オレンジジュース
これにてイリーナ編は終了です。
次回は新しい章に移ります。
「おはようマスター!」
「おはよう、準備の方は順調か?」
「もちろん! 忙しいけど楽しいよ!」
「なら良かった」
クレストに助手として働くと告げた翌日、イリーナは準備のために忙しなさそうだ。だが彼女の瞳はいつも以上に輝いていて、イキイキしていた。カズヤはそんな彼女の様子を見守りつつ、時折心境を聞いたりしている。もちろん、クレストが変なことをするとは思っていない。あれほど熱意のある男だ。彼女を裏切ることなどしないだろう。
「それにしても、まさかエレインの家庭教師もするとはなぁ」
「へへ、まあね。せっかくのチャンスを無駄にしたくなかったし?」
イリーナが忙しい理由はもう一つある。ブランに誘われた家庭教師の仕事も引き受けることにしたのだ。助手の仕事もあるので週に二日ほど、エレインの屋敷で行う予定らしい。
「クレストさんもブランさんも頑張れって言ってくれたんだもん。頑張りたいよね。それに、作法は身につけておいた方がいいってブランさんも言ってたしね」
生涯勉強だよ、そう笑顔で話す彼女の姿にカズヤは安堵した。やはり彼女は笑顔が一番似合う。今後のことを楽しそうに話す彼女に相槌を打ちつつ、グラスを洗っているとカランカランと鐘が鳴った。二人が顔を向ければ、大きな箱を持ったエレインが満足げな顔をして店の中に入ってきた。後ろからレントが顔を覗かせ、ふらふらと軽く手を振る。
「お兄さんこんにちは!」
「久しぶりだなエレイン」
こちらに駆け寄ってくるエレインを見てカズヤは眉をしかめ、じっと見つめた。そんな視線に慣れてないエレインは困惑しつつカズヤを見つめ返す。
「え、なに、お兄さん?」
「エレイン、ちゃんと寝ているか?」
カズヤの言葉に小さな肩が跳ねたのを二人は見逃さなかった。これは詳しい話を聞かねば、イリーナは隣の椅子を軽く叩き、カズヤはエレインを手招きする。エレインは自分に非があると認めているのか、箱をカウンターに立てかけ、渋々席に着く。
「お兄さん気づくの早くない?」
「隈が目立つと気になるに決まってるだろ。ブランさんは知ってるのか?」
「……うん、さっきお父様と執事長に説教された」
しょんぼりした様子で話すエレインに、カズヤとイリーナは顔を見合せ肩を竦める。
「じゃあ俺たちが言うことはないかな。おおかた、絵を描くことに集中して寝るのを忘れたんだろ」
「ちゃんと寝ないと大きくなれないよエレイン」
「そうそう、絵を描いてもらうのは嬉しいけどエレインの健康第一だからな」
「……うん」
「あーっと……ちょっといいっすか?」
様子を見守っていたレントが静かに手を上げる。
「実はブランさんから手紙預かってて……」
「手紙?」
「えっ、なにそれ聞いてない」
「今言ったからな」
「待ってどんなないよ」
「ということでマスターどうぞー」
「あー!」
エレインが必死に手を伸ばして手紙を奪おうとするが、身長差のせいでさらりとかわされてしまう。しょもしょもした様子で席に着くエレインをよそにカズヤは手紙の封を切った。便箋を開ければ、きれいな文字が目に入る。
カズヤ様
いきなりこのような形で連絡をしてしまい、突然驚いたことでしょう。本来なら私がそちらに伺えればと思ったのですが、忙しくなるためこうして手紙で伝えることをお許しください。
最近エレインが絵を描くことに集中していて、なかなか寝ようとしません。一度エレインの集中力を切らそうと画策しましたが、上手く行きませんでした。
「いやこれ俺に言われてもなんだが? どうしろと?」
手紙の内容に困惑しつつ読み進めれば、ある一文が目に入った。
(中略)
エレインが持ってきた箱には一枚のキャンバスが入っております。この絵はきっと、このお店に飾るのがふさわしいでしょう。
一つ謝ることがあるとすれば、イリーナさんをモデルに描いたということです。エレインに聞いたところモデルの許可なく描いたとの事なので、彼女に一度どうするかを窺ってから飾るかを決めて欲しいのです。
お手数おかけして申し訳ございませんが、上記のこと、よろしくお願いします。
ブラン・アーノルド
カズヤはエレインを一瞥し、小さく溜息を吐く。この小さな画家は絵を描くことに集中しすぎて大切なことを聞き忘れるようだ。
「……イリーナ」
「なに、マスター?」
「エレインが持ってきたそれ、キャンバスなんだと」
「ふぅん、それで?」
「イリーナをモデルに描いてるらしい」
「えっ!?」
「あっ」
突然の暴露にイリーナは席を立ち、手紙の内容を察したエレインは申し訳なさそうに顔を逸らす。カズヤは読み終えた便箋を封筒に収め、エレインの名を呼ぶ。名前を呼ばれエレインが静かに顔を上げれば、ギョッとした顔でカズヤを見つめた。エレインの様子に何事かと思い、釣られてレントも彼に顔を向け、後悔した。笑顔で怒る人ほど怖いものはない。彼の背後にライオンが見えた気がする。
「エレイン、イリーナに言うことは?」
「ご……」
「ご?」
「ごめんなさーい!」
エレインの叫びが店の中に響いた。
「ま、まあまあ……今度からちゃんと許可取ってくれたらいいから、ね?」
「……うん」
「エレイン、絵を描くなとは言わないが題材を決めたならちゃんと許可を取らないとダメだ」
「……はい、ごめんなさい」
「わ、私エレインが描いた絵が見たいなー! だめ?」
小さくなるエレインを見ていたたまれなくなったのか、イリーナがわざと大きい声を上げキャンバスが入ってる箱に目を向ける。エレインはカズヤをじっと見つめ、カズヤもエレインを見つめ返した。
「お兄さん、開けていい?」
「いいよ」
「やった……!」
エレインは席から降り、箱を開ける。現れた布地をゆっくり取り除けば、一枚の絵が現れた。絵を目にした三人はそれぞれ感動の声を漏らす。
それは木陰にたたずむイリーナの絵だった。爽やかな空の色と鮮やかな緑の中に薄いクリーム色のワンピースを着たイリーナが本を読んでいる。静止画のはずなのに目の前でそよ風が吹いているような気がして、三人は絵をじっと見つめ、世界に入り込んでいる。エレインは一人、恥ずかしそうに頬をかいていた。
「はじめはスケッチブックに描いてたけど、大きいキャンバスで描きたくなって……それでこうなりました」
「す、」
「す?」
「すごーい! これ私? 私すごい美人になってない!?」
「エレインの絵が上手いのは知ってたけどこれはすごいな」
「なんつーか、すごいしかでないわ」
「……えへへ」
三人の真っ直ぐな褒め言葉にエレインは照れたように笑う。イリーナは自分がモデルとは思えない絵のレベルに興奮し、カズヤはお店のどこに飾ろうか悩み、レントはこれをエレインが描いた事実に驚いている。三者三様な反応にエレインは思わず吹き出した。
「どうするイリーナ? この絵を飾……」
「飾って!」
「あっはい」
イリーナの勢いに飲まれたカズヤが小さく頷く。エレインは店の中を見渡し、適した場所がないか探す。一箇所、良さげな所を見つけ、エレインはそこを指さした。
「お兄さん、絵を飾るならあそこがいい」
「あそこか?」
「うん、あそこなら壁に立てかけられるしいいと思う」
「分かった。今度やっておくよ」
「ありがとう」
キャンバスに傷がつかないよう布を被せ、カズヤは二階に持っていく。イリーナは彼の背中を見つめた後、思い出したようにあっと声を上げた。
「そうだエレイン、再来週から私エレインの家庭教師になったの」
「お父様から聞いたよ。よろしくお願いします!」
「よろしくね。歴史を担当するのでビシバシ行くわよ」
「ほんと? 良かった……」
「えっ?」
「あのお父様の独特な絵を見ないで済むからね……」
「?」
遠い目をするエレインに首を傾げつつ、イリーナは席に戻る。釣られて二人も席に着けば、キャンバスを片付けて来たカズヤが戻ってくる。
「そうだ、今日はイリーナの夢に一歩前進したお祝いとして乾杯できたらって思ってたんだ」
「いいの?」
「ああ」
「じゃあオレンジジュースとかどうすか? エレインも飲めるし。お酒じゃないのが残念だけど雰囲気には合うんじゃね?」
「レント、あんたまだ未成年でしょ」
「こういう時ってお酒がいいって親父が言ってた」
「悪いがここに酒は置いてないぞ。でもまあ、オレンジジュースはありだな。持ってくるよ」
オレンジジュースを取りに厨房に引っ込む。エレインは気になっていたことをイリーナに聞いた。
「ね、お姉さん」
「なに?」
「試験はどうなったの?」
「あー……落ちちゃった」
「えっ! お姉さん頭いいのに!?」
「そ、今回はね〜運がなかったみたい」
「そっかあ、じゃあ来年も受験するの?」
イリーナはニッと笑い、エレインの頭を撫でた。カズヤほどではないが、髪がくしゃくしゃになり、エレインは小さな声を上げイリーナを見つめる。
「もちろん!」
そう言った彼女の笑顔は、エレインの瞳にきれいに映った。
「それじゃみんな準備はいいか?」
「もちろん」
「いいよー」
「問題ないっすよ」
カズヤはグラスを掲げ、言った。
「イリーナのこれからに乾杯!」
「乾杯!」
夕陽を溶かした色が、小さく揺れた。
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