第二十六章 トンの町 2.バランド薬剤店
北のフィールドからトンの町へ戻ると、僕たちは――シルは懐に隠れたままだけど――バランド師匠の店に向かった。夕べ「微睡みの欠片亭」の自室で確認した、体力回復ポーション(中級)から向精神系の成分(興奮剤)を抽出できるという内容について、師匠に確認した方が良いような気がするしね。それに、今日手に入れた【ワイルドボアの血液】から血小板を分離して血液製剤を作る手順についても相談したいし。
師匠の店に行って店の様子を窺うと、お客さんらしい人と何か話している。出直そうとしたところで相談が終わったらしいお客さんが店を出てきた。
「おや……バランドさんに用事かね?」
「あ、はい。お邪魔してはと思いまして」
「ああ、それは気を遣わせてしまったね。私の用事は済んだから、入っても構わないよ」
「あ、済みません」
お客さんに一礼して師匠の店に入る。
「おや、坊主……シュウイじゃったの。……例の件で何か判ったのかの?」
「あ、はい。師匠、お時間良いですか?」
「うむ。ちょっと待っとれ」
師匠は昨日と同じように店を閉める。僕としては恐縮するしかない。
「あの……師匠、わざわざお店を閉めなくても……」
「何を言うとる。邪道スキルやら邪道アーツやらの話は気軽にできるもんではないわい。お主こそその点は解っておるのか?」
師匠によれば、【調薬(邪道)】も【錬金術(邪道)】も別に禁止されている訳ではないそうだが、やはり修得者の少ない特殊なアーツという事で耳目を集め易く、不用意に話すのは禁物だという。ナントさんには相談に乗ってもらっているんだけど……。
「あぁ、ナントのやつなら大丈夫じゃろ。お主と同じ『異邦人』でもあるしの。じゃが、この国の者に話すのは充分注意する事じゃ。して、今日は何用じゃ?」
師匠の問いに答えて、昨日宿で体力回復ポーション(中級)を鑑定したら、向精神系の成分(興奮剤)を抽出できると表示された事を報告する。
「おお、確かに興奮剤系の成分は含まれておるのう。……成る程、それが心配になったのか。大丈夫じゃよ、質の悪いものは含んでおらんでの」
「あ、そうなんですか」
メタンフェタミンなど、覚醒剤系の薬剤ではないみたいだ。運営側もわざわざ藪を突いたりはしたくないだろうしね。
「うむ。……しかし、初心者にそのような抽出を行なわせるか……。邪道アーツはやはり油断がならんのう」
師匠によると、なんでも【調薬(邪道)】や【錬金術(邪道)】では、天然素材だけでなく市販されている製品や、あるいは調合の廃棄物なども利用して作製を行なう事があるらしい。
「店売りの品だけならまだしも、駆け出しどもが練習で作った失敗作までも買い集めて調合した事があったようでな、一時は薬師ギルドが結構な迷惑を被ったそうじゃ。邪道呼ばわりもその頃からじゃったというが……」
うわ……価格体系を混乱させたのかぁ……そりゃ、嫌われるよね。
「興奮剤系の成分は、本来【調薬】が中級にならんと扱わせんのじゃよ。それを初級のスキルで抽出されるとなると、駆け出しどもの教育上あまりよろしくないでのう。大っぴらに触れ回るでないぞ?」
なるほど。初級とはいえ邪道スキルだけの事はあったようだ。
「もう一つお訊ねしたい事があるんですけど……」
僕は【ワイルドボアの血液】から血小板を分離して血液製剤を作る件について話してみたが、これはバランド師匠も初耳だったらしい。
「獣の血にそのような利用法があるとは初耳じゃ。よければこの場でやってみてくれぬか?」
元々そのつもりだったので、店のカウンターを借りて作業を行なう。血小板については、ログアウトした後でちゃんと調べておいたんだ。分離されるのは多分「濃厚血小板製剤」だろうから、洗浄済みのビーカーを用意しておくか。
《選択された素材はワイルドボアの血液です。何を分離しますか?》
血小板と答えておく。
《初級スキルのため、血小板以外の成分の混入を防げない事に注意して下さい。では、血小板の役割について答えて下さい》
「ええと……血管壁の破損部に凝集して血小板血栓を形成し、傷口を塞ぐ。同時に血小板因子を放出し、他の凝固因子と協働してフィブリンを生成し、より強固なフィブリン血栓を形成して傷口を塞ぐ……でいいか」
《次に、血小板がどのようにして作られるか答えて下さい》
え!? 二問目があるの?
「え~っと……骨髄中の巨核球の細胞質が分離して作られる……だったかな」
カウンターの上に出した【ワイルドボアの血液】が光に包まれた。しばらくして光がおさまると、血液の横に置いたビーカーの中に黄色がかった半透明な液体が溜まっていた。……え? 一本の血液からこんなに取れるの?
《課題をクリアーしました。【分離(邪道) 初級 2/3】》
「して、シュウイよ。この【血小板】とやらは何に効くのじゃ?」
「あ、はい」
【素材アイテム】ワイルドボアの血小板 品質C- レア度6
ワイルドボアの新鮮血液から分離された濃厚血小板。紫斑毒の治療に有効。初級スキルで分離されたため赤血球や白血球の破片が混入しているが、ワイルドボアの抗原型は人間と極めて近いため、免疫的な拒絶反応は問題にならない。有効期限が採血後四日間と短いため、アイテムバッグもしくはアイテムボックス内での保存が推奨される。
「え~と……紫斑毒とかいうのに効くそうです。僕は初級スキルで分離しましたけど、本来は中級以上のスキルで分離するのが良いみたいですね」
「紫斑毒じゃと!?」
驚いた様子の師匠に訊いたところ、ナンの町の西側に出るモンスターが分泌する毒らしい。この毒にやられると皮膚表面に斑上の出血斑が生じ、歯茎から出血したり血尿が出るなどの症状を呈し、最後には死ぬんだそうだ。濃厚血小板が有効ってなってるから、血小板が破壊されるか何かして急減するのが原因だろうね。
「今まで紫斑毒に効く薬は知られておらなんだのじゃ。治癒の魔法も効果が無くてのう……」
特発性血小板減少性紫斑病(ITP)と同じ仕組みなら、一種の抗体反応だ。治癒の魔法だと抗体反応が強化されて、逆効果になる可能性もあるな。
「その解毒薬だとすると、これは一騒動持ち上がるぞ」
「あ……でも、特効薬とは書いていませんし……多分症状を抑えるだけで解毒の効果は無いんじゃないかと……」
「だとしてもじゃ、初めて得られた、そして現状では唯一の治療薬には違いない。欲しがる者が殺到するじゃろうな」
「……師匠のお店で扱ってもらえれば……」
「それができんから困っておる」
師匠に言わせると、動物の生き血から薬効成分を取り出すなどという技法は通常の【調薬】には無いそうで、一級調薬師である師匠が扱うのは色々と面倒らしい。禁止や迫害の対象でこそ無いが、やはり邪道アーツは異端視されており、正式な薬剤師が取り扱うのは色々と風当たりが強いらしい。
「抑、邪道スキルを持っておらん儂に作れるかどうかが問題じゃ」
「条件次第では普通の【調薬】でも作れるみたいですよ? スキル名が【分離(特殊)】ってなってましたから」
「【分離(特殊)】か……」
師匠はしばらく考え込んでいたが、やがて僕から血小板の情報を事細かに聞き出すと、【ワイルドボアの血液】一本を使用して良いかと訊ねた。勿論僕に異論がある筈も無い。
師匠が何やら呟いていたかと思うと、【ワイルドボアの血液】が光に包まれ、黄色の濃厚血小板液が出現していた。
【素材アイテム】ワイルドボアの血小板 品質A+ レア度7
ワイルドボアの新鮮血液から分離された濃厚血小板。紫斑毒の治療に有効。上級スキルによって分離されたため、夾雑物は混入していない。有効期限が採血後四日間と短いため、アイテムバッグもしくはアイテムボックス内での保存が推奨される。
「……できましたねぇ……」
「……できてしもうたのぅ……」
・・・・・・・・
途中のアレコレを省略して結論だけを言うなら、僕たち――僕とバランド師匠――は、濃厚血小板の販売をナントさんに押し付ける事にした。それに加えて、当面は「異邦人」すなわちプレイヤーにしか売らないようにする事で、騒ぎを未然に抑えようと図った。
こういうのを「問題の先送り」という。
とりあえず、残った五本の【ワイルドボアの血液】は師匠が保管しておき、必要に応じて血小板を分離するか、あるいは血液のままで、ナントさんに渡す事になった。ナントさんとの交渉は僕が受け持つ事にして、代金は僕と師匠で山分けという事になった。
「のう、シュウイよ。どうやら邪道アーツは儂が思っていた以上に大変な代物のようじゃ。面倒事から身を守るためにも、早めに中級を修得するよう心掛けたがよいぞ?」
「……努力します……」
ブタは異種移植のための臓器ドナーとして有望視されていますが、その主な理由は(本編で述べられたような)抗原型の類似性にはありません。ヒトとの系統学的距離が遠いため、ブタの病気がヒトに感染するリスクが低い事、家畜としての歴史が長いため未知の疾患がある可能性も低い事、入手が比較的容易な事、その臓器は解剖学的にほぼヒトと同じサイズである事、元々食用であるために臓器の摘出や使用に抵抗が少ない事などが主な理由です。拒絶反応への対策は、ブタの遺伝子の一部を破壊した遺伝子改変ブタを使用する事で取られています。




