第16話:始まる悲劇(アーネスト側2)
レーネが朝ごはんの肉まんを堪能している頃。
何の変哲もない日々を過ごしていたアーネスト家に、突如として悲劇が訪れる。
その事件が起きたのは、寝起きのカサンドラが大きな欠伸をしながら、薬草に水やりをした時のことだった。
「毎日薬草に水やりするのって、意外に面倒だわ。一週間に一回くらいになればいいのに。あーあ、聖女の仕事も楽じゃな……えっ?」
いつもと同じように魔法で水球を作り、薬草に水をやっただけで、何も特別なことはしていない。
しかし、カサンドラの魔力が込められた水が降り注ぐと、綺麗な魔力を放出していた薬草が一変する。
猛毒と言われる瘴気を吐き出し、急速に腐敗しているのだ。強い腐敗臭を放ち、薬草が泥状になるほど不自然に溶け、瘴気が毒の沼を作り出していく。
それは、まるでこの世の終わりでも見ているかのような悲惨な光景だった。
次々と力尽きるように腐敗する薬草を目の当たりにしたカサンドラは、言葉にならない悲鳴を上げる。
何事かと思って飛び起きてきたアーネスト伯爵も、この光景を見て息を呑んだ。
「なんだこれは……。カサンドラ、いったい何があったんだ!」
突然のことに混乱するカサンドラは、アーネスト伯爵にすがりつく。
「違うの、パパ。これは私のせいじゃない。私はいつも通り水をやっただけよ。そうしたら、急に変なものを吐き出して、枯れてしまったの」
「あれほど薬草もカサンドラを歓迎してくれていたのに、いったいどうして……」
「わからないわ。だって、昨日も薬草は綺麗な魔力を出していたのよ。それなのに、急に……うっ」
カサンドラは必死に無実を訴えるが、腐敗した薬草の強烈な臭いが鼻をくすぐり、話せなくなってしまう。
ハンカチで鼻を隠しても臭ってくるほどの腐敗臭に、思わず二人とも後退りをした。
「少し離れよう。薬草が腐敗して瘴気を出しているみたいだ。猛毒の危険がある」
「毒!? 私はそんなもの撒いてないわ!」
「わかっているよ。カサンドラみたいに清らかな娘が毒を撒くはずがないだろう。なんといっても、聖女なのだからね」
慰めるような言葉をかけられるが、カサンドラの心は複雑だった。
自分の魔力がこもった水が薬草に触れた瞬間、次々に瘴気を吐き出し、腐敗しているところを目撃している。
何も悪いことはしていない。そう思っていても、不安で仕方がなかった。
「ね、ねえ、パパ。私って、本当に聖女なのよね?」
「当然だろう。昨日まで見ていた薬草を思い出しなさい。今までレーネが水をやっていて、あんな神秘的な光景になったことがあったかい?」
「……そうよね。私はやっぱり、聖女なのよね。うん、聖女なのよ」
薬草が綺麗な魔力を吐き出すところを思い出したカサンドラは、自分に言い聞かせるように復唱した。
これは聖女に与えられた試練なのかもしれない、そう思いたくて。
「こんな不可解な現象が起こるとしたら、魔物の仕業に違いない。カサンドラが気にする必要はないんだよ」
「ありがとう、パパ。もう少しで私の清らかな心が、こんな汚い光景に汚染されるところだったわ」
「ハッハッハ。腐りきった心を持つのは、薄汚いレーネだけで十分だよ」
「そうよね。よく見たら、この光景はお義姉さまにお似合いよ」
二人が腐敗した薬草の前で悪態ついていると、カサンドラの悲鳴を聞き付けた伯爵夫人が遅れてやってくる。
今まで話し合った経緯を説明すると、伯爵夫人はカサンドラを抱き締めた。
「カサンドラ、可哀想に。魔物のせいでツラい思いをしたわね」
「大丈夫よ、ママ。だって、私は聖女だもの。お義姉さまが育てていた薬草を引き継ぐより、一から育てた方がよかったのよ」
「そうね。もしかしたら、あの薄汚い娘の毒素でこうなったのかもしれないわ」
カサンドラの元気な声が聞けて、伯爵夫人は落ち着きを取り戻す。
そして、彼女を腕の中から解放した後、アーネスト伯爵に問いかけた。
「新しく薬草を栽培するにしても、これで今年の不作が一気に進むわ。納期が大幅に遅れたら、大変なことにならないかしら。確か、国から補助金ももらっていたわよね?」
伯爵夫人の言う通り、昨今の薬草不足を深刻な問題だと考えた国は、アーネスト家に多額の補助金を出している。
しかし、今まで一人で薬草栽培していたレーネは、そのことを知らない。
補助金の行方を知っているのは、悪巧みを思い付いたかのように、ニヤリッと口元を緩めるアーネスト伯爵だけだった。
「それだ! 不慮の事故で起こったのだから、国にまた補助金を申請しようではないか!」
「大丈夫かしら。不作どころか、出荷できなくなってしまったのよ?」
「お前は何も心配しなくていい。私は陛下に特別扱いされているのだから」
「あなた。いつもそう言っているけれど、本当なの?」
「ああ。陛下に謁見を希望すれば、いつもその日のうちに時間を作ってくれるし、二つ返事で補助金を出してくれている。私がパーティーに参加すると、彼の方から声をかけてくるほどだよ」
「まあ! 国王さまから声をかけられるなんて! あなた、国王さまに相当好かれているのね!」
「当然であろう。彼とは、良い友達みたいなものだよ」
「国王さまに失礼よ、うふふふ」
呑気なことを話し合いながらも、アーネスト伯爵は一つの疑問を抱いていた。
魔物の仕業にしては、足跡や痕跡が存在しない。普通はもっと畑が荒れるし、誰かが魔物の存在に気づくだろう。
ましてや、カサンドラが水をやった瞬間に薬草が毒を放ったのなら、それは……。いや、最愛の娘に限って、そんなことはあり得ない。ただの考えすぎだろう。
一瞬、変なことが頭によぎり、アーネスト伯爵は考えることをやめる。
実の娘を疑うなんて、馬鹿馬鹿しい。そう思い、王都へ向かうための準備をするのだった。





