2 雪蓮、危急存亡の秋
「無駄足でしたね」
先を歩く黄雲がぶっきらぼうに口を開く。こちらを振り返らず、前を向いたままで。
そうだね、と雪蓮は短く返した。こちらを見ない黄雲に、少々ほっとしつつ。
黄雲の言う通り、知府邸へ赴いたものの、知府へ目通りすることは叶わなかった。というのも。
「まさか隣県へ視察にお出かけとは。しかも五日は戻らないときた」
黄雲がつぶやく通り、崔知府、亮州近隣の県を見回っている最中だ。州知府は付近の県の行政や司法にも関わっているため、時折こうして数日ほど、視察の小旅行に出ることがある。
さて、往路は神将二人に清流道人も合わせて五人連れだった彼ら。復路の今は、黄雲と雪蓮の二人だけだ。
知府邸で崔知府の留守を知るなり、まずは神将二人。
「仕方ない、日を改めるとして。ならば私は市場へ行くとしよう。那吒、供を頼めるか」
「えー?」
「飴ちゃんを買ってやろう」
「しゃーねえなぁ……」
こんな調子で市場方面へ消えて行った。ちなみに彼ら、空飛ぶ輪や武器甲冑、三つ目などの物々しい特徴は全て術で隠し、一般市民風の出で立ちで街に溶け込んでいる。
とはいえ。さすがに美貌までは隠し切れず、道行く男女にキャーキャー言われて、目立つことこの上ないが。
そして、そんな彼らを酒を飲みつつ見送っていた清流道人は。
「おっと、酒が無くなってしまった」
瓢箪の酒を空けてしまい、いつものしたり顔でこう宣言するのである。
「すまない、私は酒を買いに行く。お前たちは先に帰っていなさい」
そして黒衣を翻し、わくわくの口調で「透瓶香! 透瓶香!」と目当ての酒の銘柄を連呼しつつ、これまた街へ消えて行くのであった。
そんなこんなの経緯で、黄雲と雪蓮は二人連れ。昼過ぎの南路街を、清流堂目指して歩いていた。
さきほどからぽつりぽつりと会話しつつ、二人は顔を合わせない。黄雲はスタスタと前を歩き、雪蓮もずっとその背を追っている。
(どうか黄雲くんが振り向きませんように!)
雪蓮、道中ずっとそう祈っている。そう、赤みのさした顔で。
出発前、黄雲が部屋に呼びに来た時には何とか対応できたものの。
それから時間が経つにつれ、あの恋物語の後の白昼夢をふと思い出したことも相まって、まともに彼の顔を見ることができないのだ。
真っ赤、というほどではないが、ほんのりと色付く頬。
それでもはた目に赤面していることは瞭然だし、雪蓮自身も顔に熱が上っていることがはっきり分かる。
(お願い、こっち見ないでっ)
だから、今の位置関係は非常にありがたい。顔を見られずに済むのだから。
さらに雪蓮にとって幸運なことに。清流堂の門前まで、彼が雪蓮を振り返ることは無かった。
あと少しをやり過ごせば。
雪蓮が紅潮した顔に緊張を浮かべていた時だった。
「!」
突如、周囲にビリリと走る殺気。
「お嬢さん!」と黄雲が後ろを振り返ろうとした時。
ダララッ。
彼目掛けて放たれる暗器。
すかさず後ろへ飛び退る黄雲を狙うように、地面に弧を描いて突き刺さるのは棒手裏剣。
「巽さん!?」
「こら巽! なんだいきなり!」
武器を見れば、誰が攻撃を仕掛けたかなんてすぐ分かる。
門の上を見上げれば、やはり予想通りの黒ずくめ。
木ノ枝巽は憤怒の形相で、黄雲を見下ろしている。
「やい! やいやいやい黄雲!」
巽は門から飛び降りて、非常な剣幕で黄雲に詰め寄った。
「やいてめえこの裏切り者!」
「裏切り者?」
身に覚えがない。黄雲は「はぁ?」と生意気眉毛を呆れさせる。
しかし、そんな彼の態度が火に油だったのか。巽はわなわなと肩を震わせて、余計に怒りを燃え上がらせている様子。
「ばっきゃろう! 身に覚えがないとは言わさんぞ! てめえ、せっちゃんと……せっちゃんと!」
「お嬢さんと?」
「なにかしら?」
要領を得ない巽の言葉に、今ばかりは雪蓮、赤面を忘れて黄雲と顔を見合わせる。
ニンジャはよっぽど怒り心頭なのか。盛大に口をどもらせながら、声高に叫んだ。
「だ、だからその! せっ、せっちゃんと、せっ、せっ……!」
「せっ?」
「せっぷ!」
「せっぷ?」
意味の分からない二人、呆然と目の前の黒ずくめを見守るしかない。
しかし、雪蓮は気付いてしまった。
巽の懐から、わずかに覗く書物の表紙に。よくよく見知った丸っこい筆跡で「秘密」と記してあるのが垣間見える。
「だ、だから! せっ、せっぷ、ああ言えねえ悔しすぎて!」
「!」
雪蓮、わかった。巽が何を言わんとしているのか。懐に何を隠し持っているのか。
彼女の行動は早かった。
「陰陽五行はじけてまざれ可憐に華麗にアルパチカブトー!」
帯の中にかくしていた白虎鏡を瞬時に構え、呪文を一息に発し。
顔を覆う白虎の面はともかくとして、その手に獲物の扠が現れるやいなや。
「成敗っ!」
「あっふん!」
扠を構えて間髪入れず巽に突っ込み、呆然とする黄雲の目前で極悪ニンジャを一撃必殺!
薙ぎ払われた巽が仰向けに宙を舞い、懐からバサバサと書物が散らばった。
「? これは……」
書物に目が留まった黄雲、ちょうど足元に飛んできた一冊を拾い上げようとするが。
「!」
白虎面の奥で目を血走らせた雪蓮が彼めがけ、瞬きよりも早く詰め寄り扠を振り上げる。
「キエーーッ!!」
奇声、そして一撃。
「うっ」
かくて黄雲はなんだかよく分からない急所を突かれ、その場へどうっと倒れ伏した。
少年、白目をむき口からは泡。
「良かった、うまいこと意識を失わせられたわっ……!」
ひと仕事終えたように、扠の柄を地面へ突き立てつつ雪蓮は汗を拭うが。
「……良くない!」
途端に我に返る。
「良くない良くない! あああ、私ったらはしたないわっ! 殿方を二人も倒してしまうなんてっ!」
黄雲くんしっかりして、と雪蓮は揺さぶるが、黄雲、「銭が八十六枚、銭が八十七枚目……」と何やら幸せそうなうわ言。
「あー、すっげえいい一撃だったわ! せっちゃんあざっす!」
そして何事も無かったかのように、ひょっこり巽が起き上がった。かなりの打撃だったはずだが。
「いやぁ、やっぱり女の子の本気の攻撃って超気持ちいい! もっといたぶってほしいくらいだぜっ!」
ぐっと拳を握りしめて力説するが、往来で言い放つにはかなり気持ちの悪い主張。
そんな気持ちの悪いニンジャに。
雪蓮は珍しく怒りの表情を浮かべ、キッと鋭い目つき。
「巽さん!」
語調も強めに、雪蓮は続ける。
「お話があります!」
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「……はっ!」
黄雲は目を覚ました。ガバリと起き上がってみると、自室の寝台の上である。
「……はて?」
黄雲、確か清流堂の門前にいたはずである。突然巽にケンカをけしかけられ、てんやわんやしていたはずだが。
うーんと腕を組んで記憶をまさぐっても、それ以上の事が思い出せない。
「そういえばお嬢さん……」
一緒にいた雪蓮を思い出し、氣を研ぎ澄ませてみる。
雪蓮の部屋は、黄雲の部屋の真上だが。彼女の金氣は真上の部屋からしっかり発せられている。
だが不可解なことに、同じ部屋から浮わっついた木氣まで感じるのだ。
「巽?」
なぜあのクソニンジャが、知府令嬢の部屋に。
黄雲、首をひねった。
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さて、場面は乙女の部屋へ。
巽に頼んで黄雲を彼の自室に寝かせた後。
窓の前で、雪蓮はぷんすかと仁王立ちしている。
その前で巽は正座させられているが、覆面の中に反省の面持ちはない。
「ねえ巽さん!」
強い口調で雪蓮は机上の本を指差す。
五冊積まれたそれは『秘密日記』。どうして巽がこの本を持っていたのか、雪蓮は尋問の真っ最中である。
「なぜこの日記帳を持っていたのかしら!」
「物盗りに入って偶然見つけた」
「物盗り!」
悪びれもせず平然と言ってのけるニンジャに、雪蓮瞠目。心を貫くは驚愕。
育ちの良い彼女に、巽の言動は刺激が強すぎた。
怒るでもなくただ呆然とする彼女に、巽はいけしゃあしゃあと開き直る。
「いやだってさ。こんなデカデカと『秘密』って書かれたら気になっちゃうじゃん?」
「は、はぁ……」
雪蓮は尋問も忘れて、ただただあっけに取られている。そんな彼女へ巽、軽い口調で読書感想まで述べる。
「文章は正直どうかと思うとこばっかだったけど、そこそこ面白かったぜ!」
「よっ、読んだんです!?」
「おう、全部」
「ぜんぶっ!!」
ふわっ。
魂魄が口から抜けそうな衝撃。
雪蓮の顔面は一瞬のうちに蒼白に変わる。
さよなら三魂七魄。
気分的に天へ召されそうな雪蓮だが、そんな彼女へ巽は小癪にも、「つーかせっちゃんさー」などと言い返す。
「なんなの! この最新の十五巻なんだけどさ!」
「え、えっ?」
「接吻したってマジかよ! 黄雲と!」
「ひえええっ!」
蒼白だった顔面、一転赤面へ。
いや、巽が日記を読んでいそうなことは、先ほどの門前でのやりとりで何となく察していた。
しかしこう明言されると。雪蓮、改めて赤面せざるを得ない。
「その反応……あの一節は妄想ではなくマジか!」
妄想と現実の入り混じる日記に、実はちょっと半信半疑だった巽である。
そして目の前の雪蓮の乙女な反応。顔は真っ赤で、仕草はもじもじ。恋する乙女然とした態度。
そんなものを見せつけられて、巽は黄雲に対してはらわた煮えくり返る思いだ。
「あいつ許せんな! 血祀りに上げてやる!」
怒髪天をつき嫉妬の嵐。
秘伝の殺法で冥府へ叩き込んでくれる! と息巻く巽はダッと駆け出し部屋から出ようとするが。雪蓮、すかさずばびゅんと回り込む。
「ままま、待って巽さん! お願い待って!」
「ええい止めてくれるなせっちゃんよ! 俺より先に女の子と口付けを交わすなど看過できん、あいつを殺して俺は生きる! んでもって全員に言いふらす!」
「ひええ! だから待って、お願い! このことはみんなには内緒だって、黄雲くんと約束してて……!」
懇願する良家の令嬢。
なんだかんだで女子に弱い巽、ふっと怒りを冷ました。
そして考え直す。これは弱みに付け込んでスケベを働く好機だと。
「……分かったよ、せっちゃん」
「巽さん……!」
物分かりの良いニンジャに、雪蓮はほっと安堵の表情を浮かべるが。
「よし、ならば交換条件だっ!」
「な、なんですって!?」
突如飛び出した交換条件なる言葉。
巽は途端にニヤニヤといやらしい表情で、条件を突きつける。
「黄雲の命は奪わず、みんなに言いふらすのもやめといてやろう。そのかわり……」
「そ、そのかわり……?」
ごくりと少女は固唾を飲む。
能天気な雪蓮とて分かる。このニンジャがロクな提案をするはずがないことを。
胸中を暗雲のように覆う嫌な予感。
そして巽、カッと開眼して言い放つ。
「そのかわり! 今すぐこの場で素っ裸になってもらうッ!」
「ええっ……!?」
予感的中。むしろ的中以外の未来などない。そう、ハレンチ以外の未来などないのだ。
先ほどまでは雪蓮が巽を尋問していたのに、もはや攻守逆転。雪蓮はハレンチの危機に立たされている。
「さあ、せっちゃん! いざいざいざ!」
「えええっ!?」
乙女として、まさに危急存亡の秋。
どうする雪蓮。どうする!




