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桃夭

 この頃、日差しは急に熱を帯びてきた。今日はじんわりと空気まで暑い。

 ここは亮州城外、田園広がる農村地帯。

 畑仕事の少女たちが、楽しげに歌いながら雑草を刈っている。

 

──桃よ桃よ、若々しい桃よ。

 

 瑞々しい桃を(うた)うこの詩歌は、婚礼を祝う古い歌だ。

 

「婚儀が近いのかな」


 あぜ道を歩きながら、一行の先頭で清流道人がつぶやいた。

 その視線の先では、少女たちが草を刈りつつ、一人の娘を見つめながら笑いさざめいている。注目されている娘は困った様子を浮かべつつも、どこか幸せそうだ。

 

──燃えるようなその花。


 少女たちは歌い続ける。先ほどの娘も、ちょうど桃の花を彷彿とさせる愛らしい顔立ちで。道人は優しい眼差しでそれを眺めている。

 おそらくは嫁入りを控えた娘と、その友人たちだろう。楽しげに歌われる(いにしえ)の婚礼の歌は、どうやら婚儀の練習といった雰囲気だ。

 のどかな風景に、道人はふっと笑みを漏らした。その傍らには、借りてきた驢馬(ロバ)

 驢馬の背には火眼金睛が荷物と一緒に乗せられていて、ぐうぐうと能天気に眠っている。

 さらにその背後では。

 

「うおお放せ黄雲! 女の子が! 女の子が!」

「はいはいどうどう」


 娘たちにちょっかい出そうと必死の巽に、そんなクソニンジャを羽交い絞めにする黄雲。その後ろでは。

 

「せっちゃーん!」

「見て見て、バッタみつけたー!」

「わあっ、立派なバッタね!」


 逍、遥、遊の三人と雪蓮が、虫取りをしながらのんびり歩いている。

 驢馬の手綱を引く清流を先頭に、清流堂の面々はあぜを東に進んでいた。

 田園はそろそろ夏の色。遠い山並みを覆う濃い緑に、この頃いっそう深くなった空の蒼。季節は初夏だ。

 

「そういえば」


 出し抜けに雪蓮が声を上げた。

 

「私たち、いまからどこへ行くのかしら?」

「知らずに今まで歩いてたんです?」


 巽を締め上げながら、黄雲が呆れた顔で振り返った。

「えへへ」と苦笑いする雪蓮へ、子どもたちがバッタを手にしたまま行き先を告げる。


「あのね、せっちゃん!」

「いまから姐姐(じえじえ)のところに行くんだよ!」

姐姐(じえじえ)?」


 雪蓮は目をぱちくり。姐姐とは「お姉ちゃん」という意味だ。しかし、清流堂の世話になってからしばらく経つが、彼らに姉貴分がいるなどといった話は聞いたことがない。

 

「あなた達、お姉さんがいたの?」

「うん! 会ったことないけど!」

「会ったことがない?」


 子どもたちの言い分は不可解だ。会ったことのない姉。


「どういうこと?」


 むむむと小首を傾げる雪蓮。そんな彼女に、先頭から。

 

「ははは、すまないな雪蓮。よく分からないままに連れてきてしまったようだ」


 艶やかな黒髪を揺らして、清流道人が振り返り声をかける。

 いつも通りのしたり顔。でも今日は、どこか穏やか。

 

「今日は、墓参りだよ」


 微笑とともに、道人はそう告げた。その口調もやはり、どこか穏やかで。

 清流はにこりと笑って、再び前を向いて歩きはじめる。

 

「…………」


 会ったことのない姉。お墓参り。

 

 なんとなくどういうことか悟ってしまったような気がして、雪蓮は少し切なくなる。

 これから向かうという墓は、きっと。

 

「はっ、放せ黄雲! あーっ! 姑娘(ぐーにゃん)達が! 姑娘(ぐーにゃん)達が遠ざかっていく!」

「やめろバカ、おとなしくしろクソニンジャ! おいこら火眼もいつまで寝てんだ歩けバカ!」

「すかー……」


 墓参りに行くというのに、男三人は雰囲気ぶち壊しである。

 かくて一向は穏やかに、やかましく。初夏の日差しの中をゆっくりと歩いていくのであった。

 

---------------------------


「さて、着いたぞ」


 目的の墓は、田園地帯から少し外れた山のふもとにあった。

 小さな小さな墓石を取り囲むように、周囲には桃の木立ち。食べるにはまだ早い(わか)い桃が、青々と実っている。

 清流は桃の幹に驢馬の手綱を結わえ、その背に積んでいた荷を解き始めた。

 

「逍、そっち持ってくれ」

「はい、哥哥(がーが)


 黄雲たちも、墓の前に持ってきた茣蓙(ござ)を敷き始めた。雪蓮も墓周りの掃除を手伝い、巽は清流の尻をおっかけ、火眼は相変わらずの爆睡具合。

 やがて参拝の支度が整うと。

 道中で摘んできた花を墓前に捧げ、果実を供え、線香を焚き紙銭を焼き。

 皆そろって拝礼して、祈りの言葉を口にする。

 一通りの事が終われば、一同は茣蓙に座って持ってきた弁当を広げ始めた。

 

「……なんだかふしぎ」


 すっかり冷めた肉なしの(ちまき)を頬張りながら、雪蓮はぽつりとつぶやいた。そのまま視線を対面で酒を飲んでいる清流へ向け、少女は二言目。

 

「こんな時期に、お墓参りをするのですね」

「そうだな、ふしぎだな」


 清流はしたり顔で少女の疑問に同調する。

 本来、太華では春先の『清明節(せいめいせつ)』に墓参りを行う習わしだ。こんな初夏に墓参りをするなんて、雪蓮はあまり聞いたことがなかった。

 清流は頷いたっきり、理由は語らない。ただ穏やかに墓を眺めながら、酒杯を唇へ傾けている。

 雪蓮への回答を拒んでいるわけではなく、ただただ懐かしんでいるだけ。そんな様子だ。

 

「あーっ! 遊みっけー!」

「わざと! あたし次鬼やりたいからわざと見つかったの!」

「早く隠れろー!」

「おーい、あんまり遠くに行くなー」

 

 すでに昼食を取り終えた子どもたちは、桃の木立ちでかくれんぼに興じている。黄雲はそんな彼らが遠くへ行ってしまわぬよう監督役。火眼は言わずもがな、寝ている。


「あのさー、墓参りって意味あんの?」


 不意に巽が口を開いた。清流の隣で彼女の胸元をガン見していたかと思えばこの男、本末転倒なことを言いはじめる。

 そんな彼の疑問に、清流は興味深げな面持ちで先を促した。

 

「ほう、というと?」

「あんたら太華の人たちはさ、人間が死んだら魂魄は太源に還るって信じてるんだろ? だったら墓場に魂はいないはずだぜ。なら、ここで魂を弔う意味は?」

「なるほど、そういうことか……」


 巽の疑問に納得したようにつぶやくと、清流は再び墓を見つめて続ける。

 

「確かに、人が死すれば魂魄は太源へ還る。しかし、『三魂七魄(さんこんしちはく)』のうち『人魂(じんこん)』が墓所に残ることがあるとも言われている」

「ふーん……」


 つまり墓参りとは、その残っているかもしれない人魂に祈りを捧げるもの。

 

「それにな」


 清流の視線は、墓から天へ。

 

「魂は太源に還り、再びかの龍が呼気となり。そして巡り巡ってこの天地に帰ってくる。……もしかしたら、ここにも帰ってきているかもしれないじゃないか」

「へえ……」

 

 巽は納得したやらしないやら、はっきりしない返事。

 清流はまた酒を愉しんでいる。

 そんなやりとりを聞いていた雪蓮は、おずおずと口を開いた。先ほどからずっとずっと、気になっていたこと。

 

「あの、清流先生」


 少女は思い切って尋ねてみた。

 

「このお墓にいる方のこと……お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「そうだな……」


 酒杯を唇から離して、清流は穏やかに話し始めた。

 

「ここに眠っているのは、私の娘だよ」


---------------------------------------


 むかしむかし。

 亮州の名がまだ『燕陽(えんよう)』だった頃。

 清流道人とその娘が出会ったのは、その燕陽の街中だった。


「あっ」


 酒を買おうとして財布を出したところ。後ろからドンとどつかれて。

 

「財布が……」


 次の瞬間には手から財布が消えていた。

 走り去る足音がする方を見てみれば、黒いぼさぼさの髪を揺らしながら、痩せた幼い少女が逃げていくところ。棒きれのように細い手には、見覚えのある財布が握られている。

 

「道士さん、やられたね」


 酒屋の女店主が呆れ声で言った。

 

「ありゃこの辺じゃ有名なクソガキだよ。ったく、困ったもんさね」

「はぁ……」


 店主の声に気の無い返事をしながら、清流は少女の後ろ姿を見送っていた。やせぎすは人混みを器用に避けながら、突き当りの角を曲がって消えた。

 

「あんた、酒はどうするよ?」

「……またにします」


 金が無ければどうしようもない。清流は住まいの道廟にまだ酒が残っていることを思い出しながら、店主に頭を下げてすごすごと帰路についた。

 それは桃の実がみのりはじめた、初夏のこと。

 

 

 

 大河の底より引き上げられてから。数百年を天究山で過ごしていた清流だが、こうして人里で生活するようになったのは、つい最近のことだった。


「山に帰りたいなぁ……」


 黄昏た街並みを、故郷の山を思い出しながら歩く。

 この頃燕陽は今のように高楼もなく、平たい建物がまばらに建っているだけ。水路もほとんど通っていなかった。

 彼女にとって、人里は恐ろしいところだった。できればあの自然の濃い山の中で、動物達と一緒に山麓の景色の移ろいを眺めて、ずっと過ごしていたかった。

 そんな彼女の甘えを許さなかったのは、当時亀の姿だった玄智真人だ。日がな一日景色を眺めて、道術で醸した酒を飲んでばかりの弟子に。

 

『弟子よ。ここはお前にとって居心地が良いのだろうな。しかしこの山は神聖なる霊山、決してお前の揺り籠ではない。弟子よ、人を恐れず避けず、人を通して己と向き合いなさい』


 と言葉を賜った。

 師にはお見通しだった。彼女が山に閉じこもるのは、人に会うのが怖いからだと。関わるのが恐ろしいからだと。

 それではためにならぬと、玄智真人は彼女に下山の命を下した。

 彼は知り合いの土地神がいるという燕陽・清流堂へ赴くことと、名もその堂から取って『清流道人』と改めるように命じたのだった。

 

「………………」


 街をとぼとぼと歩きながら、清流はうつむいている。

 人里に来たからといって、やることは酒屋と住まいとの往復だけだ。たまに道廟の参拝客が置いていく寄付が収入源。

 贋作の彼女は、酒を飲む必要こそあれ、本来食事は要らない。半不老不死になっても消化器官は残っているので、食べられぬことはないが。しかし。

 

「…………」

 

 ざわざわと周囲の人混みが、正直恐ろしい。師匠の術で人へ向かう凶暴性が抑えられているとはいえ、ときおり。

 

(おいしそう……)


 そう思うことがある。そんな時、彼女はたまらなく自己嫌悪に陥るのだ。

 

──街はおそろしいところ。

──笑いさざめくこの人々と、私は違ういきもの。疎外感で自分の中の獣があぶりだされるようだ。

 

 だからなるべく早く家路を急ぐ。人と接しないように。自分ひとりだけになれるように。

 黄昏が深まり、日は沈んで影が街を覆う。

 やがて清流堂の門が見えてきて。肺からは思わず、孤独に安堵する吐息。

 しかし。

 

「あ……」


 門から見える本堂。扉が開いている。しかも誰かがいる気配。

 ゆっくりと近寄ってみれば。

 老爺の神像の前で小さな人影がごそごそと、何かを服の中に詰めている。人影が手にしているのは、供え物の果物だ。

 明らかに物盗りだった。しかし、清流は怒る気力もなく呆然と犯行の一部始終を眺めている。

 目の前の人影。幼い身体に細い手足。

 

「さっきの……」


 思い当たった清流が思わずつぶやいた。その声に反応して、人影は。

 

「どいて!」


 跳ねる鞠のように、本堂から果物を抱えて飛び出して。

 清流にしたたかぶつかりつつ、あっという間に門から飛び出て行ってしまった。

 薄暗闇の中、一瞬の出来事。顔は見えなかった。

 

「…………」


 清流の足元には、早摘み過ぎる青い桃が、ころりと転がっていた。

 

 

 それから数日。

 

「あっ」


 酒屋で買い物中の清流は、再び後ろからドンとどつかれた。やはり持っていた財布が無くなっている。

 振り返れば、逃げていくやせぎすの後ろ姿。

 

「あんた、目ぇつけられたね」


 酒屋の女店主は、呆れながら清流を見ている。

 

「ったく、そんな辛気臭い顔してるからカモられるんだよ」


 無一文になった彼女へ売る物は無いとばかりに、店主は酒壺を店の中へ引っ込めていった。

 

「…………辛気臭いか」


 そういえば、しばらく自分の顔を見ていない。鏡は持っていないし、水面(みなも)を見つめる時だって、水鏡を意識することすらない。

 

(そんな顔をしていたのか、私は)


 そんな顔をしながら帰路。

 そして道廟へ帰れば。

 

「また……」


 本堂の祭壇は荒らされて、供えていたものが無くなっている。

 神像の前でため息を吐く彼女をあざ笑うかのように、背後を突っ切る裸足の足音。そちらを振り返れば。

 あの痩せた少女が庭木をするすると猿のように登り、塀の上に逃げていくところ。服に果物を入れたまま器用に幹を伝い、塀に掴まると。

 

「べーだ!」

 

 少女はこちらを振り返り、あっかんべえをして塀から飛び降りて、足音だけ残してどこかへ去って行ってしまった。

 

「…………」


 やはり、清流の心に怒りは湧かなかった。それよりも。

 

(意外と愛らしい顔立ちをしていたのだな)


 初めて見た少女の顔は、汚れていてはいたものの、ふんわりと可憐で。そう、ちょうど。

 

(桃の花のようだ……)


 桃の花盛りはとうに過ぎた季節なのに、彼女はなぜかそう思うのだった。

 

 以降、少女は度々清流の前に現れた。

 やはり酒屋の前で財布を盗み、本堂の供え物を盗み。

 たまに参拝客が置いて行った寄付をごっそり持って行ってしまうこともあった。酒を買う金を思うと、これには少し参ったが。

 そして時折、日差しのやわらかい日には清流堂の庭木に寄りかかって午睡を楽しんだり、雨の日には本堂の軒下にうずくまって果物をかじっていたり。

 そんな姿を本当に時折、清流に垣間見せてくれた。まるで野良猫のような少女だった。

 言葉を交わすことはなかったが、付かず離れずの不思議な関係。

 

 転機は突然訪れた。

 

「待て、このクソガキ!」


 街に出ていた清流は、突然後ろで雷鳴のように沸き立つ怒声に振り返った。同じように後ろを振り返る群衆の視線の先で。

 体格の良い肉屋の店主が、顔を真っ赤にして怒りの形相を浮かべている。筋骨隆々のその腕が掴んでいるものを見て、清流は思わず「あっ」と声を上げた。

 

「いたい! はなして!」


 腕を掴まれているのは、あの痩せた少女。掴まれている方とは逆の手に、金が入っているらしい麻袋を握りしめている。肉屋の売上金に手をつけたことは、明白だった。

 

「てめえ、最近この辺でスリを働いてるガキだな!」


 店主は力任せに少女を肉屋の店先まで引きずっていき、彼女の腕を無理矢理引っ張って俎板(まないた)の上に乗せた。

 

「二度と悪さできねえように、その腕叩っ斬ってやる!」

「ひっ……!」


 店主は肉切り包丁を細い腕の上にかざす。口角泡を飛ばし、本当に少女の腕を切断しかねない剣幕だ。

 この店主、近隣では気性の荒いことで通っていて、かつ少女もたちの悪いスリとして皆に認識されている。

 だから誰も止めなかった。店主が怒るのも無理からぬことで、少女が腕を切断されようとも、悪事を繰り返した彼女に同情の余地はない。

 行き交う人々は見て見ぬ振り。中には好奇の眼差しで「早く斬れ!」と囃し立てる者までいた。

 

「待ってくれ」

 

 そんな街の雰囲気に逆らって、清流は思わず声を上げた。

 足早に肉屋へ近付く彼女に、群衆はぎょっとした眼差しを送り、肉屋も怪訝な目つき。泣きそうだった少女は、きょとんとしている。

 周囲の注目に居心地の悪さを覚えながら、清流は肉屋へおずおずと口を開いた。

 

「その……そこな娘が悪事を働いたとて、腕を奪うのはやり過ぎだ。彼女の詫びなら、私がする。だから──」

「なんだあんた……このガキの親か何かか?」

「そういうわけでは、ないのだが……」


 清流、この少女とのつながりを説明しようとして、言い淀んだ。彼女もこの少女のスリの被害者で。正直なぜ少女を助けようとしたのか、清流自身も自分で自分がよく分からなかった。

 

「どうか、この通り」


 清流は黒い衣を地面にすりつけるようにして、跪いて詫びる。

 そんな彼女に、店主は渋い表情で。

 

「……仕方がねえな」


 すっかり怒りを削がれた様子で少女を放し、その痩せた身体を清流の方へ乱暴に押しやった。少女の手から売上金を引ったくるようにして取り返すと、最後に店主はこう言った。

 

「あんたも親代わりかなんか知らねえが、悪さしねえようによく見とけよ!」

「え?」


 完全に勘違いからの一言だった。

 思いがけない言葉に頭を上げた清流だったが、店主はすでに店の奥へ引っ込んだ後。代わりに。

 

「…………」


 呆然としているあの痩せた娘と、視線がかち合った。

 

「………………」


 二人はそうしてしばし、互いをぼんやり見つめるのだった。



 それから。なんとなく二人は並んで街を歩いていた。話をするでもなく、無言で、しかし付かず離れず。

 清流が街の城門をくぐり城外へ出ようとしたところで、やっと少女が口を開いた。

 

「……どこに行くの?」

「ああ、供え物を取りに……」

「へぇ……」

 

 なんとなく気まずい。正直街の外に出ようとすれば、この少女もさすがにどこかへ行くかと思っていたのだが。

 

「どこまで取りに行くの?」


 少女はなおもついて来る。街から遠ざかり、田園広がる田舎道まで。少女の質問に、「山の近くまで」と清流はざっくり答えて歩みを進める。

 二人きりはなんとも居心地が悪い。道術で少女を撒いて逃げるなんて、楽なことだったけれども。

 それでも清流はゆったりとした歩みを続けていた。ずっとついてくる少女にも、そんな彼女から逃げない自分にも戸惑っていた。仕方なしにその足取りは、山際の桃園へたどり着く。

 山のふもとにあるその桃の木立ちは、特に誰が所有しているわけでもない、野生の桃。

 二人が出会った頃には青かった桃も、今は赤く色付いてたわわに実っていた。

 

「おっと」


 桃の実に手を伸ばして、清流は少し困った顔色。枝は思ったよりも高く、実には後少し手が届かない。

 なら別の木を、と清流が諦めるよりも早く。

 

「あたしが取ってあげる」


 少女がするすると、目の前の桃の木に登っていく。やはり猿のような身のこなし。しかし。

 頭上に細く伸びている枝を掴む手の仕草の、なんと柔らかいことか。すぐに折れてしまいそうなその枝を、折ってしまわぬよう丁寧に。

 スリばかり繰り返していた少女の、内なる優しさをその手に見た気がした。

 少し頰の緩んでしまった清流へ、少女は桃を一つ手に取り差し出す。

 

「はい、これ」

「あ、ああ……」


 清流が恐る恐る手を伸ばすと、少女はその手のひらにほろりと桃を落として。

 

「へへ」


 誇らしげにはにかんだ。

 葉と桃の実ばかりが茂る樹上に、季節外れの花が一輪、咲いたようだった。

 

 

「お前、名前はなんというのだ」


 燕陽への帰り道。桃を抱えながら清流が問いかければ。

 

「名前なんてない」


 少女は果実を頬張りながら、悲しみなんてひとかけらもない口調で答える。

 

「だって、誰にも呼ばれないもの!」

「ふむ……」


 少女の境遇は、なんとなく想像がついた。だから「親はどうした」なんて野暮なことは聞けなかった。

 清流の胸に、不思議と同情は起こらない。ただただ「名前がないのは不便だな」と淡々とした考えが巡る。

 しばらく色々思考した挙句、清流は少女を振り返った。

 

桃花(とうか)、なんてどうだ?」

「なにが?」

「名前」


 清流の提案に、少女はポカンと呆けた顔を浮かべた後、かじっていた桃の実に視線を落とし。

 

「単純!」

「はは、そうだな」


 正直な感想を清流へ伝えてくれた。

 少女の言う通り、単純だった。単純だが、似合いの名だと思った。

 自分についた名前を、少女は気に入ったとも気に入らないとも言わない。

 

「桃花」


 さっそくその名を使って清流は呼びかける。

 そして次の言葉を口にするのに、彼女は多大な勇気を要した。意を決して、努めてなんでもないような口調で。

 

「お前、うちに住みなさい」

「えっ?」


 さすがに少女も驚いたようだ。しかし彼女の顔へ次に浮かんだのは、少し困ったような、そのくせ照れくさそうな表情。

 

「……なんだって急に」

「さあな。私の気まぐれだよ」

「気まぐれ……」

「ああそうそう。スリはもうやめなさい。今日みたいな目に、また遭ってしまうよ」

「…………」


 二人はまた無言で歩き出す。

 前を歩きながら、清流は自分の心の動きにやはり戸惑っていた。どうして彼女に『桃花』などと名前をつけ、あまつさえうちに住めとまで言ってしまったのか。

 理由なんて考えるまでもないことだった。

 あの桃の木の上。か細い枝への優しさ、桃の実を差し出した時の笑顔を、自分にも向けてほしい。分不相応にも、そう思ってしまったから。

 

──贋作(はぐれ)者の自分が。


 そう思うと、少し胸が痛んだ。

 後ろを歩く少女──いや桃花は、いまどんな顔をしているのだろう。

 振り返ればすぐ分かることなのに、どうしてもそれができない。

 付かず離れずで歩く二人を夏の夕焼けが包み込み、この日から清流と桃花の生活は始まった。

 

 

 幼い子どもを抱えての生活は、難事の連続だった。

 まず食い扶持。スリをするなと言い含めた手前、彼女の食費は清流が稼ぐしかない。

 清流は豊満な肢体と美貌を持っていたが、これを活かすのはやめておいた。桃花の教育のため、というのは建前で。

 本当のところ、金のために身体を売るのはやぶさかではなかったが、人とそこまで濃厚な接触をするのが怖かったからだ。

 結局彼女は、数百年の間に身につけた道術を活かすことにした。厄払いだったり、祈祷だったり、あるいは物の怪退治だったり。

 しかしボロ道廟に住む、人付き合い苦手な彼女を信用して仕事を依頼する者なんて、ほとんどいなかった。だから最初は苦労した。当初は食べるものも城外で取ってきた果物だけという有様で。

 

「こんなにひもじい思いをするのなら、こんなところに来なければ良かった!」


 と、桃花は約束を破ってまたスリに走ったりした。

 そんな彼女を苦しい気持ちで叱ったり、被害をこうむった者に謝罪をしたりで、清流の日々は目まぐるしく過ぎていく。

 やがて術の腕を認められ、道士としての仕事も軌道に乗り。食い扶持程度は安定して懐に入るようになると、今度は別の問題が鎌首をもたげる。

 

「料理か……」


 数百年生きてきて、初めて挑戦することだった。なにせ天究山にかまどは無かったから。

 やっと得た収入で米や野菜を買い込んで、清流はおっかなびっくり包丁や鍋に初めて接した。

 そうして出来上がった食事を一口頬張り、桃花は一言。

 

「これ、人間の食べもんじゃないよ……」

「…………」


 清流も一口食べてみたが、桃花の言う通りだった。

 少女は呆れた様子でため息を吐き、ひとしきりまずい料理を堪能した後にこう言った。

 

「仕方ない。明日からは、あたしが作る!」

 

 そうして彼女はにっこり笑った。やはり、桃の花のような笑顔で。

 次の日からはその言葉通り、桃花の手料理が卓に並んだ。

 当たり前のように、清流の分まで用意してある。清流は自分に食事が必要ないことを、結局桃花に言わなかった。そして用意された料理を、当たり前のように毎日平らげた。

 日々腕が上がっていく彼女の料理は、とても美味しかった。

 


 桃花は清流から道術を学ばなかった。読み書きも算術も嫌って、何も学ばない。その代わり、道廟の外に遊びに行っては、色んなことを覚えて帰って来た。盗みはすっかりやらなくなった。


「最初お前さんがここに来た時は、どうかと思ったが……」


 桃花の留守中に、燕陽の土地神は神像から生身の老爺に化身して、度々清流の顔を見ながらこう言ったものだ。

 

「あの娘が来てからは、お前さんいい方向に向かっておるな。その調子。ゆっくり、ゆっくりだ」

 

 そして二人の日々は、春夏秋冬を何度も繰り返す。

 桃花との生活を、後悔したこともあった。重荷に感じたこともあった。喧嘩したことも、どうしても相容れぬことも。

 それ以上に、どうしようもなく楽しかったのだ。

 庭木を登り損なって桃花が無様に落下する様を、案じつつも笑ってやったり、逆に鴨居へ頭をぶつけた清流に桃花が噴き出したり。

 酔っ払って寝ている間、顔に書かれた落書きなんて傑作だった。二人して(かめ)の水鏡を覗き込んで、大笑いしたものだ。

 桃花は清流のことを「おばさん」と呼んでいた。

 実年齢はともかく、清流、見た目は「おばさん」の域には達していない。にも関わらずの「おばさん」。

 清流は怒るでもなく、愛着をもってその呼称を受け入れていた。毎朝の、「おはよう、おばさん!」が嬉しかった。

 しかし。

 

 楽しい一日が過ぎた後。夜、一人きりの寝所に必ずやってくるのは、虚しさだった。

 

(桃花……)


 桃花は日に日に背丈が高くなる。痩せていた身体にも肉がついてきた。

 対して清流は何も変わらない。水鏡に映るのは、何年経っても同じ顔。

 同じ時を過ごしているのに、同じ時を歩めない。それがとてつもなく悲しい。

 苦悩はそればかりではない。時折、贋作者としての彼女の本能が囁くのだ。傍の桃花を、

 

──おいしそう。


 と。

 師の術のお陰で、その欲を抑えこむこと自体は簡単だ。しかし、そんな欲が湧き上がること自体、清流は自分自身を許せなかった。

 

 ある晩のこと。

 悲しい夢を見てしまったのか、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら桃花が部屋を訪れた。眠っていた清流だが、気配に目を覚まし。

 

(……どうしたらいいか分からん!)


 寝たふりを続けた。

 そんな清流の心の内を知ってか知らずか、桃花は遠慮なしに彼女の布団にもぐりこみ、背中にくっついて涙に濡れた頰を押し付ける。

 

「…………」


 背中から、声のない泣き声が聴こえる。

 頭の中で、贋作者の本能がまた囁いた。

 その声を打ち消して、清流は目を閉じる。

 苦しかった。

 この時、腕を伸ばして桃花の頭を撫でてやらなかったことを、彼女は今でも後悔している。

 

 それからも時は巡り、季節の色は鮮やかだったり褪せたりを繰り返し。

 小さかった果実が色付いて、豊かに実るように。

 桃花はたおやかに、女性らしく育った。それでも気の強い性分と、桃の花のような笑顔は健在で。

 相変わらず城外の桃園に一緒に着いてきて、衣服の裾に構わず木に登り、桃を取ってくれる。

 そんな生活がしばし続き。

 

 異変に気付いたのは、桃の季節を過ぎてから。

 庭木に登るのが趣味だった桃花が、さっぱり登らなくなった。やたらと裾を気にするようになった。極めつけは。

 

「おばさん、鏡を買ってほしいのだけれど……」

「鏡か……」


 もじもじと、今までしたこともない仕草でねだり始めたのだ。

 ははん、と清流はしたり顔で察した。

 

「いいだろう。年頃の女子(おなご)が鏡を持っていないのは、不便だろうからな」

「あ、ありがとうおばさん!」

「ふふ、桃花」


 喜ぶ桃花に、清流は余計な一言を言い添える。

 

「がんばれよ」

「…………もう!」


 真っ赤になってそっぽを向く彼女が、可愛かった。

 

 桃花と暮らし始めて十年ほどだろうか。街は変わった。

 道は舗装され始め、水路の工事もそろそろという時期。

 そして変わったのは、彼女自身も。

 

「道士さん、あんた最初に比べたら……いまはいい顔してるね」

「そうかい?」

「相っ変わらずシワひとつ無い顔なのは、腹が立つけどね」


 酒屋の女店主は、そう言っていつもの酒を瓢箪に注いでくれた。すっかり白髪混じりで、シワも増えている。

 清流は重くなった瓢箪を手に、家路につく。

 

「いい顔か……」


 以前、あの店主には辛気臭いなどと評されたっけ。

 

 いまはどんな顔なのだろう。桃花に買ってやった鏡を借りて見てみようかと思った、その矢先。

 

「おや……」


 清流の視線の先では、その桃花が街を歩いていくところだ。なんとなく彼女のそわそわとした気配を察して、清流は声をかけずに物陰へ身を潜め、桃花を見守る構え。

 清流が見ているとも知らず。桃花は群衆の中に目的の人影を見つけて、嬉しそうに手を振り始めた。

 

「なるほど、やはり男か……!」


 清流は建物の陰から二人を伺っている。桃花のもとへ駆け寄ってくるのは、品の良い出で立ちの、背の高い青年だ。しかもなかなかの色男。

 ともに笑顔で連れ立って歩く二人。桃花の笑顔は、弾けるようだ。

 

「…………」


 こういう時は、祝福の気持ちが湧き上がるものと思っていたのに。清流の心境は複雑だった。

 彼女の恋を祝う気持ちも、確かにあった。しかしそれ以上に、桃花がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。

 これが噂に聞く親心、というものだろうか。

 

「飲むか……」


 なんとなく物寂しい気持ちで、清流は瓢箪の酒を煽りながら帰るのだった。

 それからしばらくして。

 順調に交際を重ねていた桃花は、例の青年を清流堂へ連れて来た。

 青年は街でも有数の薬問屋の跡取り息子。

 仲睦まじそうな二人に、清流は苦笑いをこぼしたものだ。


「桃花さんは、私が守ります。だから交際を認めていただきたい」


 殊勝な面持ちでそう懇願する青年に、清流は快諾を示した。「やった!」と喜ぶ二人に、やはり苦笑い。しかし。

「では」と言って桃花と連れ立って出かけていく青年の、衣に()きしめられた流行りの香。それが少し、軽薄に鼻腔をかすめていく。


(大丈夫だろうか……)


 一抹の不安が胸の中、一点の曇りとなって残った。


 二人の仲を信じて過ごしていた、ある晩のこと。

 夜半を過ぎても、桃花が帰って来ない。今まで喧嘩しようとも叱られようとも、日没までには必ず帰って来たあの桃花が。

 夕刻からずっと門前に立っていた清流は、月が出てからはたまりかねて街へ探しに出た。氣を探っても、周囲にはいなさそうで。

 繁華街のあたりを駆けずり回って探しているときだった。

 

「あはは! さっすが若旦那だ、役者だねえ!」


 そう囃し立てる声に、ふと聞き耳を立てた。声は近くの酒楼から。

 幇間(ほうかん)(太鼓持ち)に褒めそやされているらしい酒宴の主。酒楼の窓から垣間見えるその人物は、あの薬問屋の青年だ。


「いやぁ、おぼこ娘をたぶらかした挙句、甘言を囁いてポイだ! さすが色男、やることが違うねえ!」

「ははは、そう言うなよ」


 幇間の言葉に、青年は悪びれない顔で続ける。

 

「あの桃花とかいう娘、簡単なものさ。今日試しにこう言ってみたんだがね。『親が勝手に許嫁を決めてしまった。我が愛するは君ひとりなれど。かくなる上は街の東の桃園で、二人で死のう、先に行って待っててくれ』……ってさ。まあ、最初から私は行く気なんかないんだがな」

「で、娘はなんと?」

「もちろん返事は『はい』だったよ。今晩桃園に行って待つと。もし私が来なければと聞けば、あの娘、傑作だ」


 せせら笑いながらの一言。

 

「『先に死んで待っています』……だとよ」


 酒楼の壁に背を預けて聞いていた清流は、弾かれるように駆け出した。背後からは、「本当に死んでいるか賭けをしよう」と最低の声と笑いが響いている。

 青年の下劣さに、もちろん烈火の如き怒りが湧いた。しかし今はそれよりも。

 

「桃花……!!」


 彼女の身が心配だった。驚く街の人々に構わず、清流は神行法を使い道を走り、水と化して閉じた城門をすり抜け、一路あの桃園へ急いだ。

 

 そして、辿りついた桃園では……。

 

--------------------


「で、私が桃園に着くと……おや?」

 

 昔語りをしていた清流は、ふと聞き役の異変に気が付いた。

 じっと彼女の話に聞き入っていた雪蓮は、張り詰めた表情をしている。はらはらと顔に不安をみなぎらせ、こちらをじっと見つめる黒い瞳からは、今にも涙が溢れ出しそうだ。

 

「あー、その」


 清流にとっては、思いもかけない反応だった。どうやらこの娘、最悪の結果を予想しているようだ。

 

「雪蓮、すまない。私の話し方が悪かったようだ」

「…………?」


 突然謝る清流に、雪蓮はやはり張り詰めた表情のままで首を傾げる。

 後ろでは子ども達のはしゃぐ声。かくれんぼはいつしか鬼ごっこに変わり、お守り役だった黄雲まで混じって乱戦の様相を呈している。

 そんな喧騒を背景に、清流はやわらかい声音で続けた。

 

「安心してくれ。桃花はこの時無事生きていたし、もっと言うと彼女は天寿をまっとうした。それと」


 言い忘れていたが、と申し訳なさそうに言い添えて、道人は言葉を継ぐ。

 

「ここには、実はもうひとり眠っているんだ」


-----------------------


 あの晩。

 月夜の桃園で、桃花は高い枝に縄をかけて、そのまま呆然と突っ立っていた。

 

「桃花!」


 全力で走って来た清流が駆け寄って、振り返る彼女をしかと抱きとめる。鼓動を、生きていることを確かめるように、ぎゅっときついくらいに。

 

「うっ…………」


 桃花から嗚咽が漏れて。息遣いだけだった泣き声は、やがて大泣きに変わる。

 子どものように泣きじゃくる彼女を抱きしめながら、清流も静かに泣いていた。

 

 桃花が立ち直るまで、時間がかかった。

 あの青年に捨てられたことを納得するのに至極葛藤を要したし、男性を怖がるようになった。

 彼女が落ち込んでいる間に、街には事件が起きていた。

 月のない夜に薬問屋の若旦那が襲撃され、四肢の骨を折られる重傷を負ったのだ。

 暗い夜のこと、さらに下手人は黒い衣を着ていたらしく、行方は杳としてしれない。

 近所の友人からそんな街の噂を聞いた桃花が、隣に立っていた清流を呆れた視線でじっと見た。

 

「おばさん……」

「なにかな?」


 清流はしれっとはぐらかす。この頃彼女、したり顔がすっかり板についてきた。

 また季節は巡って、桃の葉の茂る頃。

 桃花の周辺に、時折人の良さそうな青年が現れるようになった。近隣の農村に住む青年で、街へ作物を売りに来たところ、桃花に一目惚れしたらしい。

 以前男に手痛い目に遭わされた桃花は、最初相手にもしなかったが。

 この青年、純粋で正直で朴訥で、陽だまりのようにあたたかで。

 桃花の心に()みついた男性不信と猜疑の氷を、春の日差しのように溶かしていった。

 そんな彼を、桃花は気恥ずかしそうに清流堂へ連れて来た。

 最初清流もいささか厳しい目で彼と接したが、青年は「育ての親の当然の態度」とそれを受け入れ、心底の誠実さを見せてくれた。

 桃花はやっと、互いを思い遣る本当の恋を経て。

 季節はそして、桃の花咲く頃。燃えるような花の咲き誇る頃。

 その日、婚礼衣装に身を包んだ桃花を、清流はいつも通りの顔で送り出してやるつもりだった。そう、小憎たらしいくらいのしたり顔で。

 しかしそんな目論見など、たった一言で瓦解した。

 最後の最後に桃花が涙ながらにこぼした、「おかあさん」の一言によって。

 ぼろりと涙がこぼれて、愛する娘の、綺麗な姿が霞んでしまう。

 

──桃よ桃よ、若々しい桃よ。

 

 桃花が嫁いで行く。街の友人達が歌う、(いにしえ)の桃の歌に見送られて。

 

──燃えるような、その花……。

 

 

 桃の花の季節が去り、清流堂はとたんに寂しくなった。

 清流は桃花がいなくなっても街の物の怪退治の仕事を続けていたし、相変わらず酒も飲み続けていた。

 桃花は時折、夫と一緒に街へ作物を売りに来る。その時決まって、清流堂へ立ち寄ってくれた。

 世間話や姑の愚痴、その他色んなことを、茶菓子とともに。清流が仕事を続けているのは、茶と菓子の用意をするためだったのかもしれない。

 日月がくるくる回り、ある日から清流堂へ訪れるのは夫だけになった。

 

「子どもができたんです!」


 桃花の夫は、こらえきれない幸せを振りまきながら教えてくれた。そうか、と清流は噛み締めるように笑う。しかし内心は複雑だった。

 あのやせぎすから美しく育ち、嫁ぎ、子を成し。自然の循環の中で当たり前の生涯を送る桃花が、正直羨ましかった。

 やがて星辰は冬模様。ひときわ寒い日に赤子は生まれた。

 知らせを聞いて駆けつけた清流に、産後の割に顔色の良い桃花が、当然のように赤子を差し出した。

 

「かあさん、ほら」

「あ、ああ……」


 おっかなびっくり。落としてしまわぬよう、傷つけぬよう慎重に腕に抱えた命は、しっかりと重い。

 やがて、子は寝返りを打ち、四つ這いを覚え、二つの足でしっかと地面を踏みしめ。背丈も顔立ちも、あの日、初めて会った桃花に近付いて。

 そして彼女によく似た顔立ちが、たくましく育っていく。そして桃花と同じように、恋をして、子を成して。

 桃花も段々、歳を取って行く。会うたびに握ってくれる手には、あかぎれが増え始め、次第にしわが寄ってくる。

 対して清流の手は、なめらかなまま。顔も姿も、全て出会った時のまま。

 そのことに桃花は、特に疑問を呈さなかった。当たり前のこととして受け入れている風でもあった。それは、彼女の夫も同じで。

 

「桃花」


 ある日、夫婦の暮らす家に赴いて、清流は愛娘に呼びかけた。

 呼び声に応じて、寝台から桃花が手を伸ばす。弱々しく差し出される、枯れ木のように痩せ細った手。

 先年からの病で、桃花の目はもう見えない。確かめるように、清流の手をそっとなぞっている。

 

「かあさん……」


 か細い声で、桃花は人生最後の問いを清流に投げかける。

 

「私が逝った後、かあさんは太源(あちら)まで会いに来てくれるかしら」

「………………」


 愛しい娘の問いに、清流は答えられなかった。

 やがて桃花は、母と、愛する人、そして子ども達の見守る中で息を引き取った。穏やかな最期だった。

 

 葬儀。桃花が望んだので、墓はあの桃園に造られた。

 別れの日は雨だった。雨粒が打ち付ける中、清流は哭礼を捧げた。いや、礼なんて関係なかった。

 桃花の夫と一緒に、子どものように泣きじゃくった。

 そんな姿を、桃花の孫たちは冷ややかに見ていた。彼らにとって、清流は歳を取らぬ不気味な存在でしかなかった。

 

 やがて年月はさらに巡り。桃花の夫もほどなくして亡くなり、彼女の隣に埋葬された。

 

 そして桃花たちの子どもが亡くなると。清流は孫の世代からは疎まれ、清明節の墓参りに行きづらくなった。

 冷遇も仕方ないことだった。人の心に自然に生じた「不気味」と思う感情は、どうしようもないことだ。

 だから、初夏。あの子と初めて出会った季節に。

 毎年清流はここへ足を運ぶ。孫たちが亡くなり、彼女と桃花の繋がりを知る者がいなくなっても。

 日月が巡り、季節が巡り、星辰が巡り。

 墓を守る桃の木々が、花と果実と葉を何度も咲かせ、実らせ、繁らせて。

 この地を幾たびも戦乱が蹂躙し、燕陽が亮州と名を改められ、彼女との出会いから長い時が経った今でも。

 時の流れからつまはじきにされたまま、生き物として不正解のまま。

 今年も、こうやって。



「……と、いうわけだ」


 長い長い昔話を、清流は軽い語り口で終えた。

 軽さは照れ隠しだったのかもしれない。頬をこりこりとかく仕草が、どうもそれと語っている。

 眠っていたはずの火眼がいつの間にか起きていて、神妙な表情でうつむいている。

 そして雪蓮の目からは、ぽろりと涙がこぼれた。決して悲しい話ではなかったはずなのに。

 そこへ。

 

「……なんです、姐姐(じえじえ)の話ですか?」


 遊び疲れた遊を背負って、黄雲が茣蓙(ござ)へ近づいてくる。後ろには逍と遥も引き連れていた。

 すると黄雲、視線をふと黒ずくめへ。

 

「なんだお前、泣いてんのか?」

「……へっ」


 巽は顔をそらし、ふてくされたような態度。しかし覆面の中からは、ぐすっと鼻を鳴らす音が聞こえてくる。

 と、黄雲の背中から遊が飛び降りて、清流の元へ駆け寄った。

 

「ねえ、先生!」

「なんだい?」


 遊は珍しく、甘える口調で尋ねた。

 

「先生は、姐姐と哥哥と、遊と逍と遥の中で、誰が一番好き?」

「ふふ……」


 清流はお団子頭を不器用に撫でながら、いつものしたり顔で言う。

 

「悪いが遊。それをはかる(はかり)は、私の心の中には無いのだよ」


 すなわち、それぞれがそれぞれに特別で。皆を同じように愛しているということ。

 

「ここには数え切れないほど足を運んだが……こんなに大人数で来るのは初めてだな」


 清流は墓石に視線を送る。この状況を桃花はどう思っているだろう。そもそも彼女は、ここにいるのだろうか。


 人は死ねば太源へ還る。氣に分解されて、またこの世界へ巡り来る。

 太源の息吹に包まれて、この世界はつめたくてあたたかい。

 そして時の流れは、かなしくて、いとしい。

 

「おや……見てくださいよ、師匠」


 不意に黄雲が声を上げた。彼が指差す先を見てみれば。


「桃が……」


 まだ食べるには早い、(わか)いはずだった桃が。

 たわわな実りをつける枝を、墓の上に重く差し伸べて。さきほどまで青かった果実は、ほんのりと赤く色付いていて。

 そこにいるのかと問うように、清流がそっと桃へ手を差し出せば。

 あの日、木に登った幼い桃花がそうしてくれたように。

 ほろりと手のひらに落ちる、桃。

 

「桃花……」


 見上げる視線の先。桃の葉は陽の光を浴びて。青空にそよいで。

 (ああ)、桃の夭夭(ようよう)たる──

 

 

 夏の青空に包まれて。

 畑仕事を終えた少女たちは、歌を歌いながらの帰り道。

 彼女たちの中心で、一人の娘が幸せそうに笑っている。

 桃の花のように愛らしいその笑顔。

 田園に、(いにしえ)の桃の歌が響き渡る。

 

 桃よ桃よ 若々しい桃よ

 燃えるようなその花

 この子が嫁いでいったなら

 きっと二人は似合いの夫婦

 

 桃よ桃よ 若々しい桃よ

 よく実ったその果実

 この子が嫁いでいったなら

 生まれてくる子は玉のよう

 

 桃よ桃よ 若々しい桃よ

 繁る若葉の青々しさ

 この子が嫁いでいったなら

 末葉(ばつよう)の世まで幸あれかし

 

 

──    ──    ──    ──



「詩経」国風・周南より


『 桃夭(とうよう)

 

  桃之夭夭   桃の夭々(えうえう)たる

  灼灼其華   灼々(しゃくしゃく)たるその華

  之子于歸   この子ここに(とつ)

  宜其室家   その室家に宜しからん

 

  桃之夭夭   桃の夭々たる

  有蕡其實   (ふん)たるその實あり

  之子于歸   この子ここに歸ぐ

  宜其家室   その家室に宜しからん

 

  桃之夭夭   桃の夭々たる

  其葉蓁蓁   その葉蓁々(しんしん)たり

  之子于歸   この子ここに歸ぐ

  宜其家人   その家人に宜しからん 』

 

 

 

※本文末尾『』内、参考文献より引用

(白川静 訳注『詩経国風』、平凡社 刊、一九九七年発行第四刷、六十五─六十六頁より)

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