第72話:ローストビーフ
お守りにヒールライトの付与をした翌日。自室のベッドで眠っていた私は、いつもと違う朝を鼻で感じて、バッと体を起こす。
「くんくん。朝から肉を焼いているような芳ばしい香りがする」
獣人のみんなと過ごす時間が増えて、私も随分と獣人っぽくなったものだ。この芳ばしい香りだけで、リクさんの料理だと本能的に察してしまう。
そう思った瞬間、私は昨晩のベリーちゃんの言葉を思い出した。
『心配せずとも、今日の深夜に帰ってくるであろう』
居ても立っても居られなくなった私は、ベッドから飛び起きて、急いで食堂へ向かう。
まだ顔も洗っていないし、髪も解かしていない。服を着替える時間だってあるはずなのに、足が勝手に動いていた。
しんみりとしていたベールヌイの屋敷も、賑わいを取り戻していて、食堂から大きな声が聞こえてくる。
「俺の肉を取るんじゃねえ!」
「馬鹿を言うな。この肉は俺に食べられたそうな顔をしていた」
「今日はたっぷりと食えるんだ。お前らも少しは落ち着いて――おい! 俺の肉だぞ!」
久しぶりに行なわれている肉の争奪戦の声を聞き、胸が高鳴り始める。間違いなく騎士団の人たちが帰ってきている証拠だ。
急いで足を動かし、食堂にたどり着いた私の瞳に映し出された光景は、約二週間の間、ずっと待ち望んでいたものだった。
大勢の獣人が食卓を囲み、ワイワイと食べる姿が懐かしい。いつもの平穏なベールヌイ家の光景が、ようやく戻ってきたのである。
何より、朝ごはんの準備をしてくれるリクさんを見て、私は心の底から安堵した。
「早かったな。ちょうど今、朝ごはんを並べているところだ」
朝にしては豪華な食事を用意してもらっていると思うが、さすがに今日ばかりは、他の部分に目がいってしまう。
「大丈夫ですか? とても眠そうですけど」
リクさんの力強い赤い瞳は、スッカリと覇気がなくなっている。綺麗な銀色の尻尾も、金色の毛に生え変わっていた。
「気晴らしに料理でもしないと、魔獣化しそうだったからな。もう少し魔獣の血が落ち着かないと、眠ることができない」
わざわざ深夜に帰還したのは、そういう理由だったのかな。料理が作りたくて帰ってきたとか、ヒールライトの魔力で魔獣の血を落ち着けたかったとか。
「一度は仮眠を試みたが……気になることがあって、眠れなかった影響もある。無理しているつもりはない」
リクさんが眠れないほど気になることって、なんだろう。ベリーちゃんも不気味な笑い方で誤魔化していたし、すごい気になる。
なんか今日のリクさんは、やたらと目が合うし。
「今日はゆっくりと休んでくださいね。とても大きなクマができていますよ」
「レーネも随分と眠そうな顔をしているぞ。眠れなかったのか?」
「……気のせいです。私は寝起きなだけですから」
心配事を増やしてしまいそうだったので、私はリクさんから朝ごはんを受け取り、食卓に着いた。
いつも通り過ごすことが、リクさんを安心させるのであれば、私のやるべきことは一つ。皿の上にたっぷりと載せられたローストビーフを、おいしくいただくまでのこと。
安心した途端、急速にお腹が空き始めたので、早速ローストビーフを口に運ぶ。
赤身にしては柔らかく、肉の旨味がしっかりしている。噛む度に溢れ出す肉の旨味が、身に染みるようなおいしさだった。
久しぶりのリクさんの料理、これはもう、じっくり味わって食べるしかない。
ローストビーフに舌鼓を打ちつつ、ゆっくり朝ごはんを食べていると、いつも起こしに来てくれるマノンさんがやってくる。
「奥方、先に朝ごはん食べててズルい」
「あっ、すいません。ちょっと香りにつられてしまいまして」
本当はリクさんにつられたんだけど、それは内緒にしておくことにした。
***
遠征直後ということもあり、今日は無制限に肉を食べられるらしく、マノンさんは思う存分肉を食べたみたいだ。お腹にポンッと手を当てて、満足そうにしている。
そんな中、誰よりも体調が悪そうなエイミーさんがやってきた。
「あぁー……。マーベリックさん、お久しぶり……。すごく眠そうね」
「その言葉、そっくりそのまま返そう。随分とヒールライトの魔力で魔族の血が抑えられているみたいだな」
「とても良い場所だと思っているわ。魔族の血にはツラすぎるだけで、ふぁ~……。うわっ、何この豪華な料理」
驚いたエイミーさんがシャキッとする一方、眠そうなリクさんの瞼はどんどんと重くなっているみたいで、目が細くなっていく。
もしかしたら、ヒールライトの魔力で魔獣の血が落ち着き始めたのかもしれない。当然のことながら、遠征の疲れもあるだろう。
少しフラフラとした足取りで食堂を移動し始めたリクさんを見て、私は彼の元に向かおうとすると、それを妨害するように頭にポンッと手を乗せられた。
「今はゆっくり飯を食う時間だぜ」
どうやらジャックスさんも無事に戻ってこられたみたいだ。
「でも、リクさんの体調が……」
「心配することはねえよ。嬢ちゃんの乾燥したヒールライトも十分に役立ったし、ダンナも自分の体のことをよくわかっている。下手に刺激して、魔獣化を促進する方が危険だ」
そういえば、初めて魔獣化したのは、ヒールライトが綺麗に咲き誇った時のこと。二回目は、煎じたヒールライトを飲んだ時だった。
ヒールライトの魔力が、必ずしも魔獣の血を抑えるわけではない、ということか。
「ややこしいですね」
「ダンナも今は様子を見ているんだろう。以前のような禍々しい気配を感じない分、難しく考える必要はないかもしれんが……。あの状態で魔獣化したら、何が起こるかわからないからな」
一回目に魔獣化した時は、リクさんの意識がなくなったものの、誰にも被害を与えなかったと聞く。
私がモフモフしても、嫌そうな仕草を見せることもなかった。
「うーん、私は大人しい子だと思うんですけどね」
「嬢ちゃんにだけは、大人しいのかもしれねえぜ」
「えっ? どうしてですか?」
「魔獣の血がヒールライトの魔力に反応するならば、その栽培者の魔力にも反応するはずだ。嬢ちゃんを特別な人間だと判断して、服従するのかもしれん」
ジャックスさんの考えは、一概に間違っているとは言えない。国王さまの話でも、昔は聖女さまがフェンリルを従えていたと教えてくれたから。
「まあ、ダンナのことは少し様子を見てやってくれ」
ベールヌイの地で暮らす人々は、魔獣化したリクさんが暴れることを怖がっている。リクさんのためにも、みんなのためにも、私から接触することは控えようかな。
尻尾の毛が生え代わるまでの辛抱だし、リクさんが無事に帰ってきてくれただけでも、私は満足だから。





