お前を泣かせた!?」
「……何?」
「誰なんだ、妃奈!?答えろ!!」
「…黒澤?何言って…」
「公園で会った、松岡なのか!?何かされたのか!!」
黒澤の剣幕に怯えた様な表情を見せながら、妃奈は頭を振った。
「じゃあ小塚なのか!?何か嫌味を言われたのか!!」
「…違う…小塚さんは、何も…」
「妃奈ッ!!」
押し倒しそうな勢いで妃奈を抱き締めると、腕の中でヒッと怯えた様な叫び声を上げられ、黒澤は慌てて腕を緩めた。
「……済まない」
「……いいけど…何かあったのか?」
少し逃げ腰で上目遣いに睨まれ、黒澤は溜め息を吐いた。
「…泣いてたのか?」
「ぇ?」
「涙の跡が…」
親指で妃奈の眦をグイッと拭うと、妃奈はフィッと外方を向いて剥れてみせる。
「……別に」
「いつもそうだ…お前は、俺には何も言わない」
「…だからって、アンタがキレる理由にはならないだろ?」
「…」
「アタシが泣こうが笑おうが…アンタに関係ないじゃん」
「…笑った事…あったか?」
「何?」
「お前…ここに来て、笑った事等ないだろう?」
不満気な黒澤の言葉に、妃奈は嘲る様な吐息を漏らした。
「当たり前だろ?何か楽しい事なんかあった?」
「……」
「それに…アタシが覚えてる限り、笑った記憶なんてないよ」
「……一度も?」
「……ぁ…1回だけあるか…ラブホの中でクスリ打たれて犯られた後、死ぬ程苦しくなって…躰中の孔から血が溢れて…止まんなくなってさ。ベッドも血塗れになって…。男共はビビって逃げちまうし、ラブホの人間には怒鳴られるし、警察も来て病院に運ばれてさ。……もう駄目だって思ったのに、アタシ生きててさ…あの時は、笑ったよ…声上げて笑って…」
妃奈の躰をそっと包む様に抱き込んで、頭と背中を撫でてやる。
「…そういう時は、泣いていいんだ…妃奈…」
「……」
「今から楽しい事、嬉しい事…俺が沢山教えてやるから」
「…いいよ…そんな資格ないし…」
「人が幸せになるのに、資格なんか必要ないんだ…妃奈だって、ちゃんと幸せになれる」
「……いいんだ…本当に…期待しても、辛いだけだろ?」
気持ち良さそうにホゥと溜め息を吐いて、妃奈は黒澤の胸に身を預けた。
「…黒澤は、温かいな……少しだけ…こうしてていいか?」
「あぁ…ずっと抱いててやるから」
「…少しでいい……疲れたんだ…何もかも……少しだけ…」
そう言って、妃奈はスゥと寝息を立てた。
「ネェさん、料理の準備はもぉええんでっか?」
「全部済んだわ。デリバリーと新しく厨房に来た人達が、全てやってくれたわよ…会場は?」
「準備万端や!!後は、主役の登場を待つばかりですわ!!」
田上のはしゃぐ声に、磯村弘美は眉を寄せた。
妃奈が来てからというもの、田上も小塚も『妃奈ちゃん』『高橋さん』と事ある毎に彼女を気遣う。
一番腹立たしいのは黒澤だ…時には、仕事そっちのけで妃奈を構う。
知り合いの娘だと言うが、黒澤の態度を見ていると、明らかに惚れた女を追い掛けている様にしか見えない。
大学時代付き合っていた時も、あんな風に追い掛けて貰った事等ない…追い掛けるのは常に磯村の方だったし、あの男はいつも醒めた態度しか取らなかった。
…今更縒りを戻そうなんて考えてはいない。
だが、いつでも…他の女と付き合っている時ですら、黒澤の一番近くに居るのは磯村だったのだ。
それなのに…。
まだ、互いに恋愛感情があると公言してくれた方がマシだ。
だが、あの無愛想な妃奈という娘は、迷惑だと言わんばかりに黒澤の元から逃げまどい、黒澤に至っては、彼女は子供だと言って自分の感情に気付かない振りをする。
「わかってないのかしらね、あの男は…」
黒澤が仕事モードで話しているのか、そうでないのかは直ぐにわかる。
本人は気付いてないのかもしれないが、一人称が変わるのだ。
弁護士の仕事として話す時には、クライアントの前でなくても一人称が『私』になるが、プライベートな事になると一人称が『俺』になる。
あの日…彼女への気持ちを聞いた時、黒澤は『俺』と言った…そして、磯村の反撃に即答する事が出来なかった。
「…自分でも気付かないあやふやな気持ちなら…今の内に断ち切った方がいいわよ…」
妃奈の親戚だと名乗る人物から連絡があったのは、1ヶ月程前の事だった。
度々黒澤に連絡を入れるが、取り合っては貰えないという事で話を聞くと、妃奈に面会し、是非引き取りたいと言う。
親戚が引き取りたいと言うのを拒み、面会もさせないというのはどういう事だろう?
彼女を引き取って3ヶ月…外出させたのは、唯1度だけ…然も休日に、小塚ばかりか派遣部の人間が4人も同行したと聞いて、磯村は驚きの声を上げた。
「馬鹿じゃないの!?どこの皇族よ!」
「…仕事ですから」
事もなげに言う小塚を従えた黒澤は、眉ひとつ動かさず書類に目を通していた。
…駄目だ…早く引き離した方がいい……決心した磯村は、ある計画を立てた。
「あの娘はまだ?もうじき時間でしょ?」
「さっき小塚はんが自宅の方に行ったら、又裏庭で穴掘ってたらしくて…」
「全く…何やってんだか…」
最近妃奈は、裏庭に大きな穴を掘る事に夢中になっているらしい。
無愛想な上に奇行迄…一体黒澤は、あの娘のどこに惹かれているのだろう?
時間ぎりぎりになって現れた妃奈は、黒澤に恭しくエスコートされて現れた。
いつものジーンズにTシャツという出で立ちではなく、ペールブルーに濃紺のパイピングをあしらった清楚なワンピース姿…何より、美容院にでも行ったのか、艶やかな銀髪がミディアムボブに切り揃えられ、彼女の肌と大きな目を際立たせている。
隣で田上が口笛を吹くと、エスコートして来た黒澤が満足気に磯村に視線を寄越した。
「えぇ~…それでは、そろそろ始めたいと思います。本日は、高橋妃奈さんのバースディと、ちょっと遅なりましたがウェルカムパーティーを兼ねております!まず始めに…所長からご挨拶して貰いまひょか?」
司会の田上がそう呼び掛けると、『Welcome & Happy Birthday!!』と書かれた横断幕の前に黒澤が進み出た。
「今日は、妃奈の為にパーティーを開いてくれた事に感謝する。既に知っている者も居ると思うが、妃奈は私の知人の娘で、この夏から私の元に引き取って生活している。今後もここで生活する事になるので、宜しく頼む」
黒澤が軽く頭を下げると、スッと左手を妃奈の方に差し出して傍に呼び寄せた。
「ほんなら、本日の主役…高橋妃奈ちゃんに、一言頂きます」
黒澤に背中を押され、妃奈は皆に向かって一礼する。
「…高橋…」
「妃奈、もっと大きな声で…」
蚊の鳴く様な声で挨拶しようとする妃奈に、黒澤が優しく声を掛けた。
「…高橋妃奈です。今日で18になりました。本日は、パーティーを開いて頂き…ありがとうございます。今後とも、宜しくお願い致します」
チラリと隣の黒澤を見上げ、彼が満足そうに頷くのを見ると、妃奈は再び深く頭を下げた。
「それでは皆さん、グラスを手に取って下さい…乾杯のご発声を木下先生にお願いします」
この事務所で一番年輩の木下弁護士が会釈をしながら出て来ると、シャンパングラスを掲げた。
「高橋妃奈さんの18歳のお誕生祝いと、フェニックス弁護士事務所の益々の発展を祈念して…乾杯!!」
「カンパーイ!!」
あちらこちらでグラスを合わせる音が響き、ボンヤリとジュースのグラスを持った主役に、黒澤が笑顔でグラスを合わせた。
「それでは、ご歓談下さい…」
田上が言った途端、若い事務員達は歓声を上げて皿を手に取り、テーブルの料理に群がった。
「立食形式で正解だったみたいね?」
「妃奈、料理は?何が食べたい?」
甘く尋ねる黒澤に、妃奈は無表情で首を振る。
「私が、適当に見繕って来ましょう」
小塚が空かさず料理の元に向かった。
「お前、今朝も牛乳一口しか飲んでないだろう?まだ、気分が悪いのか?」
「何?調子悪いの?」
磯村の問いに、黒澤は妃奈の前髪を上げて自分の額を彼女の額に付けながら答える。
「ずっと微熱が下がらない…ちゃんとベッドで休まないからだぞ?」
臆面もない黒澤の行動に、料理に群がった面々迄もが息を呑んで見守った…が、額を付けられた妃奈の方は、顔をしかめて背けると黒澤の胸を押し戻した。
「パーティーの日取りはわかってた筈でしょう?体調管理も出来ないの!?」
磯村の言葉にムッとする黒澤の隣で、妃奈がボソッと呟いた。
「…祝う気もない癖に…」
「何ですって!?」
「…本音だろ?」
あの日…珍しく泥酔した黒澤の肩を担いで自宅に運んでやった。
玄関のドアを開けた妃奈は少し目を見張ったが、何事もなかった様に黒澤の腕を肩に回して、後は任せろとでもいう様な態度を見せたのだ。
一緒に住んでいるのは自分だとでもいう様なその態度に…今迄決して女を自宅に入れた事のない黒澤のテリトリーに入り込んで平然としているその姿に、女としてのプライドに火が点いた。
「いいわよ…一緒に運ぶわ。寝室は?」
「…2階」
2人で肩を担ぎ、何とか黒澤をベッドに寝かせた。
「悪いけど、水持って来てくれる?」
「…わかった」
妃奈が部屋を出ると、磯村は慌てて黒澤のスーツを脱がせ、Yシャツのボタンを外し、ベルトを緩め…自分のジャケットとブラウスを着崩した。
そして、ミネラルウォーターのペットボトルを持って戻った妃奈に、黒澤に馬乗りになったまま言ったのだ。
「悪いんだけど、少し2人にして貰えない?」
「……」
「わからないの?今からは、大人の時間なのよ」
妃奈はベッドの上でYシャツをはだけた黒澤にチラリと視線を向け、磯村にペットボトルを投げて寄越した。
そして廊下に落ちていたストールを掴むと、階段を降り…玄関を出て行ったのだ。
それからは…散々な1日だった。
黒澤は甘ったるく妃奈の名を呼び、額に口付けながら抱き締めて撫であやし…磯村が挑発しても、決して手を出そうとはしなかった。
おまけに昼近くに起きた黒澤には、散々な言われ様で…。
後日、妃奈はその日は一晩中外で過ごしたと聞いたが、元々ホームレスなのだから何て事はないだろうに…小塚からも又、散々嫌味を言われたのだ。
「止めないか、2人共」
低い声で黒澤が制すと、2人は互いにフィッと外方を向いた。
「磯村…何故そんなに妃奈に突っ掛かる?」
「……」
何故私が責められるのよ!?
そんな思いが鎌首をもたげた時、警備部の人間が磯村に来客を告げた。
よしっ、これで形勢逆転だ…磯村はいそいそと事務所のエントランスに向かい、来客を伴いパーティー会場に戻った。
「これは、これは…盛大なパーティーですね!」
「本当に!それで?主役のあの娘は、どこにおりますの?」
磯村が横断幕の方を示すと、4人の男女は案内もなしに娘の前に進み出た。
「妃奈さん?貴女が、高橋妃奈さんね!?」
「いやぁ、ようやく会えた…私達は、君の…」
言葉を繋ごうとする来客と妃奈の間に、黒澤がズイッと躰を割り込ませた。
「何なんですか!?貴殿方をお招きした覚えはないが!?」
「これはこれは、黒澤先生…私共が度々お願いしているのに、貴方が一向に取り合っては下さらないのでね…」
「磯村先生にご相談したんですよ。そうしたら、妃奈さんの誕生パーティーを開くと伺って…ご招待頂いたんです」
黒澤の憎々し気な視線が磯村を射る。
「何故駄目なの?この方々は、彼女の親戚でしょう?」
いくら保護者として引き取っていると言っても、親戚との面会を拒む理由がわからない…それに何故、自分があんな視線を向けられなければならない?
「鶴岡さん、清水さん…ここでは何ですから、所長室でお話をお伺いします」
黒澤の言葉に、田辺が来客達を奥の所長室に誘導したが、若い来客達の方は手を振ると会場に居座った。
「俺達が行っても、退屈なだけだしな…なぁ、文彦?」
「そうですね。話し合いは、母と伯父に任せます」
金髪の若者の呼び掛けに、文彦と呼ばれた若者は眼鏡を中指で擦り上げながら答えた。
「……後を頼む、小塚」
黒澤は、不安気に見上げる妃奈の肩を両手で掴み、小塚に託した。
「大丈夫だ…妃奈が心配する事は何もない」
「…黒澤?」
若者2人に敵意の籠った視線を向け、黒澤は口を引き上げて大きな犬歯を剥き出しにして言い放つ。
「妃奈に仇為す者は、誰であっても許さないと言う事だ!」
…何…それって、私にもって事!?
慌てた磯村は、踵を返して所長室に向かう黒澤の背中を追った。
「黒澤!!私も立ち合うわ!」
「…来るな」
「ぇっ?」
所長室に向かう通路で、黒澤は磯村を振り返る事なく言った。
「私の意向は、伝えて置いた筈だ」
「…黒澤」
「お前の弁明は、後でゆっくり聞かせて貰う…」
ギリッという歯軋りの音に、磯村の背筋は凍り付いた。
…黒澤は、本気だ…本気で怒っている!!
「黒澤ッ!?」
縋り付こうとした手をバシッと払い、磯村に視線も寄越さずに、黒澤は所長室に入って行った。




