5 飲めや飲め飲め、へべれけ大作戦!
部屋の見張りをしている宦官達に劉礼部侍郎への書簡を託けたとき、彼らはあからさまに嫌そうな顔をした。
早朝。後宮の廊下に、気まずい空気がわだかまる。
無理もない。現在王晠は軟禁中の身、外部の人間と連絡を取ることは、皇后により禁じられている。見張り達も当然、皇后の命令を受けているわけで。
「殿下、申し訳ありませんが……」
丸い顔をした宦官二人、声を揃えて王晠を諫めにかかる。慇懃に慇懃を重ね辞を尽くし、遠回しに婉曲に、「面倒事はやめてくれ」と必死の訴え。
まったくもって何もかも予想通りだ。
こんなこともあろうかと、用意しておいた台詞を少年は紡ぐ。
「……昨日一昨日と、貴殿らがこの部屋の前で気を失っていた件を黙っておいてやってるのは、はて、誰だろうなぁ?」
諫言を遮って、空々しく揚げ足を取ってみれば。宦官二人の顔から、さっと血の気が引く。
王晠の言の通り、この二人、二日連続で早朝に出入り口前で気絶していたところを、監視対象である王晠自身に発見されている。王晠はもちろん、彼らを失神させしめたのが麗しの美少女ネギ刻み係だと知ってはいるが。
「貴殿らの失態を母上に奏してみるのも……なるほど、大層面白そうだ」
「ご、ごごご! ご勘弁を!」
「りゅ、劉侍郎へのお手紙をお届けすればよろしいんですねっ!」
握った弱みは活かしてなんぼ。宦官達は王晠のしたためた書簡を大事そうに受け取ると、泡を食って走り去っていった。
その様を見送り、王晠、ぽつりと一言。
「ふむ……部下とはこのように動かせばいいのか」
「おまっ……嫌な上司になるぞ!」
部屋からこっそり成り行きを見守っていたものの、その一言にはつっこまざるを得ない那吒であった。
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さて、劉仲孝の屋敷では。
離れの中で清流堂一行が雁首揃えて密談にふけっているところ。
「よし、じゃあ今から役割を分担していこう」
子堅は懐から財布を取り出しながら、まず逍、遥、遊の悪ガキ三人組に指示を伝える。
「お前たちはおつかいだ。市場で買ってきてもらいたいものがある」
「おつかい?」
「何を買ってくればいいの?」
「仮髪だ」
仮髪。主に婦人が髪を結う際に用いる、毛量を多く見せるための添え毛である。
「なるべく、黒くツヤツヤしたものを選んできてくれ」
「いいけど……何に使うの?」
「もやし兄ちゃん……もしや頭頂部が……!」
「何の話だっ! 勝手に人の頭頂部を話題に出すんじゃないっ、私はまだ大丈夫だっ!」
なにやら勘違いのがきんちょ達に、崔子堅はおかんむり。
書生はひとしきりぷんすか怒ったかと思えば。
「……大丈夫だよな?」
「おれにきくな」
隣に座る火眼へ謎の確認。火眼も知ったこっちゃない。
さて、話の脱線はこの一行にとって珍しいことではない。つむじのあたりをさすりつつ何かを確かめながら、子堅は逍へ仮髪の代金を渡してやる。もちろん駄賃も含めた金額だ。
「で、火眼。お前は今まで通り、屋敷の女連中と雑談がてら情報を探ってくれ」
「むぅ……」
続いて告げられた自身の役目に、火眼は不満顔。
別に女と話すのは苦ではない。話を聞いているふりをして、眠っていても良いのならば。おあつらえ向きに、いま火眼に与えられている外套は寝顔を隠すのにぴったりだ。
しかし役目はあくまで「情報収集」。重要な事柄を聞き逃さないためにも、寝ている場合ではない火眼金睛。
憮然としている美少年はほっといて、子堅は続ける。
「それから私と玄智殿は、劉仲孝の身辺調査だ。奴の不在中に部屋に忍び入り、書物や書簡の類を調査する」
子堅は言いながら、目前の白猿と目を見かわした。玄智真人はゆっくりと頷いてみせる。
話がまとまりかけたところで、不意に子堅の懐から女の声が割って入る。瓢箪に入ったままの清流道人だ。
『子堅殿、私は』
「清流殿はそのまま瓢箪役を務めていてくだされ」
『その……酒を飲むのに予行練習などは?』
「必要ないでしょう」
『むぅ……』
あての外れた清流は置いといて。
「いいか皆、決行は明日の晩。それまではあくまでも自然に過ごし、決してボロを出すことの無いように」
子堅の声に、一同は揃って頷いた。
「さあ、今まで散々罰杯を喰らわされた分、劉の伯父上には思う存分酒に呑まれて頂こう」
けけけと悪い笑みを見せつつ子堅、声量は控えめに、けれども気持ちは大にして宣言する。
「いざっ、へべれけ大作戦だっ!」
そんなこんなで、あっという間に決行の夜が来た。
今晩の宴席は、都合の良いことにこじんまりした小部屋である。子堅は今まで何度かこの小部屋に通されたことがあるが、決まって内々の話がある時だ。今宵もきっと大人の汚い駆け引きの話を聞かされるのだろうが、最早話の内容なぞ関係ない。
いつものように鷹揚に子堅を待ち構えていた劉仲孝は、ぞろぞろと小部屋に入ってくる一行を唖然の面持ちで出迎えた。
普段宴席に招くのは、子堅と玄智の一人と一匹のみ。けれども今日は、子ども三人を連れた外套姿の下男までもが付いてくる。もちろん、子どもと外套の下男はお呼びでない。劉伯父、唖然の顔から一転、戸惑いの声で子堅に尋ねる。
「お、おい子堅くん……この者達は一体……!」
「いやはや突然のご無礼、大変申し訳ございません伯父上。 実はこの子達がですね……」
子堅はなははと笑いながら、ちらりと背後の子どもらに目配せ。応えて逍・遥・遊の三人は。
「いつもお世話になってる劉のおじさまに!」
「お酌をさせて!」
「くださいな!」
などと、無垢、かつ殊勝に言ってみせる。普段のクソガキぶりはどこへやらの、見事な猫かぶりっぷり。
続けて子堅は、外套をかぶった青年を指し示した。
「そして、こっちの下男はこの子らの兄でして……ほら李二、ご挨拶は?」
李二というのは、咄嗟に付けた火眼の偽名であるが。
「くー……」
李二、さっそく立ったまま爆睡。子堅と玄智から「おいこら!」と焦りの眼差しが飛ぶが。
「ふきゅう!」
こんなこともあろうかと、外套の中に仕込んでいた三尾が火眼の耳をがぶり。
「!」
はっと目を覚ました李二へ、すかさず子堅は伯父に気付かれぬよう肘鉄一発。すると火眼、慌てて口を開き。
「……劉老公、ごぶれいながら弟妹のわがまま、おききとどけいただけますとなによりでございます。もしそそうがございましたら、わたくしめがばつをおうけします」
あらかじめ覚えさせられていた台詞を滔々と、火眼は棒読み。
「ふぅむ、そうか……」
身分の低い使用人家族が同席する理由に、劉伯父はひとまず得心がいった様子である。しかし満点の演技力を発揮した子どもらに対し、火眼の全くのやる気のなさ。子堅と玄智は内心ハラハラ、外面にこにこで劉礼部侍郎の顔色を伺うが。
「はっはっは! そうだなそうだな! お前たちもこの屋敷に置いてやってるわけだし、タダ飯喰らいはいかんわな!」
ガハハと笑い、長い髯を撫でつつ伯父は上機嫌。
「いいともいいとも! ただわしの目は厳しいぞ! 一滴でもこぼしたら子どもといえど罰杯だぞ! ガハハ!」
すでに酔っ払っているかのような言いっぷりに、子堅は気付かれぬようにほっと息を吐いた。
ここしばらく劉邸に逗留して分かったのは、この伯父がめっぽうヨイショに弱いこと。ちょっとおべっかを使うだけでみるみる顔色が良くなるのだ。
(やれやれ、単純な伯父上で大助かりだ)
子堅、ひとまずは目論見通り。
青年の懐では、瓢箪が今か今かとその時を待っている。
下男と子どもが混じったからといって、いつもの宴会の流れが変わるではなく。
劉伯父は席の左右に妓女を侍らせて、ガハハガハハと一通りの自慢を終え。
「子堅くん! 酒が進んでおらんじゃないか!」
いつも通り目ざとく子堅の酒の減り具合を確かめて。
「さあ罰杯だ罰杯だ! 酒宴で飲まん者には罰杯だ!」
普段と変わらぬ調子で子堅に罰杯を強いる。
平常であればここで「うげっ」と顔色を青くする子堅であるが、今日はちがう。青びょうたんのクソ童貞書生、ここぞとばかりにニヤリと笑み。
「いやはや、伯父上には敵いませぬ。では失礼して」
はっはっは、と乾いた笑いとともに袖元で口元を隠すと、ゆっくり杯を傾けた。
酒液は子堅の喉元……ではなく胸元にこぼれ落ちる。衣越しにゴクゴクと、懐の瓢箪からは嚥下の音。
乾いた土が水を吸い込むように、衣には一滴たりともその跡は残らない。
「ぷはーっ! さあさあ、罰杯は干してみせましたぞ伯父上!」
わざとらしく飲み切った体で、子堅は伯父へ杯を逆さにして見せつける。もちろん一滴たりとも残ってはいない。
「まあ……!」
「むむ、強めの酒のはずなのに……あの甥っこにしては見事な飲みっぷり」
「はっはっは、伯父上にはここのところ、連日連夜鍛えられましたからな! はっはっは!」
青年の突然の上戸っぷりに、劉仲孝と左右の美女は驚いた様子。子どもらは「すごいすごーい!」と、どこか空々しい拍手喝采。
一驚を誘ったところで、子堅はすかさず口を開いた。
「さて伯父上。もし宜しければ余興などいかがでしょう」
「余興?」
「実のところ、私は毎晩のように罰杯を仰がされていささか面白くありません。というわけで、伯父上にも罰杯を召し上がる機会を設けさせて頂きたい」
若造の言い分に、劉仲孝はふふんと鼻にかかった笑いを発した。
「ふむふむ、飲みっぷりは良くとも酔いが回るのは早いと見える。いいだろう、どんな余興だ? 少々なら付き合って進ぜよう」
完全に侮った口調だ。普段、子堅が早々に前後不覚になってしまうからだが、ともかく好機である。
玄智が横から恭しく差し出す扇子を手に取り、子堅、ばさっとそれを広げてみせる。
「的当て、なんぞいかがでしょう」
真っ白な扇の真ん中に、朱墨でぽつりと点を描き。
「これを子ども達に掲げさせ、的としましょう」
投げるのはこれです、と子堅は手元にあったものを手に持って示してみせる。
劉仲孝、髯を撫でつつそれを怪訝な顔で覗き込み、一言。
「箸……?」
「そうです、箸です」
子堅は箸を一本、少し不器用に持ってみせると、的へ向けて投げる真似をしつつ。
「これを投げて、あの赤い点に当たった者の勝ち。外した方は罰杯です」
「ほーん……」
的当ての取り決めは至極単純である。説明すると、伯父はニタリと笑ってみせる。
「ふむふむ、なるほど! 委細承知した! わしはこの手の勝負、強いぞ子堅くん! 覚悟しておけ、絶対にへべれけにしてやろうぞ!」
散々方々で座敷遊びを嗜んできたのだろう。
がははのは! と自信満々に言い切る劉仲孝だが。
「もやし兄ちゃん、準備できたよっ!」
的の持ち手役を任された遊が、扇を頭上に掲げるや否や。
「ひとつっ!」
子堅、容赦なく一息に箸を投げ、的を穿つ。一瞬の挙措。
「……へ?」
伯父、一拍遅れて気づいた。扇のど真ん中、赤い点はすっかりただの穴と化し。
壁には突き刺さったばかりの箸が、衝撃そのままにびぃんと震えている。
一同、瞠目。
「は……え?」
いまだに何が起こったか理解できていない劉仲孝。左右の妓女もぽかんとしているが、的当てはまだ始まったばかり。
「はいっ、今度はこっち!」
「な、なんだ!?」
今度は卓の下から、遥が扇を持って飛び出した。
完全に出遅れた伯父を差し置いて。
「ふたつっ!」
子堅、容赦なく二撃目。過たず撃ち抜かれる二枚目の扇、もちろんど真ん中!
「あ、あわわ、ちょ、ちょっと待て! これどんどん的が出てくる感じかい子堅くんっ!」
「はい次!」
「あわわ!」
慌てる伯父、冷徹に的を射抜く甥。
「みっつ!」
逍が火眼の頭上に掲げてみせた的も、つつがなく貫いて。
子堅、手元で箸をじゃらじゃらさせつつ余裕の表情である。
「はっはっは、さっそくですが伯父上! いきなり三つ討ち取らせて頂きました! さあさあ、罰杯を!」
「た、たわけっ!」
いきなり調子を狂わされた伯父はおかんむりだ。無理もない。もっとゆったりと愉しむ遊戯を予想していたのだろう。次から次に的が出てくる形式とは思わなかったに違いない。
それに一番の誤算は。
「きっ、聞いてないぞ! き、きみが的当ての手練れなどとは……!」
伯父は予想だにしていなかったのだろう、子堅にこんな特技があるだなどと。
瞬時に標的を穿つ、箸投げ……いや、棒手裏剣の腕前。いつぞやスケベ忍軍において、女性の衣を裂くために習得した絶技である。まさかこんなところで役に立つ日がくるなんて。
棒手裏剣はにっくきクソニンジャ・木ノ枝巽より伝授されたものである。正直この特技を使うのは癪ではあるが、背に腹は代えられぬし、妹のため、なりふり構っていられない。
「まあ……意外な特技がおありなのね」
「素敵……」
「いやぁ、ははは」
伯父の左右を固めていた妓女がここぞとばかりに褒めそやしてくるので、子堅はついにへらっと照れた顔。女性に弱いのは相変わらずである。
「うぉっほん! 子堅殿!?」
「あっハイ」
玄智がすかさず咎めの咳払い。子堅、我に返る。若干の気まずさを感じるが、ともかく伯父に罰杯を仰がせねばならない。
子堅、スッと居住まいを正し、ひとまず謙遜して伯父を宥めようとするが。
「勉学の合間の手慰みに覚えた遊びでございますれば、大したものでは」
「ふんふん小癪な! 自分の得意分野で挑んできおって、なにが余興だっ! わしゃもうやめる!」
劉仲孝はやっぱりのご機嫌斜めである。ぷんすかと乱暴に席に着く伯父だが、子堅は慌てない。実はこの伯父──
「伯父上……勝負事を途中で投げ出すのです?」
「むっ……!」
相当の負けず嫌いであった。
「いや、私はいいんですよ。伯父上のご気分害してしまいましたし、自分の得意なことで伯父上から勝利を奪おうとしたこと、大人げなく思います」
「むむむ……」
「ああ、でも伯父上と思いっきり勝ち負けを争ってみたかったなぁ……不利を覆すのが伯父上と、私は思うておりましたから……!」
「ぐぬぬ!」
適度に持ち上げつつ、適度に勝負心を刺激する。そんな甥っこの台詞回しに。
「そ、そこまで言うならいいだろう! いいか子堅よ、よく見ておれっ! わしの箸が百の的を貫く様をなっ!」
面白いくらいに乗せられて、白熱してしまう劉礼部侍郎であった。
「さすが伯父上。ではさっそく罰杯三杯」
「ぐぬーっ! いいか今のは前哨戦だからな! 今に見ておれよ!」
うまいこと最初の負け分の杯を伯父に干させたところで。
「では第一回! 伯父対甥による的当て対決……はじめっ!」
かくして玄智の合図により、伯父と甥の死闘が始まった。
劉仲孝は戦った。覚束ない仕草で箸を持ち、長い髯を振り乱し、次々現れる的を懸命に狙い続けた。
時折子堅が狙いを外すたび、伯父は大人げなく狂喜して喜んだ。甥が彼を調子に乗せるため、わざと外しているだなどとは露ほどにも思いもせずに。
罰杯も喜んで飲んだ。飲めば飲むほど命中率が上がる気がした。もちろん気のせいである。
「はい五十枚目!」
「うりゃーっ!」
しかと狙いを定めて撃ちだした一投が、奇跡的に見事命中。
「はっはー! やったぞ、当たったぞ!」
諸手を振り上げ子どものように喜びを表現する礼部侍郎。
子堅は「あちゃー」とやられた風を装いながら、妓女から酒杯を受け取り、罰の一杯を煽る。
が、もちろん飲んだふり。先のように袖で口元を隠し、うまうまと酒をこぼして懐の瓢箪へ。清流瓢箪、喉を鳴らして美酒を堪能し。
『かーっ! 五臓六腑にしみわたるーっ!』
瓢箪の内で、彼女の五臓六腑は一体如何様になっているのか。ともかく清流、沈黙を忘れて快哉を叫ぶ。
「ん? いま女の声がせんだったか?」
とろんと垂れ下がった目元で劉伯父、一応は気にするが、
「ま、いいか! さあ次だ次だ勝負だ勝負!」
もはや怪奇現象も気にせぬへべれけ具合。しまいには。
「ほれほれ、お前達も投げんか投げんか!」
「ええ……私たちまで?」
妓女たちまで巻き込んで、一対三で勝負を挑む。
もちろん棒手裏剣の心得が彼女らにあるはずもなく。
「あっ……」
「はい外したっ!」
「お姉ちゃんたちいきなり罰杯だよーっ!」
「はいお猿師匠はお酒注いで!」
一投目で早くも罰杯の餌食。しかし妓女の二人、宴席にいるとはいえ一応は仕事中である。
「そ、その……私たちは……」
「お勤めの最中だし……」
遠慮する彼女らだが、こういう時の最終兵器がこの場に一人。
遊、おもむろに火眼の背後に回ると、
「三尾ちゃん、耳!」
「ふきゅう!」
ひょいっと彼の外套を剥ぐ。ついでに三尾が火眼の耳を噛めば。
「!」
露わになる白髪、微睡を破られ見開かれる炎の瞳。あっという間に美少年。
「きゃっ……!」
「きゃああああっ!」
そしてお約束のように上がる黄色い悲鳴。頬を紅潮させ、妓女二人はまんまと一気に昂った。
遊はすかさず火眼に耳打ち。
「火眼にーちゃん、ごにょごにょ……」
「? それをおれがいえばいいのか? めんどくさ……」
「いいからはよ言え股間蹴られたい!?」
「それわりといたいからやめてほしい」
幼女に脅され、仕方なく火眼は口を開く。紅い眼差しで、妓女たちをしっかり捉え。
「きみのばっぱいにかんぱい」
火眼の一言に、しばし謎の沈黙。
男性陣は、意味不明なその台詞に白けているが。
「はあああああん!」
妓女達、とろけたような嬌声。
「飲みます! 飲みますいくらでもーっ!」
「おらよこせ猿!」
玄智から杯を奪い取るや否や、ぐびぐびと酒を喉に流し込み始める。
その様に、遊は黄雲や清流さながらのしたり顔。幼女、女心の篭絡には滅法自信がある。
「ふふふ、女はね……美男と、美男の発する意味ありげだけど特に意味のない言葉が好きなのよ……!」
「遊ちゃんそういうのどこで覚えてくるの?」
子堅が呆れているがともかく。
「ほら火眼にーちゃん、お酌してあげなよーっ!」
「な、なぜおれが……」
「いいからとっとと酔い潰してこいっ!」
遊は火眼に酒壺を持たせると、容赦なく尻に蹴りを入れて送り出す。
そう、今宵の宴の目的は。
劉仲孝を酔わせて酔わせて酔い潰すこと。ついでに同席している妓女もへべれけ三昧。
『子堅殿! 子堅殿酒が足りぬ! 的を外しまくって酒をもっともっと! うひゃーっ!』
「うひゃーじゃないでしょ! 清流殿に飲ませることが目的じゃないんですからね!」
目的をはき違えてるクソ飲んだくれに、子堅は内心ガッカリである。おっぱいが無いととても付き合っていられない。
とにもかくにもどんちゃん騒ぎ。
夜は更け、空は次第に白んでいき。
妓女二人は早くも酔眠し。
罰杯煽ること八十回、劉仲孝、礼部侍郎。
「ふぁ……わしの……勝ち……だ」
床に仰臥しながら掲げる右手、その手の内には震える箸。
「くかぁ……」
箸は投げられることなく、くたんと床におろされる。そして続くは安らかな寝息。
遂に陥落、劉仲孝。
夜を徹して盛りつぶしたのだ。しばらく起きられないだろう。
「よし! 伯父上を倒した……!」
子堅、日頃の溜飲が下がるのもあって、なんとも清々しい気分。懐から『酒ぇ……』と情けない声が響くのも、いまはどうでもいい。
が、勝利の気分にいつまでも浸っているわけにはいかない。
「もやし兄ちゃん!」
「分かってる! 遊ちゃんは仮髪の用意! 逍くんは荷の準備!」
「おれは!? 遥は!?」
「きみは……伯父上を縛り上げてくれ!」
「へへっ、分かってるじゃねえか……超絶特技よ!」
御覧じろおれの縛りの技をよ! ……などと遥は実に気合いの入った様子で劉仲孝を縛り上げるが、誰も見ていない。
『はー……たらふく飲んだ……』
「まったく、バカ弟子の酒飲みが、こんな風に役に立つとは……」
玄智は愛弟子の飲みっぷりに呆れていて。
「ほら、火眼にーちゃん立って」
「こわい……おんなこわい……」
何があったのか、火眼は震えながら逍に介抱されている。彼の両の頬には口紅の跡、なんだか腹立たしい子堅である。
「はい、もやし兄ちゃん! 仮髪だよ!」
「よしきた! それじゃあ早速、こんなところとはおさらばだ!」
言いつつ、子堅は遊から手渡された仮髪を──口元に装着。
伯父の特徴はツヤツヤとした黒い美髯。それを模したニセ髯である。
子堅は母方の血が強いらしく、目元は伯父と瓜二つ。ニセ髯のお陰で、子堅は面白いくらいに伯父そっくりに仕上がった。
ついでにとばかり、こっそり拝借した伯父の官服に着替えれば。
「おおっ、どこからどう見ても礼部侍郎!」
「ははは、嬉しくないもんだ!」
即席劉仲孝の完成である。
本物は遥に縛り上げられ、床に転がされている。
「遥くん……妓女のお二人まで縛る必要は……」
「色っぺえと思ってつい!」
「うん、すごく色っぽい……いい仕事だよ遥くん……」
「もう、バカなこと言ってないで! 股蹴り上げんぞクソ野郎共!」
ともかく、猿轡まで噛ませる手練れの仕事をしてくれた遥のお陰で、しばらく劉伯父達は身動き取れないだろう。
夜明け前のこの時間、屋敷の家人は皆寝入っている様子。一同はバカ騒ぎもそこそこに、息をひそめて荷をまとめ、こっそり屋敷を去ろうとする。
庭に出て厩舎から紅箭を連れ出したときだった。
「もし、もし!」
劉邸の門を敲く音と呼ばう声。
清流堂の一行は顔を見合わせて、子堅がオホンと咳ばらいを一つ。
伯父に扮した書生はそっと門を開くと、夜明け前の客を誰何した。
「……どなただろうか」
「りゅ、劉礼部侍郎!」
門前にいたのは、丸い顔の男が二人。劉仲孝の知人だろうか。よくできた変装と周囲の薄暗さが幸いして、子堅のことをすっかり劉伯父と勘違いしているようであるが。
「我ら、第二太子殿下からの使いでして……」
「文をお渡しするようにと、仰せつかっております」
「ふむ」
男二人はひそひそと、周囲を窺うように用件を告げると、押し付けるように子堅へ文を手渡した。
「で、では我らは主命を果たしましたゆえ!」
「これにて御免!」
役目を終えると、丸顔男たちは一目散に禁城方面へと去っていく。まるで主命とやらが、厄介事だと言わんばかりの勢いだ。
「なんなんだ?」
子堅はその後ろ姿をしばし見送ると、ふと押し付けられた文へ視線を落とす。
劉仲孝宛ての文。
品の良い上質な紙に認められているのは、劉礼部侍郎という宛名と『第二太子王晠』の署名。
物々しく捺された皇族の印に、子堅はにやりとほくそ笑んだ。
劉仲孝が宮中で属する派閥の、その中心人物。
「子堅殿、今のは……!」
「うむ、玄智殿。少しずつ、妹に近付いているかもしれんな我々は……!」
子堅は兄の顔で空を仰いだ。
明るくなってきた天に、淡い曙光が差し始めている。




