(10) 台風
名刺に書かれた住所を頼りに、妃奈は『フェニックス弁護士事務所』を探しあて、今日も大きな鉄の扉の前に座り込んでいた。
今日こそは、取り返してやる!
何度訪ねても不在だと追い返され、挙げ句アポイントを取っていなければ会う事は出来ないと、毎回警備員に門前払いを食らう。
沸々とした怒りだけが、気だるい躰を支えていた。
何度か黒澤の乗った車を見掛けた…張り込んで居ると、夜に帰って来るとそのまま事務所の門から出る事はない。
夜中でも警備員が見廻りをしている…どうやら黒澤はここに住んでいて、警備の奴等も常駐している様だ。
これでは、忍び込むのは無理だ…本人が出て来た所で捕まえて、問い質すしか手はなかった。
やっぱり、ヤクザと連んでいる悪徳弁護士なんだ…だから、警備の奴等に守られないと生活出来ないんだ…。
夜中から降り始めた雨は激しさを増し、風は勢いを強めた…台風が近付いているのだ。
台風のせいなのか、休日だからなのか…いつもの時間になっても、弁護士事務所の鉄の扉が開く気配はなかった。
火照った躰には、冷たい雨は心地良い。
妃奈は扉に凭れたまま、静かに目を閉じた。
「ちゃんと、お墓参りにも行って下さいよ、坊っちゃん」
「坊っちゃんって言うな…」
帰り掛けに黒澤の家に寄った栞は、仏壇の前に盆飾りを終えると黒澤の前に正座した。
「ご自宅でも、所長の方が良いですか?」
「…」
「『せめて名前で呼べ』って、思っていらっしゃるでしょう?」
クスクスと笑う栞を睨むも、サラリと躱されてしまう。
「…兄貴には、昔から名前で呼んでたろ?」
「そりゃあ、鷹也さんは子供の頃から、しっかりとしたお子さんでしたからねぇ」
「俺は、違うって?」
再びクスクスと笑う栞に、黒澤は溜め息を吐いて言った。
「台風が来るそうだ…泊まって行けばいい」
「あらあら、台風が怖い年令は、とうに過ぎたのではないですか?」
「そんなんじゃない!!」
「わかってますよ…お優しいですね、坊っちゃん」
「…どうせ、墓参りも一緒に行くんだろう?」
「そうですね…お盆の御膳もお供えしたいし…お休みの間、お泊まりさせて頂きましょうかね」
明日から土日を含めた3日間は、盆休みに入る…多分、森田組からの呼び出しも余程の事がない限りないだろう。
「何か…ありましたか?」
「何が?」
「先日から、溜め息が増えてますよ?」
「…」
「聞いて欲しい事が、おありなんじゃありませんか?」
栞に隠し事は無理か…だが、あの頃の事は栞も相当のショックを受けていた…話すのは、妃奈を引き取る時でいいだろう。
「…あの時…何で親父の申し入れ受けなかったんだ?」
キョトンとした顔を見せた栞は、次の瞬間ケラケラと笑い出した。
「酔ってます、坊っちゃん?」
「……」
「いつの話を持ち出すのやら…」
ずっと入院していた母が亡くなりしばらくした頃、祖父から栞が母親になってくれたら嬉しいかと尋ねられた。
養子だった黒澤は…(尤も養子だったと知ったのは、随分と大きくなってからだったが)、実の母だと思っていた女性より栞に懐いていたので、大喜びして母親が出来る事を心待ちにした。
しかし…いつまで経っても、栞は黒澤姓にはならなかったのだ。
後になって、栞が父親からのプロポーズを断ったと聞いた。
裏切られた…小さかった頃はそう思い込み、しばらく栞に反抗的な態度ばかり取っていた気がする。
「俺も大人になった…もう、時効だろ?」
「そんなに、気にしてらしたんですか?」
「当たり前だ!俺が、どんだけ…」
「嬉しいですねぇ」
「好きだったんだろ、親父の事?」
ホホホと笑い、栞は仏壇を見詰めた。
「憧れちゃぁ…いましたねぇ…」
「じゃあ、何で?」
「そんなにお聞きになりたいんですか?」
「…七回忌の供養だ」
「あらあら…でも、隼先生にも…お答えしませんでしたからねぇ…」
そう懐かしそうに笑った栞は、ツィと立ち上がりダイニングテーブルに酒の用意を始めた。
簡単な酒の肴を用意し、珍しくグラスを3個用意すると、スコッチを注いだグラスを仏壇に供え、残りのグラスに氷を入れて酒を注いだ。
「私はね…家出娘だったんですよ」
「えっ?」
突然の告白に面食らい、思わずマジマジと栞の顔を見詰めてしまう。
「父が亡くなって、実家のね…道場を継ぐのが嫌で…大阪から東京に逃げ出して来たんです」
「…道場って…士郎の家のか?」
「あそこは元々、私の実家なんです。父が亡くなって、跡を継がなければならなくなった時、親戚一同から…士郎の父親と結婚する様に言われましてね」
「…」
「親戚でしたし、何より父の弟子同士でしたから…。でも士郎の父親には、当時結婚を約束した恋人が居たんです」
6年前、追手から身を隠す為に栞と共に士郎の実家の道場に身を寄せた時、驚く程の歓待を受けた。
成る程…あれは、そういう事だったのか。
幼い頃から、知らず知らず栞に手解きをして貰っていた黒澤は、それから1年道場で修行をさせて貰いながら、上京する機会を窺っていたのだ。
「上京して、運良く住み込みの家政婦の職を手に入れました。それが、当時大学教授をされていた寺嶋教授のお宅だったんです」
「えっ!?…寺嶋組長の自宅って事か?」
「…当時は、まだ大学教授をされていて…自宅には、留学生の下宿人が大勢いらしたんですよ。その内に、それ迄寺嶋組を治めていらした実のお兄様が、婿養子で他所の組に行かれる事になって、寺嶋教授は大学を辞めてご実家の組を受け継ぐ事になりました」
栞は当時を思い出したのだろう、しばらく懐かしそうに微笑みながら手の中のグラスを弄んだ。
「…流石にね…ヤクザの組長の家で、若い娘に家政婦をさせるのは忍びないと、大先生と隼先生が私を引き取って下さったんですよ。寺嶋組長と隼先生は、学生時代からの親友でしたから。そして、組長になった親友を助ける為と…婚約者の為に、隼先生は組弁護士になられたんです」
「…治療費の為か?」
入院していた母親は子供の頃から躰が弱く、結婚等殆ど諦めるしかない様な状態だったのを、父親のたっての希望で嫁に来て貰ったのだとよく聞かされていた。
「結婚前から援助してたのか?」
「…寺嶋組長と同じ様に、学生時代からの親友の妹さんだったんですよ。お父様は既に他界されて、お兄様が同じく病弱なお母様と妹さんを支えていらしたんです。でも、お母様に付き添われて行った病院からの帰り道で事故に遭われて…お2人共に亡くなってしまったんです」
「…それで、引き取ったのか」
「えぇ…隼先生が直ぐに引き取られたんです。でも、奥様は生きる気力をなくされて、泣き暮らしておいでで…そんな時に、隼先生がプロポーズなさったんですよ」
「…」
「美しい方でした…触れたら壊れてしまう、硝子細工の様な方で…年も近かった私達は、とても親しくなりました。自分の事、結婚への不安、隼先生への想い…奥様は、色々な事を私に話して下さった…だから、大切な子供達の事を任せても大丈夫だと、私を信頼して下さったんです」
確かに、美しく儚げな女性だった…。
見舞いに行くと、いつも微笑みを浮かべて黒澤の名前を呼び、抱き締めてくれた。
その躰の細さと病院の薬の匂い…そして夢見る様に呼び掛ける声は、他の記憶と共に今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
「…馬鹿だな…死んだ人間に、操を立てたのか?」
「そんな積りは、ありません…奥様も、お亡くなりになる前に…隼先生との結婚を、薦めて下さいましたから」
「お袋が?」
驚いた…じゃあ、栞の想いに気が付いていたって事か…。
「えぇ…でも、奥様の隼先生への想いは痛い程理解してましたし…鷹也さんも、思春期でしたしねぇ」
「反対したのか?兄貴が?」
「いいえ」
「じゃあ…」
「唯…聞かれたんですよ」
「……何て?」
「『お父さんと、結婚するんですか?』って…ね」
眉間に皺を寄せて仏壇を振り返る黒澤を、栞はクスクスと笑った。
母が他界した当時、まだ大人になり切れない兄は、母に生き写しの美少年だった…それに、兄は母にとても思い入れが強かった。
祖父も父も兄も…幼い頃から亡くなる迄、黒澤を実の家族として接してくれた。
だが、兄にとって母は…やはり特別な存在だったのだろう。
反対する意味合いではなかったにしろ、栞にしてみれば相当のプレッシャーだったに違いない。
「余計な事を…」
「そんな事を言うもんじゃありませんよ。もう仏様になっておいでです」
「…」
「それに…大きくなってからも、気にしておいでで…後日、謝罪されました。あの時の言葉で結婚しなかったんじゃないかって…もしそうなら、今からでも考えて欲しいって」
「いつ!?」
「鷹也さんが、大学卒業の頃でしたか…でもその頃は、坊っちゃんに手を焼いてましたからねぇ」
栞はコロコロと笑うと、氷を補充しにキッチンに立った。
確かに…その頃の黒澤は、大きく成長する躰と心のバランスが取れず、『悪徳弁護士の息子』と謗りを受ける事にも苛立ちを隠せず…父や兄と似ていない容姿に己の出生を疑い、溜まった鬱憤を栞にぶつけていた。
学校から帰って、バットを手に喧嘩相手に仕返しに行こうとした黒澤に、栞が静かに言った。
「そんなに悔しいなら、栞を倒してから行って下さい」
それから毎日…庭で栞との格闘が始まったが、どんなに挑んでも栞を倒す事は出来なかった。
「弱いですねぇ、坊っちゃん…女の栞でさえ倒せないんじゃ、喧嘩しても直ぐに負けてしまいますよ」
身長もとうに追い抜いた、母親の様な年令の女にそう言われて、悔しくて悔しくて…。
「栞を倒せる様になる迄、外での喧嘩は一切禁止です!」
思えば、倒せる訳がないのだ…6年前に世話になった大阪の道場で、栞の名札が掛かっていたのは師範代筆頭だったのだから。
喧嘩を止められた中学時代は、ガンを飛ばす事だけに長け、目付きばかり悪くなった。
鬱憤はスポーツと口論で晴らし、躰の大きさと体格で誰も絡んで来ない様に予防線を張った。
しかし、高校生になって数人のチンピラに絡まれていた学友を見棄てられず、やむを得ず相手をした時、自分の強さに愕然としたのだ。
ナイフや鉄パイプを持った相手を、素手で難無く撃退してしまったのだから…。
帰って栞を問い詰めると、彼女は眉を寄せて黒澤を庭に連れ出し、相手をさせた。
そして、いつもの様に負けて芝生に撃沈する黒澤に言ったのだ。
「勘違いなさってはいけませんよ、坊っちゃん…貴方は、まだまだ弱いんです」
「…畜生…何て女だ…」
「帰ってらした時、既に服は泥々で…ほら、あちこち制服を切られているでしょう?」
「…」
「身を切られていても、おかしくなかったんですよ?それじゃあ、まだまだです」
「じゃあ、強くなる様に鍛えてくれよ!!」
「強くなって、何をなさいます?」
「え?」
「その答えを出してから、もう一度栞に申し出て下さい。それ迄は、喧嘩は一切禁止です」
「…」
「隠れて腕試しも、御法度ですよ…栞の眼は誤魔化せません。食事抜きにしますからね…」
しばらく考えて『人を助ける為』と答えを出した黒澤に、父と栞は法学部への受験を薦めた。
それから稽古を付けて貰い、大学を受験し司法試験を受け、父や兄と同じ様に弁護士になった。
研修が終わって直ぐに父の弁護士事務所に入ったのは、兄の就職活動を見ていたからだ。
組弁護士をしている父の事は、法曹界でも知れ渡っている…優秀な兄でさえ、一般の就職も、他の弁護士事務所への就職も難しかったのだ。
「坊っちゃんに必要なのは、武道ではないんです…だから、正式な弟子としては認めません」
大阪の道場で、栞に告げられた言葉を思い出す。
「躰の作り方、使い方…基本的な技術は既に会得している筈です。これ以上、坊っちゃんに教える事はありません」
「何故だ!?」
「貴方に必要なのは、武道の型でも、試合でもない……依頼人を守る力でしょう?喧嘩作法で十分なんですよ…本当はね」
「……」
「唯、坊っちゃんの仕事は、普通の弁護士ではありません…血生臭い世界を背負っています。今回の事でも、よくお分かりですね?」
「あぁ」
「追われる身になったという事は、この世界から逃げ出す事は不可能という事です」
「…承知している」
「栞はね、坊っちゃん…依頼人の命も大切ですが、坊っちゃん自身の命を大切にして頂きたいから、稽古を付けて来たんですよ」
「……」
「一度失った命は、二度と帰る事はない。それは、依頼人も坊っちゃんご自身も、闘う相手も同じです。そして、貴方は弁護士だという事を…ゆめゆめお忘れにならないで下さい」
栞が黒澤に付けてくれたのは、古武道の體術…相手の力を利用してしなやかに素早く反撃に出る…スポーツではなく、武士が極めた殺人拳…。
栞はそれを、『弁護士』という職業で縛りを与えたのだった。
「それこそ、親心ってヤツか…」
そうボソリと呟き、黒澤はキッチンに向かってグラスを掲げた。




