9 類、襲撃
しかし二郎真君の表情は再び真面目一色に戻る。そしてさらに宿る深刻な気色。神将、口を開いて曰く。
「しかし、雪蓮殿が贋作に近しい状態にあるということはやはり、由々しき事態だ。貴殿ならばよくよくご存じのことと思うが、早晩、身魂に異変が表れてくる頃だろう」
涼やかな目元をいささか細めて、二郎神。
「……あまり予期したくないことではあるが、貴殿と火眼少年にとって、彼女は災いとなるだろう。貴殿はともかく、火眼少年の処遇をどうするか、考えた方がいい」
それも懸念していたことだった。贋作に近しい状態とは、つまり──。
「それと」
清流道人の思考は、二郎真君の声に遮られる。
「やはりこの遺跡は、月に──嫦娥に関係したものであるように思う。ここを見てほしい」
言いつつ壁際へと歩み寄り、不可解な文様の刻まれたそこに触れ、神将は。
「ここに刻まれている文字は……この太華では使われていないものだ。しかしながら、この文字が示す内容は、一様に月に関わる事柄ばかり。例えばこの一文」
清流へ語り掛けつつ、彼の白い指が、丸っこい、横書きの文章を左から右へなぞる。
「これはこの地上から、月までの距離を示している。太華で使われている単位に直すと、約六十七万里の彼方にあるということだ」
他の文章も、月の岩石を構成する物質であったり、大気の組成であったり。そういった月にまつわる情報を示したものであるらしい。
清流にとっては、それらの内容自体はちんぷんかんぷんだ。月が地上からやたらと離れた距離にあることは驚きであったが、月の表面を覆う砂塵は半分ほど酸素で構成されてるだとか、大気がほぼ真空であるとか、その大半が彼女の持つ科学の知識からかけ離れた内容だ。
二郎真君も別に彼女へ月の情報を講義したいわけではなく、重要なのはこの遺跡に『月にまつわる情報が記されていた』ということで。
「……つまり、この遺跡は月に関わりが深いと。月に特別な意味を見出している者が造ったのではないかと……あなたはそう見ているわけだな?」
二郎真君が言いたいであろうことを彼女が口にすると、神将は静かにうなずいた。
「左様。それも、今まで見てきたように、この遺跡には霊薬に反応する仕掛けが多数施されている」
月とは、嫦娥の領域。
つまりこの遺跡を通してみれば、霊薬と月──引いては嫦娥との間に、つながりがあるということだ。
「…………」
この符合に、清流も二郎真君もしばし黙り込む。清流にはこの部屋に刻まれた文字の意味はさっぱり読み取れないが、それが月を示すというのなら、その意義はやはり看過できない。
ところがふと、二郎真君の面立ちへ戸惑いの色が浮かぶ。そして彼の口から紡がれるのは、弁明だ。
「……しかし、貴殿が知らぬであろう、月にまつわるアレコレだの未知の文字だのを判断材料とさせてしまうところは、まったくもって申し訳ない。ただこれは私が解読したことで、私が知る月の知識に因るところ……すなわち、私を信じてくれとしか言いようがない」
例えば、この部屋に分かりやすく月の図像でも飾られていたならば、話は簡単に済んだだろう。
しかし現状そうではない。この石室を彩るのは、無機質な未知の言語による文章の羅列のみ。太華の言葉しか知らぬ者を韜晦するかのように、月に関する詳細な情報が秘されていたということだ。
真君は申し訳なさそうに、かつ困ったように、少しだけ眉尻を下げた。真面目な神将は、己が推論を信用させるに足る前提知識がそもそも清流に無いことを、どうやら歯がゆく思っているようだ。
齢五百歳とはいえ、地上に生きる彼女と、九天の彼方に住まう神仙。心身を成すものも違えば、持ち得る知識の量も性質も違う。二郎神も地上の者とこういった形で情報を共有することは慣れていないらしく、ただただ美しい顔には困惑と誠意ばかりが浮かんでいた。
「疑うものですか」
そんな彼へ、短くはっきりと清流は告げる。道人は苦笑まじりだ。
「先ほども申し上げた通り、貴殿のことは信頼している」
疑う気などない。先ほどの彼の独白の通り、この神将は天地を満たす森羅万象のすべてを愛している。その彼が雪蓮を救うため、真摯に己が智を使っていることへ、疑義など呈しようはずもない。しかし。
気になる点が、ひとつ。
「それにしても……我々には見たこともない文字ですが」
自身も壁の文字へ指を触れさせながら、清流は尋ねる。壁の文字は簡素で、丸っこい字体だ。それを左から右へ書き連ねて記述するものらしいが。
「それにしても、これは一体どこで使われている言語です?」
「…………」
清流の問いに、二郎真君は壁の文字を見つめたまま無言だ。何事か考えているのか、しばし神将は押し黙り。
ややあって。
「これは……天界にのみ、伝わっている文字。日常的に使っているものではないが……」
「ふむ……」
真面目の神将の語り口は、この言語に関してのみ、どこか訥々としている。
なんとなく、言葉を濁されたような気がしないでもない。しかし、天界でのみ流通している言語がこの遺跡に使われている、ということは。
「やはり、ここを造ったのは天界の関係者、ということになろうか」
「十中八九そうだろう」
清流の言に同意を示し、神将はさらに付け加える。
「そしてこの壁一面の文字が語るように、嫦娥の関与が最も疑わしい。鴻鈞道人の関与があったかまでは、今のところ分からぬが……」
ともかく、と真君は清流へ切り出した。
「清流殿。私は先も申し上げた通り、これから天界へ戻ろうと思う。霊薬に嫦娥……この二つを調べなければ」
二郎神は清流の方へ真っ直ぐ向きなおり、そう告げた。
「約束通り、ここでの話は無かったものとしてくれ。那吒には、私は玉皇大帝へ報告に向かったと伝えてほしい。また、しばらく地上へは戻らぬと」
「…………」
清流はまだ、少し文字のことが気にかかっていた。どうしてこの神将は、重要な事柄であるだろうに、詳細を語らなかったのか。
天界にのみ伝わっている文字。しかし、丸っこい形状に、なおかつ横書きという特殊な記述法。遥か西方の文字に似ている気もするが、清流は他国の言語にとんと疎い。
先ほど真君は、「日常的に使っているものではない」と言った。
ならば、どういう時に使うのか。どういう成り立ちで、どういう経緯を経て天界に伝えられているものなのか。
どうしてこの遺跡には、この文字が使われているのか。
もっと深くまで情報を聞き出したかったが、先ほどの二郎神の訥々とした口調を思い出し、清流はそれ以上の追及を諦めた。
なにか、語れぬ事情があるのだろうか。
(機がくれば、教えてくれるだろうか)
文字のことはいったん頭の片隅へ追いやり、「承知した」と清流は二郎真君へ応える。
そして、彼女なりにしなければならないことが、ひとつ。
「ならば二郎殿。私は例の老人を追う。雪蓮をこの遺跡へ導いたかの老人、霊薬や鴻鈞道人との関わり、見極めなければ」
それが地上に残る彼女の役目。もともと、二郎真君との共闘関係がなくともするつもりだったことだ。
老人の身辺を探り、霊薬関連の事柄を洗い出すこともそうだが、他にも気にかかっていることがある。
清流の申し出に、二郎真君はしっかりと頷いて見せた。
「よろしくお頼み申す。件の老人は明らかに関係者、必ずや霊薬に関する事情を知っているはずだ」
「……そうだな」
互いの使命を確かめて。
「私は、もう少しここを調べてから天上へ昇るとしよう。貴殿は?」
再び部屋中央の祭壇へ向かいつつ問いかける二郎真君へ、清流道人は後ろ頭をボリボリかきむしりながら口を開く。
「私は……清流堂へ戻ります。例の老人に関して、二、三弟子に確かめたいことがありますゆえ」
そうして、清流は最上階の部屋の窓からひょいと顔を出し。
二郎真君へ、他愛ない別れの挨拶を二言三言。すでに、認識阻害の術式は再度解除されている。
道人は努めて何でもない素振りで二郎真君と別れると、巍巍たる岩山をひょいひょいと、猿のような身軽さで下っていった。
地上に降り立ち湖へ近付けば、たちまち彼女の姿は水と化す。
そのまま湖の中を、亮州城内へ続く水路を、凄まじい速度で清流堂めがけ、さかのぼった。
液体に化身しながら思うことは、件の老人のことだ。
霊薬を巡り暗躍する、謎の人物。その側面ももちろん重大ではあるのだが。
彼が黄雲へ接触した際のやり取りが、どうにも胸に引っかかっている。
(生年月日……)
雪蓮を介し、黄雲が生まれ年や月日を聞き出されそうになったという、些細といえば些細な一事。
(気にし過ぎだろうか)
先ほど、弟子が地下室の鍵を閉め忘れたと申告したことも、この不安を手伝っているのかもしれない。
ともかく、早く戻ろう。住処へ。
水流に溶け込みながら、清流は帰路を急いだ。
── ── ──
清流道人が場を辞してから。
二郎真君は、目前の壁を、かつてないほどの困惑の表情で見上げていた。
(これは……)
先ほど、清流道人の問いには言葉を濁してしまったが、彼は嘘を言ったわけではない。ただ、認識阻害の術に守られた中でさえ、それについて余すことなく語ることは憚られた。
清流道人への信頼が無かったわけではない。彼女はきっと二郎真君との会話を胸の内にだけおさめ、よしんば神仙のみが知り得る智慧を授けたとて、悪用なぞするはずもないだろう。
ただ、天界における最重要の機密に関わるものを、地上の者へおいそれと開陳するわけにもいかない。ここに記されてる文字は、そういう類のものだった。
つ、と文字へ指を触れさせる。太華の文字のような複雑さはなく、簡素な字体だ。
ここに記されたものとほぼ同様の文字を使う地域は、実はこの現代の下界に在る。太華から遠く西の方面、白い肌の人々が住まう地域だ。また、数字を表わす一部の文字はさらに別の地域に由来している。
使われている文字自体は、確かにこの世界に実在している。
しかし、その文字と数字を組み合わせ、記された内容は。
(数式と、化学式……)
そして。
(元素記号……)
下界の科学技術ではまだ見出されていない、元素、及び原子を表すもの。
それはまだ、この世界に『在ってはならぬもの』。
天界の神仙の間では、元素や原子の存在自体はかなり以前から周知されていたが、西方文字による元素表記を知っている者は稀だ。というより、高位の神仙か、よほど古い神でしか知る権利を持たない。
玉皇大帝の甥という身分であった二郎真君は、その数少ない中の一人であった。だから、目の前に確固として刻まれている『元素記号』に疑念を覚える。
(この遺跡を造ったのは、『天数』を識る者か)
天数。世界運用の指針。天上において、最も尊ばれ、厳かに守られ、そして秘匿されるべきもの。
識る者は、限られている。脳裏には鴻鈞道人の面影が去来し、そして。
(この記号は、未来の──)
記号に触れた指先に、力が籠る。
(天数……霊薬……)
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「黄雲くん、これ……」
おずおずと差し出されたそれに、目を留めて。黄雲は少し目を見開いた後、憮然とした面持ちで雪蓮の手からそれを受け取った。
白玉の、帯飾り。
少し日の傾いた清流堂の庭、門の付近にて。黄雲は自室から、雪蓮と巽の二人を追い出したところ。しっしっと追い払う黄雲にめげず、雪蓮が差し出したのがそれだった。
受け取ったそれをしまいつつ。
「まったく……勝手に持ち出さないでくださいよ。これ、もう僕の私有財産なんですけど」
「まだ持ってたんだね、それ……!」
気恥ずかしさから黄雲は彼女から目を逸らし気味だが、雪蓮の方から聞こえる声は、なんとなく嬉し気だ。どうやら憎まれ口も通じていないようで。
少し視線を傾けて彼女を見れば、にやけ顔。
「ちょっと、なにニヤニヤしてるんです? きっしょくわるい……」
「えへへ、大事にしてくれてありがとう!」
「質屋に入れる時機を見計らっていただけですからね! 断じて他意は無い!」
「うふふ、これからも大事にしてほしいなぁ……なんて!」
「通じねえな話が!」
令嬢は上機嫌。黄雲はというと、先刻、膻中への一撃により破られた養生の術はすっかり回復し、顔色はすでに普段通りのクソ生意気一色だったが、内心はまんざらでもない。
なんとなし、周囲には青春の雰囲気が漂っていて、だがしかし。
こういう空気をぶち壊すのは、お約束のこの男である。
「忘れないでやってくれせっちゃん! そいつがこんな本も大事にしまいこんでいやがった、ドすけべだってことを!」
巽、思春期連中の目前へ仁王立ち。片手に広げて見せるは例のスケベな逸品、房中術の道術書。そして開いた紙面に踊る、えげつない挿絵。
雪蓮、一瞬息をのみ。
「きゃあああああっ!!」
そんな予想通りの乙女の反応に。
「だから見せるんじゃないというに!!」
木剣振りかざし抗議の黄雲だが、クソニンジャは三白眼を釣り上げて、あくまでも悪びれない。クソなやっかみは黄雲へ向けられる。
「るっせー! 結局お前もこういうの大好きなむっつりじゃねえか、うらうらうらー!」
「や、やめっ……直視させんな! んでむっつりとは失敬な、僕それえげつなさすぎて最初の三行しか読んでないっつの!」
「ほんとかーっ!? ほんとに三行だけかーっ!?」
「うっさいわ!」
巽の下世話すぎる詰問へ一喝。それにしても、今日は黄雲、様々な秘密を暴露されてしまった。
永遠に秘しておきたかった、生年月日や諱はもちろんのこと。
こっそり隠していた白玉の帯飾りに、スケベ本まで。さらに養生の術まで破られた。地下室は薄暗かったとはいえ、赤面はばっちり見られたはずだ。
スケベな本を手に「やーいやーい」などと周囲をぐるぐる回るニンジャに羞恥心を抉られつつ、黄雲は「ぐぬぬ」と苦虫をかみつぶしたような顔。
──これからどんな顔をして生きていけばいい?
──いままさに、目をふさいで地面にしゃがみこんでいる箱入り娘へ、なんと言葉をかけたらいい?
──そしてこのクソニンジャは殺さねばならぬ。
少年の煩悶なんて構わずに。
「ほらほら黄雲、ぼさっとしてんなよ!」
「おわっ!」
巽は不意に背後から、黄雲の尻を蹴っ飛ばした。均衡を崩し、彼が倒れこんだ先は。
「きゃっ!」
「あだっ!」
しゃがみ込んでいた雪蓮だ。ずったかたんと倒れこんだ二人、図らずも少年が少女を押し倒す形、そう、思春期には毒な体勢。しかも黄雲を受け止めようとした雪蓮の指が押さえた先は……膻中。
黄雲の養生の術は解除されるし、雪蓮も九字を結ぶどころではないし。
「…………っ」
もはや、二人そろって言葉を失い、赤面で見つめあうほかない。
しかしそれも一瞬のこと。
「ご、ごごご、ごめんなさい! 失礼をば!」
「わ、わわわ! あ、あの、あのあのあの!」
少年少女は我に返るやいなや、互いにすぐさま身を離し、明後日の方をむき。
「やいやいやいクソニンジャ!」
黄雲は怒りと照れ隠しの矛先を、巽へ向けた。ニンジャといえば黄雲からのお咎めを察知して、門の上へヒラリ。屋根の瓦を踏みしめ腕組み、やっぱり悪びれない表情で二人を見下ろしていた。
「いいじゃん怒るなよ、手伝ってやっただけじゃん?」
「何が手伝うだ、とんでもないことしてくれやがって! 誰かに見られたらどうしてくれる!」
激昂する黄雲へ、巽は「へぇ」と呆れたようにため息。そして黄雲と雪蓮を順に眺めながら、さらに一言。
「お前らさあ……もういいじゃん? 分かってんだろ、互いをどう思ってるかなんてさ」
「!」
巽が放ったのは、核心をつくような台詞。まるで黄雲と雪蓮の心中を見透かしたような言葉に、ニンジャを見上げる二人の胸の内が同時にドキンと脈を打つ。
「まったく、なんつーかさあ! 無駄な意地だとか世間体なんか捨てちまえってんだ! そんで遂げちまえよ、本懐ってやつをさ!」
本懐、のあたりで房中術の書を見せびらかすようにかざして見せて。
「……人生、ヤりたいことはヤっとかねえと損だぜ? マジで」
三白眼を意地悪にニヤつかせ、ニンジャはおせっかいな言葉を投げつける。
巽の言いたいことはつまり、一言でいうなら「まぐわえ」。
性欲強めの主張に、黄雲は真っ赤な顔のままわなわな肩を震わせて、キッと頭上の黒ずくめをにらみつけた。
「ば……バカ! バカクソニンジャ! いますぐ降りてこい!」
「やなこったーい。後は若い二人にお任せするぜ、じゃあな!」
ニンジャ、捨て台詞を吐いてぴょんこらと。
門から跳躍し、向かいの家の屋根へ。そして身軽に家々の屋根を伝い、繁華街の方面へ逃げていく。
「まっ、待てこら! クソニンジャ! この空気なんとかしていけーっ!」
黄雲、真っ赤な顔で追いすがるが後の祭り。ニンジャは逃げおおせ姿を消し、門から飛び出した黄雲にできることと言えば、せいぜい舌打ちくらい。
「ちっ……!」
「ねえ、黄雲くん」
「うっ!」
そしてクソニンジャの後に来襲するは、箱入り娘。次から次へと、黄雲、たまったものではない。
さて、雪蓮も門から路地へ出て、黄雲の隣へ並び立つと。
「巽さんの言ってた『ほんかい』って、いったい何かしら?」
ぽんやりつぶやく素朴な疑問。
ほんかいってなにかしら、なんて質問にまさか「まぐわうことですよ」と返すわけにもいかず。
「…………分かってなかったんです?」
「黄雲くんは意味が分かるの?」
「……いやぁ」
黄雲、とりあえずはぐらかす。相も変わらず、真っ赤な顔だ。
そんな彼の横顔を、やっぱり彼女も真っ赤な顔で振り返り。
「ねえ、黄雲くん!」
「なんですか?」
「顔……真っ赤!」
意を決した様子で、少女は指摘した。昼下がりの空の下、黄雲の顔色はさらに深い赤に染まる。
そんな思春期少年へ、これまた思春期少女も語り始める。たどたどしい、けれど初々しい口調で。
「私ね、黄雲くんって全然顔色も変わらないし……今までだって色々……手をつないだりとか背に負われたりとか、せっぷ……なんてこともあったのに、どうして平気でいられるんだろうって思ってた」
じわじわ。少女の言は、徐々に黄雲がひた隠しにしていたことへ近づいていく。少年は赤面ながら、戦々恐々とさらなる言葉に怯えている。
「さっき地下室でね、巽さんと一緒に見つけた本があるの。すけべな方じゃなくて、養生の術っていうんだけど……」
「!!」
まさしく。隠しておきたかったそれそのものへの言及だ。
黄雲は俯いて拳を握りしめ、悔恨の念に苛まれる。昨日決意したばかりのはずだ。己が胸の内を、彼女へ伝えるわけにはいかないと。
「その中に、赤面封じの術っていうのがあって……氣で身体のあちこちを制御して、顔が赤らむのを防いでくれる術っていうのがあったの。術の使い方も、それを解く方法も私たち、すっかり見てしまったわ」
そう、伝わってはいけないものだ。それが、この有様はどうだ。いまの赤らんだ顔どころか、これまで必死で己にかけ続けてきた術すらも見破られている。
雪蓮の独白は、いったん途切れ。他に誰もいない路地に、沈黙が満ちる。
あたりは静かなのに、胸の内だけドキドキとうるさい。
やがて少女は、意を決したようにわずかに息をのみ。真っ直ぐ、赤い顔で。黄雲へ問う。
「ねえ。聞いてもいい、黄雲くん。どうして今まで、そんな術を使ってきたの?」
「…………」
「黄雲くんは、いままで私のこと、どう思って……」
おそらく、勇気を振り絞っただろう問いの最中。
突如付近に人ならざる気配がわく。
「!」
黄雲は赤面や焦りも忘れて、慌てて辺りを見回した。こちらへ、敵意を持った氣の塊が近づいている。
「お嬢さん、伏せて!」
思わず雪蓮をかばい、彼女と接近する氣との間に割り込んだ黄雲の背に。
「キーーッ!」
牙を剥き、鋭い爪を突き立てる物の怪が三匹。いずれも狸の体にムササビの被膜を持つ妖魔・類だ。
「ぐっ……!」
「黄雲くん!?」
類の爪と牙が、黄雲の服を裂き、背中の肉を切り。黄色の道服と内側に着た浅黄の胡服へ、血がにじむ。
「この……!」
黄雲は雪蓮をかばったまま、腰にさしていた桃の木剣を抜き、刀身で背中の物の怪を払った。
破邪の力に追い払われ、黄雲の背から地面へ着地した三匹の類。しかし普段可愛らしい眼には、一様に恨みの炎が燃えている。
珍しいことだった。普段はどちらかというと臆病な性質で、自ら道士に歯向かったりはしない物の怪だ。そんな彼らが敵意をむき出しにして。
「よくも!」
「よくも、よくも仲間を!」
「仲間を!」
と口々に叫んでいる。物の怪の眼差しと叫びは、雪蓮へ向かっていた。
「……なかまを?」
「どういうことだ……?」
類の不可解な言動に、黄雲も雪蓮も眉をひそめる。雪蓮は自分に対して言われているような気がするが、身に覚えがない。
きょとんとしている雪蓮を背に、黄雲は木剣を振りかざす。ともかく危険な状況だ、物の怪は追い払わねばならない。
「んの……!」
氣を込めて、破邪の力を増幅し。類たちの鼻先で木剣を振るう。
「去れ!」
「!」
恨み骨髄のようだが、さすがに類には堪らなかったらしい。
「恨み! 必ずや!」
「必ずや晴らさん!」
口々にそう言い捨てて、類たちは後退し、手近な木の上に登り姿を消す。気配が遠のくと。
「っつー……」
いまさら襲ってきた痛みに、黄雲は膝をついた。
物の怪につけられた傷だ。血はとめどなく流れ、早く処置をしなければ物の怪の爪や牙から入り込んだ毒に侵されてしまう。痛みも、通常の傷より強い。
「黄雲くん、傷が……」
当然雪蓮は心配だ。あのドキドキの雰囲気から一転、一瞬で黄雲が血まみれで。それも自分をかばってだ。服の裂け目がわずかに開き、切り裂かれた傷口が垣間見えている。肩甲骨のあたりを数か所、横や斜めに傷が走っていた。
「はやく手当てを……!」
彼を支えようと、雪蓮がその背に触れた時だった。
「さわるな!!」
怒号を発しながら。
黄雲は少女の手を打つようにして弾き、拒絶する。
じん、と雪蓮の手には痛み。
「え…………」
突然のことに、雪蓮は手を抑えたまま立ち竦む。こちらを睨むように見据える黄雲の目には、強い強い拒絶の色が宿っていた。
ややあって。
「……すみません、つい……」
視線を落とし、黄雲は淡々とした口調で続けた。
「手当なら、大丈夫です。自分でできます」
「でもっ……!」
「大丈夫ですから」
言いつつ、よろよろと立ち上がろうとする。
そこへ。
「どうした? なにがあった」
北の水路の方面からこちらへ近づいてくるのは、清流道人だ。弟子の惨状を目にするなり、道人は歩みを駆け足に変える。
「黄雲!」
「師匠……」
「背中をやられたか」
弟子のそばでしゃがみ込み、清流道人は雪蓮の方を向いた。
「雪蓮、いったい何があった? この傷は……物の怪か?」
「あ、あの……黄雲くん、私をかばって……!」
つっかえながら、雪蓮は類の一件を彼女へ伝える。物の怪たちが『仲間を』と何度も繰り返し口にしていたことを告げると、道人の眉はいささか険しい形に歪んだ。
「……仲間を。ふむ……」
「あの、清流先生……」
「雪蓮、部屋へ戻っていなさい。後は私がやる」
困惑する雪蓮へそう声をかけ。清流は弟子を支えてやりながら、立ち上がる。
「さあ。そこにいたら、また気が立った物の怪に襲われてしまう」
少女を促す道人の面持ちは、一見いつもの飄々としたしたり顔。しかし、眉はやはり険しいままで。
「は、はい……」
道人の言葉は柔らかながら、有無を言わせぬ雰囲気に、雪蓮は門をくぐり、母屋へ向かう。
途中、振り返り、黄雲の方を見てみたが。
少年は俯いたままで、結局彼女の方を見ようともしなかった。
諦めて、雪蓮は自室へ早足で向かう。無力感と、疎外感に苛まれつつ。
(黄雲くん、どうして……)
手の甲をさすってみる。打たれた痛みは、もう消えたはずだけれど。




