8 密談
「あなたも薄々感じている通り。いま、雪蓮の身体は贋作に近い状態だ」
二郎真君の言葉が、遺跡最上の石室に反響する。
悪い予想を言い当てられて。清流道人の眉間は、いささか険しい色を帯びていた。
懸念していたことだった。毎日弟子づてに伝えられる少女の身魂の状態は、どうやら清流には憎らしくも馴染み深いものへと推移しているらしく。
弟子は気づいていないようだったが、彼が日夜読み取る少女の氣の状態が無情にも示している。
肉が、骨が、魂が、日々刻々と。崔雪蓮を構成する、陰陽二氣の配合の微々たる変化は、ひそやかに。清流道人や火眼金睛を成す氣の構造を、なぞるように。
その蠢きが向かう果ては……すなわち贋作。
いや。
「語弊がある、二郎殿。彼女が贋作に近似しているわけではない」
己が肉体と魂を形作るものを、感じながら。清流は言葉を紡ぐ。
──贋作が彼女に似ているのだ。
「贋作とは霊薬の似姿。過去、愚かな道士たちが我らを使い霊薬と同様の能力を得ようとしたがために、私たちはそういう風に作られている」
「……そうだな」
清流道人の弁に、真君はごく真面目な顔で頷く。いつもより、いささか神妙な面持ちだ。
「しかし……」
神将の相槌を受けて、清流は続ける。道人の整った顔は、深刻な表情に覆われていた。
「やはりというか。天仙方も、雪蓮の状態をそう解していらしたとは……」
嘆息。爪が手のひらに食い込まんばかりに拳を握りしめ、俯く清流の顔へ暗く深い影がかかる。
もしかして、とこの頃ひそかに懸念していたことが、第三者からも認められてしまった。それも、人知を超えた叡智を持つ天界の将に。
その神将が、彼女の嘆息の後に言葉を続ける。
「うむ。私が直接この眼で雪蓮を解析したり、天界の神仙が智慧を集めて調べ上げた結果、現状彼女の肉体と魂の組成は、極めて贋作に近しいことが分かっている。あなたも同じ見立てをしていたはずだ」
「ええ。それにしても……。なんとも、無念な裏打ちです……」
再び嘆息気味に応じて、黒衣の道人は肩を落とした。そんな彼女へ、神将は続けて。
「貴殿の言う通り、贋作とは霊薬の似姿。思うに、彼女の今の状態はあくまで通過点なのだろう。真の霊薬へと至るための」
言いつつ、二郎真君の表情も少し苦しげだ。平素どこか飄逸とした雰囲気を持つこの神将が、初めて見せる顔だった。
「清流道人。以前、私は貴殿らに問われ、言葉を濁したことがあるな。『雪蓮は一体どうなってしまうのか』と」
「ええ。あの時は確か、その問いに答えることは禁じられていると──」
「うむ。しかしそれも、天よりの監視の目あってのこと。だが、いまはこの状況だ」
「…………」
先刻、真君は認識阻害の術式を再始動させたばかり。すなわち、いまこの場は天界の監視を逃れているというわけで。
語る神将の顔を、清流は漆黒の双眸でじっと見つめている。
二郎真君の怜悧な瞳も、それを真っ直ぐに見返していた。第三眼は、閉じたままだ。
天地から隔絶されたこの状況。密談を持ち掛けられていることは明白である。神将は口を開く。
「清流殿。これからここで話すことをどうか、いまはただ心に秘して頂きたい。この場で語ったことを、無かったものとして日々を過ごしてほしいのだ。天網に、気取られぬように」
「天を欺けと……?」
少々瞠目しながら問い返す清流に、二郎真君はニヤリと薄く笑って見せた。これも、初めて見せる形の笑み。
「欺くとは聞こえの悪い。私はただ忠義の形を変えるだけだ」
神将曰く。
唯々として主上の命に従うも忠の確かな有様だが、そればかりが忠節の示し方ではないということ。
「これより私が申すこと、することは、主上からの命を破るものではあるが、義に背くものではない。忠義の心そのものは変わらぬ」
窓から入る光が、二郎真君の微笑を照らし出す。挑むような、爛々とした眼差しがこちらを捉えている。
「我が主上の望みは、下界より霊薬を取り除くこと。その大義を果たすことに相違はない。しかし、その方法を巡って天上では喧々諤々の議論が日夜なされ、雪蓮殿への生殺与奪の結論は未だ出ぬまま」
「…………」
「しかも、主上は臣下の神仙へ全ての情報を開示しているわけではない。肝心要の、霊薬、そして太源に関わる情報はいまだ秘匿されたままだ」
「それは……」
清流道人の眉が歪む。
最も肝要な情報が開示されていない、ということはどういうことか。持っているものを出し惜しみされるのは、あまり良い気分ではない。
道人の心情を察してか、真君は静かに言い添える。
「この宇内の造物主たる、太源に関する事柄だ。重大な機密ゆえ、身内の神仙とはいえ下手に漏らせばこの世界の成り立ちに、深刻な影響を与える恐れがある。易々と開示できるようなものではないのだ」
そして、現在の霊薬をめぐるこの状況。玉帝から見て、まだ事態はそれほど逼迫していないのだろう。太源や霊薬に関わる情報は配下の神仙へいまだ詳らかにされず、人体からの霊薬除去については、玉帝以外の神仙の間で共有された知識の中、研究が進められている状況だ。
「玉皇大帝はその……研究を進めている神仙たちへ、ご助言はなさらぬのか? 太源の秘密が漏れない範囲で」
清流のおずおずとした問いに、二郎真君。
「主上は、毛頭そのつもりはないようだ。今のところ、全てを臣下へ委ねている。……少しでも漏洩させてはまずいのか、それとも……」
間を置いて、真君は苦い口調で呟く。
「──そもそも玉帝陛下のお知恵をもってしても、霊薬に抗しうる術がないということか」
「…………」
沈黙。
清流道人の傾城の面立ちには、苦悩の色がしみついている。
玉皇大帝は、本当に現状に危機感を覚えていないのだろうか。手をこまねいているうちに、霊薬が雪蓮を侵食し切り、手遅れなどということは……。
暫時の静寂。
それを打ち破り、黒髪の神将は言葉を発した。
「ともかくも。贋作と同様の身魂へと変貌しつつある雪蓮殿。そして停滞する状況打破の手立て。我らが何か策を講じるには、どうにも主上の持つ情報が欲しいところだ」
手詰まりの状況ながら、二郎真君の声はどこか明るい。
朗らかさを帯びた声色に、顔を上げた清流へ。真君は朗々と告げた。
「清流殿。いまこそ腹を割って話そう。私は貴殿らにお味方しようと思う。無論、監視役としてではなく、雪蓮殿から霊薬を祓うため、尽力させて頂きたい」
「な……!?」
突然の宣言に、清流はぽかんと口を半開き。
いままで頑なに、天界の命を守ってきた彼が。あっけなくこちら側へ肩入れを申し出るとは。
道人の困惑に構わず、二郎神は続ける。
「これより私は、この遺跡の報告という体で天へ昇り、霊薬にまつわる情報を探ってこよう。ただ玉帝陛下のこと、身辺に分かりやすく文字媒体の記録を残しているかは未知数だが……」
「し、しかし……いいのか、二郎殿?」
唐突な成り行きに、清流の頭に浮かぶのは懸念と疑問ばかり。
まず、彼の立場のことだ。禁忌に触れては、いくら天帝の甥とはいえ。
「そのような行いが万が一、露見すればあなたは……!」
「なに、バレないようにやればよい」
「そんな簡単な……」
呆れる彼女へ、真君はいつもの涼やかさで諭すように述べる。
「だから先ほど伝えたように、だよ。今日この場で語ったことは、聞かなかったように。何事もなかったかのように。遺跡を出て以降は、そう振る舞うのだ。なに、天網も人の心の子細までは探知できるものではない。私が情報を掴むまで、あなたはそうして過ごしてくれたら十分だ」
うまくやるさ、と締めくくり、神将は微笑を浮かべる。
とはいえ疑問は尽きない。清流が次に尋ねるのは、那吒のことだ。
「このことは、那吒殿は……」
「那吒は何も知らない。それでいい、彼には天界に家族もある」
那吒には有名な軍神である父親、そして兄二人がいる。いずれも神将として天界に住まい、玉帝へ忠誠を誓っている。
「那吒を巻き込んでしまっては、もしことを仕損じた場合に、彼の一族へ累禍が及んでしまう。当然那吒はそれを望まないだろう」
「しかしそれは、あなたも同じでは?」
それは二郎神自身にも懸念されること。彼の伯父こそ、玉皇大帝その人ではないか。
「私の不祥事で、我が主上のお立場が危うくなると? それこそ無用の憂慮というもの」
美丈夫の言葉は、事も無げに。
「玉皇大帝は太源の次にこの宇内に生まれし至上の神。鴻鈞道人に先んじて世界に君臨し、万象を制し。その存在そのものが最上にして無二、代えの効かぬ御方だ。人界の為政者などと同様に見做してもらっては困る。責任を取って失脚、あり得ぬことだ。もし事が露見したとて、せいぜい我が首が掻っ切られるくらいだろう」
「…………」
首を刎ねるなどと、穏やかではないが。二郎真君の語り口は穏やかそのもの、しかし言外には覚悟のような気配がにじんでいる。閉じたままの第三眼、二つの眼から注がれる眼差しは、ただただ真っ直ぐだ。
清流にとっては願ってもないことだった。天界の事情に通じた彼が全面的に協力してくれるとなれば、彼女も正直心強い。
しかし、何故。下手をすれば天命に逆らったかどで処罰を受けるかもしれないというのに。たかだか下界の、泡沫のような小さな娘のために。
「どうしてか、お聞きしてもよろしいか二郎殿。何故我らに肩入れなさる?」
清流の最後の質問に、二郎真君は。
「簡単なこと。下界であれ天上であれ、この世に在るものはすべて愛おしいからだ」
荒れ野の雑草でさえ、路傍の石でさえ。この神将はすべてに価値を認め、肯定する。無論、不幸にも霊薬に宿られた、身分以外平々凡々の小娘にも。
「雪蓮殿はなかなかに貪欲な女子だ。よく食べ、よく遊びよく学び、そして恋にもひたむきだ。限りある命を、欲するがままに楽しむ様はかくも輝いている。彼女が抱く欲は、純粋で穢れなき欲求だ」
しかし、それも人の世にあってこそ。少女の肉体と魂は、人の身を離れ、別のモノへ入れ替わろうとしている。
「人として生きるはずの者が、当人のあずかり知らぬところで天仙の陰謀に巻き込まれ、霊薬の器となることなど、私は断じて容認できない」
凛、と涼やかな口上だが、瞳には決意の色が宿っている。そして幾分か、怒りの気配も。
「彼女が彼女として生きるためには、やはり霊薬は祓わねばならない。雪蓮殿にしろ貴殿らにしろ、私はあなた方の悲愴な結末は見たくないのだ」
三尖刀を握る右手に、ぐっと力が籠る。
不意に二郎真君は眼差しを上げて清流を見据え、刀を左手に持ちかえた。
「斯様な理由だ。ご納得頂けるかわからぬが、いま語ったことが私の本心でもある。清流殿──」
そして、道人へ差し出される右手。
「清流殿。虎穴に入らずんばなんとやらだ。私の覚悟ならご案じめさるな」
「二郎殿……」
虎児を……霊薬の情報を得るために。禁忌へ挑むと語る二郎真君。
差し出された手のひらをしばしじっと見つめて。
清流は意を決してその手を握りしめた。
「改めて、よろしくお頼み申す二郎神。あなたを信頼しよう」
「うむ。密偵役は、任された。ともに力を尽くそう」
密約を交わし。握る手の強さに、互いの決意のほどを託して伝え合い。両者の顔には、挑戦的な笑み。
握手を解いて、清流道人はどこかほっとしたようにほほえんだ。
「……雪蓮のことは、私も愛らしい娘だと思っている。貴殿の言うように、好奇心旺盛で、貪欲で……。あの子の命を翳らせてはならない。切にそう願っている」
翳ってしまった、自分の命を思いながら。
霊薬を祓う手立てはなおも不明のまま、五里霧中を往くような状況はまだ続いている。そんな中、心強い味方と一縷の望みが現れたことは、得難いことだ。
(霊薬……)
雪蓮から、かの存在を取り除きたい。それも彼女の偽らざる本心であったが。
人の身を外れてしまった原因。すべての苦悩の源たる霊薬と向き合い、識り、決着をつけることこそが。不本意に五百年生き長らえてきた彼女の、ある種命題であるように清流は感じていた。
(霊薬、太源の血肉)
それを識ったとき。
(私は戻れるだろうか……)
──天地の、理の中に。
窓から見える湖面は、秋風に撫でられて細波だっていた。




