第32話:おばあちゃん
衝撃の真実を聞かされ、とんでもない大声で叫んだ私はいま、屋敷の一室でリクさんと向かい合って座っていた。
「申し訳ありません。大変お見苦しいところをお見せしました」
「いつも通りにしてくれ。こっちの調子が狂う」
すでにこちらの調子が狂っていると言いたい。今まで料理人と思っていた人が旦那さまだったなんて、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
なぜなら、リクさんを旦那さまと意識すると、妙に緊張してしまう。いつも通りと言われても、そのいつも通りがわからなくなるほど、私は気が動転していた。
そんなぎこちない雰囲気に包まれていると、マノンさんがお茶を入れて持ってきてくれる。
「奥方、今まで本当にリクが当主だと知らなかったの?」
「はい。料理を作っている印象しかなかったので、てっきり料理人の方なのかと」
「うん、納得した。これはリクが悪い」
なぜかマノンさんが味方になってくれた。これはもう、この波に乗るしかない……!
「そもそも、家臣にもリクで呼ばれている時点で、普通は当主だと思いませんよ」
「確かに。奥方の言う通り。これはリクが悪い」
「嫁いできて一ヶ月近くも経つのに、リクさんに旦那さまっぽいことをされたことは……な、ないですよ?」
「いま変な間があった。これは奥方が悪い」
うぐっ。嵐の中でハグされたことを思い出してしまった。確かにリクさんが旦那さまだったら、あんなことが起きても不思議ではないだろう。
……ちょっともったいないことをした、と思ってしまうあたり、私は意外に冷静かもしれない。
「一つだけ言っておくが、レーネがこの地に初めて訪れたとき、俺は自分から足を運んで素性を明かしているぞ。いま思えば、疲労が溜まっていて、半分聞いていなさそうな感じだったが」
リクさんに言われて、初めて会った時のことを思い出す。
あれは確か……薬草を移植していたときのこと。
裏庭に案内してくれたジャックスさんが、旦那さまに報告してくると言ってくれて、その間に植栽の準備を進めていた。
途中でリクさんが、じゃがいものガレットとホットミルクを持ってきてくれて――。
「あっ……」
そうだ! 長旅による疲労と空腹でヘロヘロになって、リクさんの言葉が脳内を素通りしていた気がする!
「これは奥方が悪い。今のは絶対に思い当たる節がある」
どうしよう……。生涯を共にするパートナーとの初対面で、自己紹介を聞き逃すだけでなく、旦那さまよりじゃがいものガレットを優先していたなんて!
「で、でも、どうしてリクさんが料理を作っているんですか?」
「この地は元々獣人国で、その文化の名残があると言ったはずだ。上の者が下の者を労う一環として、当主が料理を作っている」
そういえば、そんな話を聞いたような気がする。ジャックスさんも、この地は独特の文化があると教えてくれたっけ。
「じゃあ、本当に私が話を聞いていなかったから、ずっと旦那さまがいないと誤解していただけ……なんですね」
「だろうな。まあ、リクさんと呼ばれたり、旦那さまと呼ばれたりと、何度かおかしいと思うことはあったが」
顔を赤くして目を逸らすリクさんを見て、思い出してはならない記憶が蘇ってくる。
リクさんが旦那さまだと知らずに、かなり変なこと言っている自覚が芽生え始めていた。
旦那さまのことが気になっているとか。
旦那さまの好みを教えてほしいとか。
旦那さまの優しさを力説するとか。
同一人物だと知らずに、まさか本人に伝えていたとは。
もしこれが他の貴族令嬢が実演していたら、魔性の女とか、小悪魔テクニックなどと言われ、いとも簡単に男性を虜にしていただろう。数々の恋愛イベントをこなして、数週間もすれば、愛を育んでいたに違いない。
しかし、現実はどうだ? ほぼ恋愛イベントが起きていない私に貼られたレッテルは、花より団子の天然女である。
さすがにこれは、頭を抱えるレベルで恥ずかしい……。
「違和感を覚えていたなら、その時に言ってくださいよ」
「悪い。平然とした表情だったから、わざとやっているのかと思っていた」
完全に私が悪いので、リクさんに強く言うことはできない。もっと言えば、私も途中で気づけ、という話である。
そして、専属侍女として働いているマノンさんも気づいていなかったという現実に、驚きを隠せない。ただ、彼女は何かを思い出したかのようにポンッと手を合わせていた。
「そういえば奥方に、旦那さまがどうのこうのって、よく聞かれた気がする。なんか変だとは思ってた」
「確かに、歯切れの悪い返事が返ってきたような気がしますね……」
ここまで疑問に思う点が次々に出てくると、奇跡的に成り立っていた現象だと思ってしまう。
誰かがいつ変だと気づいてもおかしくないのに、誰も気づかなかったのだから。
一つだけ文句があるとしたら、私ばかり旦那さまのことを気にしていたとカミングアウトされたみたいで、不公平だと思うところだが……あっ!
ピンッ! と来た私は、背筋をビシッと伸ばして、リクさんと向き合う。
「旦那さまに会ったら、聞いてみたいと思っていたことがあるんですけど、いいですか?」
「どうした?」
「私に縁談の話をくれた理由が知りたいです」
一緒の屋敷で過ごし続けていても、リクさんが当主だとわからないくらいには、接点や面識が少ない。
それだけに、大金を払ってまで縁談の話を進め、ここまで良くしてくれる理由が知りたかった。
「気を悪くするかもしれないが、聖女の最後の願いを叶えるために、縁談の話を持ちかけた」
「ん? 聖女さま……?」
思い当たる節がまったくない聖女という言葉に、私は首を傾げる。
「これも話したはずだが……。五十年前、魔物の災害から大勢の人々を救った聖女のことだ。レーネには、聖女が薬草を栽培していた場所を受け継いでもらっただろう」
「確かにそんな話は聞きましたけど、薬草を作っていたのは、聖女さまだったんですね。とても感謝されている方が多いという話でしたし、あの場所を受け継ぐのは、改めて恐れ多い印象を抱きます」
「その必要はない。聖女として崇められているのは、レーネの祖母にあたる人物だ。万が一の時、ここで薬草を育てられるように手紙を残して、亡くなっている」
おばあちゃんが、聖女? そんな話、聞いたことないんだけど。
予想だにしないことを聞かされた私は、すぐに受け入れることができない。しかし、手紙を残したということは、証拠があるわけであって……。
近くにあった机の引き出しから、リクさんが小さな箱を取り出す。すると、そこには古びた手紙と日誌が大切に保管されていた。
その懐かしい文字を見て、リクさんが言った言葉の意味を理解する。
本当におばあちゃんの最後の願いを叶えてくれたんだ、と。
どうしてベールヌイ家に遺書を……と思う気持ちもあるが、実家に残していたら、父に隠蔽されていただろう。そのため、わざわざ信頼できる外部の人に託したに違いない。
大事な薬草の栽培日誌と共に。
「今まで言い出せなくて悪かったな。初めてあったとき、虚ろな瞳で薬草を植えるレーネを見て、まだ伝えるべきではないと思ってしまった」
「いえ、それでよかったと思います。当時の私が聞いていたら、薬草を育てることを放棄していたかもしれませんから」
今でこそ薬草を育ててきてよかったと思っているが、あの頃の私には、それがない。この地の優しい人たちと触れ合わなかったら、薬草栽培するために嫁がされたと思い、心が折れていたと思う。
おばあちゃんが私の幸せを願ってくれていないと思った瞬間、私は家族のような心の歪んだものに変わっていただろう。
「この栽培日誌は、レーネに宛てられたものだ。今なら渡しても問題はないはずだ」
「はい。大切に保管していただき、ありがとうございます」
リクさんから薬草の栽培日誌を受け取った私は、古い日誌の中身を確認するため、ページをゆっくりとめくっていく。
この地で薬草が急成長したことや、金色の魔力を放っていることなど、わからないことが多い。
何か手掛かりが見つかれば……と思っていると、一通の手紙が挟まっていることに気づく。
それは薬草栽培に関することではなく、子供の私を置いて旅立つことを心配するおばあちゃんからの手紙だった。
「おばあちゃん……」
八年前に亡くなったおばあちゃんの言葉に、自然と胸が熱くなる。
薬草のことをいろいろと教えてくれたし、いつでも優しくしてくれた。子供だから当たり前に思っていたけど、分娩直後に亡くなった母の代わりに育ててくれたことを、今ではとても感謝している。
でも、私のことばかり心配するだけじゃなくて、もっとおばあちゃんのことを聞かせてほしかった。聖女と呼ばれていたなんて、一言も聞いてないもん。
薬草のことばかり話していないで、もっといろんなことを教えてほしかったよ、おばあちゃん。
子供の頃の曖昧な記憶をたどっても、おばあちゃんと薬草以外のことを話した記憶はない。
それが何よりも悲しいような、誇らしいような不思議な感覚に陥り、涙がこぼれ落ちてくるのだった。





