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7 発覚!

 その一枚の紙きれを、少年は今まで大事に、厳重に守ってきた。誰も寄せ付けぬよう、地下に。毎日大きな長持ちに術をかけて、ねずみ一匹通さぬよう。

 通月湖の地下を通り、亮州城へ至り。清流堂の門前で地表へ浮上した黄雲は、住まいへ駆け込みつつもどこか楽観していた。

 長年欠かさず続けてきた習慣を、たった一日忘れてしまっただけ。

 きっと何事もないはずだ。みんな長持ちの術が解呪されているなど知らず、いつも通り過ごしているはずだと。

 だから自室の扉を開けて、定位置からずれた長持ちと地下への穴を見つけた時。

 黄雲は愕然とするほかなかった──。

 

 さて地下室。

 

「絶対に見られたくなかったのに……!」


 目の前の光景に、黄雲はひたすら激怒している。

 隠していた地下の空間には、雪蓮と巽の二人がいて。

 銭壺は荒らされ、帳簿はあちこちめくられて。

 最奥に隠していた文箱は、二重底までもが暴かれている。

 なにより巽が手にしている紙切れ。黄雲が一番隠しておきたかったものだ。

 

「返せ!」

「おいおい待て待て!」


 黄雲は巽に飛び掛かり『それ』を取り返そうとするが、ニンジャは紙を頭上に掲げて少年の奪取を阻む。

 

「なんだなんだ? たかが日付を書いた紙だろう?」

「だから返せっつの!」

「しゃーねえな」


 黄雲の血相に呆れたのか、巽は「ほらよ」とあっさり紙を返した。それをひったくるようにもぎ取って、黄雲はなおも顔に仕草に、怒りをみなぎらせている。


「まったく! どうして巽もお嬢さんも! ここへ潜り込んでるんですか!」


 激高しながらの問いに、クソニンジャ。

 

「まあまあ、落ち着けよ。ここはなんつーかさあ、偶然見つけちまったっつーか?」

「偶然だって……?」


 黄雲はごまかす巽からキッと顔を背け、比較的正直者の雪蓮へ視線を向ける。

 

「本当ですか、お嬢さん」

「え! えーと……うん、本当!」


 箱入り娘は気まずそうな顔をこっくり頷かせ、しどろもどろに答えた。

 

「ほ、ほんとに偶然だったわ! 黄雲くんの隠し財産どこかなーって、上のお部屋を探してるときだったんだけど……」

「ちょっと!」

「せっちゃん、言っちゃってる言っちゃってる」

「おいこらクソニンジャ!」


 嘘の下手な雪蓮に、巽は呆れ黄雲はさらに憤り。

 そして守銭奴による怒りの尋問が始まる。


「つまり! 僕の資産を荒そうとしたわけだな巽! お嬢さんも!」

「荒らすなんてとんでもねえ! 少しちょろまかして、何事も無かったかのように元通り片づけて去るつもりだったぜ!」

「余計タチ悪いわ! 大方僕の銭を盗もうとしたんだろうが! おのれよくも、人が汗水垂らして働いて儲けた金を……!」

「ち、違うの黄雲くん! 私たち……じゃなくて私、お金を盗るつもりなんてなかったわ!」

「じゃあ何が目的だったって言うんですか!」

「そ、それは……!」


 黄雲の追及に、雪蓮は言い淀む。そんな彼女へ、隣の巽は助け舟。

 

「せっちゃん! アレだよアレ!」

「あれ……!」


 あれ。

 巽と雪蓮の間で通じる『アレ』なるもの。

 怪訝そうな黄雲へ向けて、令嬢の口からその言葉は発せられる。

 

「そ、そう! ぼーちゅーじゅつの本を探してたの!」


 ぼーちゅーじゅつ。

 そして訪れる静寂。


「………………………………は?」


 やっと一言紡いだ黄雲の顔は、無表情だ。表面上一切の感情なく、ぼーちゅーじゅつなどという単語を受け止めている。

 

「あ、あのね! ぼーちゅーじゅつは健康にいいって、巽さんが……!」

「一体何を……」


 一見冷淡に少女の告白を受け止めているようだった黄雲だが。

 

「あらよっと!」


 雪蓮の隣より、クソニンジャが刹那の間に放つ棒手裏剣。狙いは目前の守銭奴の鳩尾(みぞおち)、養生の術を破るための秘孔・膻中(だんちゅう)──。

 

「はうっ!」


 不意を衝かれて黄雲、棒手裏剣の一撃をもろに受け止めてしまった。刺さるほどではないが、そこそこ痛い一発。

 弱点を刺激されて、密かに心身へ巡らしていた氣の集中がほどけていく。無論、すぐさま黄雲は術の異常に気付くものの。

 

「お、おいクソニンジャ! いまのは……!」

「だからね黄雲くん! 私、黄雲くんと一緒にぼーちゅーじゅつやってみたいなって!」

「!!」


 術が解けただの、クソニンジャが解除方法を知っていたことなど、もはやどうでもいい。

 房中術。一緒にやりたい房中術。

 気になるあの()の口から飛び出すあれやこれ。もちろん黄雲は房中術の概要を知っている。知っているからこそ脈が高鳴る、早まる、熱くなる。術の代わりに全身へ駆け巡る思春期。

 

「ば、ばばばバカ! ご、ご自分が何を言ってるか……わ、分かってるんですか!?」


 黄雲、盛大にどもりつつ、なんとか平静を取り戻そうとするが。彼の必死の思いとは裏腹に、血の気が顔へ上っていき、胸の内は祭囃子のようにうるさい。そんな彼の有様は、地下室中央の灯りによっていかんなく照らし出されてしまう。

 

「だって巽さんが! ぼーちゅーじゅつは男女二人一組でやるものだって!」


 雪蓮も必死である。ぼーちゅーじゅつを使って、仲を深める絶好の機会。つかつかと部屋の中央で喚いている黄雲へ詰め寄って、間近でさらに続ける。

 

「私知ってるもん! ぼーちゅーじゅつを二人ですると、不老長生にいいって! 巽さんが、黄雲くんとやったらいいんじゃないかって!」

「お、お嬢さん!」

「ねえ、しようよ! ぼーちゅーじゅつ!」


 ひどい誘い文句である。爆音の思春期。

 しかしながら。なんとなく彼女が房中術を誤解していることを察した黄雲は、真っ赤な顔のままで真実を告げた。

 

「だからそれ! いわゆるところの! 雲雨(うんう)の交わり!」

「え……!?」


 必死だった雪蓮がはたと止まる。

 雲雨の交わり。それは男女の性交を指す言葉で。

 

「説明しよう、房中術とは! 男と女がまぐわいを通じて健康になる、とってもスケベな術なのだ!」


 巽の解説で、箱入り娘の夢も醒めた。

 

「たっ……巽さん!」


 きりっ、と雪蓮、赤面のまま巽の方を向き。

 

「よしきたバチコイ!」


 巽は四つ這いになって尻を向け。

 

「陰陽五行はじけてまざれーっ!」

 

 アルパチカブトの呪文一発、雪蓮は白虎(びゃっこ)娘娘(にゃんにゃん)へ化身し、狼牙棍を振り上げる。

 

「このブタ野郎ッ!」

「祝着至極っ!」


 房中術の何たるかを適当にごまかして伝えていた、そんなクソニンジャをガッツリ成敗。棘付き棍棒にぶたれる尻、三白眼は愉悦の色。

 

「いや何なんですかいまの茶番は!」

「なんでもないの! なんでもないの黄雲くん!」


 ぽい、と狼牙棍と白虎面を放り、雪蓮は突然黄雲へ頭を下げた。

 恥ずかしさよりもそれよりも。

 

「ごめんなさいっ! なにはともあれ、黄雲くんの大事なもの、勝手に見つけちゃって……!」

「なにはともあれって……」

 

 巽の尻を打ち、幾分か冷静さを取り戻した雪蓮は改めて謝罪する。やはり隠し事を無闇に詮索し、あちこち探し回り嗅ぎ当ててしまったことは、悪いことで。

 一方の黄雲も、房中術云々の流れで、先ほどまでの怒りは冷めてしまった。

 

「ごめんなさい、黄雲くん……私……」

「ったく……まあ謝るだけ良しとしますけど……」


 互いにうつむき気味につぶやいて、同時に顔を上げる。不意に見つめ合う形になった二人の、頬に差す赤み。

 

「あ……」


 そこでようやく雪蓮は気付いた。

 目前の守銭奴が、照れた表情と顔色を浮かべていることに。

 いつもしている不機嫌な、ふてくされたような表情。それが黄雲なりの照れ顔だったのだと、雪蓮が気付いた瞬間である。


「あ……あの……」

「それよりさー!」


 そんな青春に割って入る巽である。

 巽は黄雲の手元の紙を指さしつつ、口を開く。

 

「それ、結局なんなんだ? お前の誕生日?」

「はぁ……」


 ニンジャの問いに、黄雲は観念したようなため息。

 

「その通りだよ。僕の生年月日」


 ぴらり、と手元の紙を見遣りながら、黄雲は続ける。

 

「お嬢さんには以前言いましたけど、道士は己の出生に関わるものを、他人へ易々と教えないものです。だから隠していたのに……」

「じゃあ、黄雲くんは今までお誕生祝いをしたこと無いの?」

「あるわけないじゃないですか」


 さも当然、というように黄雲は言う。

 

「変に祝って、商売敵やら、たちの悪い物の怪に己の繊細な情報を知られてはまずいですし。まず、誕生祝いの宴を催す金があるなら貯めます」

「…………」


 この銭ゲバ道士らしい受け答えである。話していて落ち着いたのか、赤面は少し治まっている。そんな彼へ。

 

「じゃあさあ、(てん)、っていうのは?」


 続けて繰り出される、巽からの問い。途端に黄雲の眉間と目元が険しくなる。黄雲が答える前に、巽はさらに続けた。

 

「俺が思うに、こりゃ(いみな)じゃねえか? 生年月日へ添えるにゃ、そう考えた方が自然だな」

「…………」


 巽の推測に、黄雲は押し黙っている。

 諱とは、要は真実の名のことだ。

 諱には霊的な力が宿るとされ、人をこの名で呼ぶということは、その人物の魂の支配に繋がるとされた。

 もちろん実際魂の支配などそうそう起こり得ることではないものの、太華の人々は諱を呼ぶことを至極無礼なこととし、他者を呼ぶときには、呼び名として付けられる(あざな)、もしくは官位ある者ならば役職名、あるいは渾名(あだな)を用いた。

 諱を使って呼びかけることができるのは、親や主君だけ。実際にその人物を支配下に置く者だけだ。

 

「そんでさ、その紙、筆跡が女の人っぽいじゃん? でも清流先生の筆跡とは随分違う。俺が思うに、それ書いたの、お前の母ちゃんじゃねえの?」

「……さあな」


 巽の疑問に、黄雲はしらばっくれている。口調こそ軽いものの、目元にはなおも険しい色が漂い、それ以上の追及を拒んでいた。

 

「ともかくだ、二人とも」


 黄雲は手元の紙を折りたたみつつ、きつい声遣いで二人へ切り出す。

 

「ここで見聞きしたことは他言無用。特にこの紙に書いてあることに関しては、僕自身も口外せぬよう師匠より厳命されている。決して他の人間に喋るな」


 巽はおろか、雪蓮に対しても厳めしい物言い。しかし、その後に続ける言葉は。

 

「本当に、頼む──」


 跪き、頭を地へこすりつけながらの懇願だった。

 

「こ、黄雲くん! そんな……!」

「誓ってくれ、誰にも口外しないと」

「わ、分かったから……!」


 雪蓮はぎょっとしながら頷いた。常日頃から生意気一色の彼がこんな行動に出るなんて、考えられないことだ。それほどにあの紙切れの内容を秘匿しておきたい、ということ。

 しかし。

 

「えー、どうしよっかなー?」


 素直に了承した雪蓮とは逆に、こちらは相手が悪かった。

 クソニンジャは三白眼へニヤニヤ笑みを浮かべつつ頭の後ろで手を組み、いかにも悪だくみの様相である。

 弱みにつけこんで無茶な要求をすることは明白。さらに。

 

「頼む! 何でもする!」


 黄雲も此度は立場が弱い。必死の嘆願だ。

 さて、このクソニンジャの要求とは。

 

「じゃあ銭を貰おうか! この地下室の銭ぜんぶだ!」

「なっ……!」

「たっ……巽さん!?」


 あまりにも強欲すぎる交換条件に、黄雲も思わず顔を上げた。ほぼ全財産を渡せ、ということに相違なく、要求を告げられた守銭奴は。

 

「それはちょっと……」


 などとさすがに呆れている。

 しかし巽はこの機会を逃さない。なんてったってニンジャは現在無一文、金次第で脱いでくれる妓女のおねーちゃんのため、金がほしい。いや、より多くの女性を合法的に脱がせるために莫大な金がほしい。ほしいったらほしい。

 だから巽は無茶苦茶な要求を取り下げない。

 

「ほー、いいのかなぁ? じゃあチラシにお前の生年月日と諱を書き込んで街中へバラまいちまうぞ! いいのかそんなことされても!」

「そ、それはだめだ、絶対に!」

「じゃあ金!」

「ふざけんな! 全財産はないわボケ! 一銭で十分!」

「そんじゃ拡散!」

「ぐぬぬぅ……!」


 全財産! 全財産! と囃し立てるクソニンジャに、黄雲は過去最大級の歯噛みである。

 少年、秘密は漏らしたくない。さりとて銭に執着するがめつい性分ゆえ、全財産をみすみす明け渡すのも惜しい。

 

「……ちょっとこっち来い」


 黄雲は不意に立ち上がり、巽の腕を引っ掴んで部屋の隅へ連れて行く。その顔には、諦めたような表情。


「お嬢さんはそこで待っていてください」

「?」

「お、なんだなんだ?」


 怪訝そうな雪蓮。そして巽の瞳に宿るは期待の色。

 

「ついに決心したか……! 俺に全財産を譲ってくれるわけだな、うははははは!」

「ざっけんな! 誰がくれてやるか、大事な銭だぞ!」


 クソニンジャへ言い返しつつ、黄雲は部屋の一角、壁際へしゃがみ込む。そして声を潜めて告げた。

 

「さすがに全財産をくれてやるわけにはいかないが……ここに隠していたものをお前にくれてやる。お前にとっちゃ、きっと価値のあるものだ」

「んぁ?」


 黄雲の台詞は、後ろの雪蓮に聴こえぬよう気を遣ったものだ。ひそひそ呟きつつ、黄雲の手が地下室の壁、床に近い低い位置をなぞると。

 ぼろり、と土壁が崩れて、奥に小さな空洞が現れた。その中に保管されているのは、文箱(ふばこ)がひとつ。

 

「これは……」

「いいから黙って開けろ」


 黄雲は文箱を掴み取り、ぶっきらぼうに巽へ押し付けた。巽はよく分からないながらも、箱を開けてみる。

 中に入っていたものは。

 

「こ……これは!」


『真説・房中術教本』


「ぼーちゅーじゅ……!」

「おいやめろ言うな!!」

「ふがっ」


 思わず叫びかけるクソニンジャ。慌てて黄雲が覆面ごしに巽の口へ木剣を突っ込み、言葉は尻切れ、事なきを得る。後ろの雪蓮はぼけっとしていて、幸い会話は耳に入っていないようだ。

 さて、突然現れた房中術の真正なる術書に、巽はニヤニヤが止まらない。木剣を口からひっこ抜き、さっそくゲスの笑みで揶揄を始める。

 

「おいおいおいおい。なによお前、普段いかにも『色恋とかやらしいのとか興味ありませーん』みたいな顔してるくせにさ、持ってんじゃんこういうの!」

「う、うるさい! 道士としての修行を積む上での、あくまで参考だ参考!」


 黄雲はまだ養生の術が結べないのか、顔色がほおずきのように赤い。口ごたえする彼に、巽。


「その割にゃさっきの紙より厳重に保管してねえ? ぬしも男よのう……」

「黙れ死ね!」


 黄雲は悪態を吐きつつほぞを噛む。生年月日の紙が入っていた方の文箱は、ちょうど今朝中身を確認したばかり。普段はこちらも土壁の奥に隠しているのだが、上の長持ち同様、たまたま術をかけ忘れてしまっていた。そのことがクソニンジャに余計な邪推の材料を与えてしまっているようで、何とも言えず腹立たしい。

 

「と、ともかくだクソニンジャ! それはくれてやる! だからどうか! どうかさっきのアレは内密に!」

「しゃーねえなぁ……勘弁してやるよ。挿絵がめっちゃスケベだし! なになに、まずは雰囲気を良くしましょう……」

「ここで開くな! 読むな!」

「ねえ黄雲くん、まだ……?」

「近付くなーっ!」

 

 ぜえはあ。

 アレやらコレやらソレやらを、開陳したりされたり晒されたり。黄雲の精神はこの短時間にゴリゴリすり減らされ、満身創痍の有様である。

 巽に秘蔵の本をくれてやり、懐へ仕舞わせて。

 

「いいかクソニンジャ。生年月日云々については他言無用だからな!」

「分かってるって! 見てみてせっちゃん、スケベな本もらったー!」

「きゃああああ!」

「言ったそばからお前は!」

「だってスケベ本に関しては口止めされてねえし!」


 ともかく生年月日に関する口止めは成功だ。房中術の本を見せびらかされて、黄雲の精神はさらなる深手を負ったが。

 

「それと巽!」

「なんだよ! 俺は今からスケベな本を読むんだ、止めるな!」

「いいから今、その場で跳べ! 早く!」

「え、ええ?」


 黄雲はニンジャをその場で跳び上がらせる。すると黒ずくめの全身から。

 

 ぴょんぴょんジャンジャラ。

 

 狂おしいほどに鳴る銭の音。

 

「あ……」

「やっぱりだなクソニンジャ! そんなことだろうとは思ったが、もちろん全部回収だ! おらおら逆さに吊るすぞクソが!」

「あーれー」


 かくて盗まれた銭も一銭残らず押収し、物盗り被害も一件落着。

 

「さあさあ! とっとと出てった出てった! さあお嬢さんも、もう用は無いでしょう! さあさあ!」

「わ、分かったってば……!」


 そして二人を追い立てるように地上への穴へ誘導し、黄雲は侵入者を地下室からさっさと立ち退かせるのであった。

 巽はひと跳びで、雪蓮はもたもたと。最後に黄雲が慣れた様子で速やかに穴を抜け、三人は地上、黄雲の部屋へ舞い戻る。


「まったく……!」


 巽と雪蓮の目の前で、黄雲は長持ちを動かして元通り穴を塞ぎ、さらに定位置から微動だにせぬよう、ぶつぶつと呪文を唱えて改めて不動の術をかけた。


「あれ、そういやお前、なんで地下で湯浴みだの着替えだのを……」

「…………フン!」


 最後の巽の問いかけは、黙殺される。黄雲は口を閉ざし、眼差しだけが「それ以上聞くな」と訴えていた。

 

「なんでぇ……ま、男の着替えとか興味ねえし別にいいけどよ」


 呆れたように肩を竦める巽の横で、雪蓮はふと思い出した。

 自分の右手の中に握ったままだったものの存在を。

 

(そういえば……持ってきちゃった)


 彼女の手の中には。滑らかな手触りの、白玉の帯飾り。

 

---------------------------------------------------

 

「二郎真君」


 月亮島の遺跡にて。

 石室の壁を指でなぞりつつ、清流道人は口を開いた。

 宝剣・龍吟が安置されていたというこの部屋には、壁面、床面、そして天井に、不可解な文字のような文様が刻まれている。部屋の中心部にある祭壇も含めて、びっしりと。

 

「貴殿にはこの紋様が何を意味しているのか、分かるのか?」

「さあて」


 返ってきたのは、はぐらかすような返事。予想通りだ。清流も、簡単に答えてくれるとは思っていない。

 二郎真君は先ほどから部屋のあちこちへ、彼女には理解できない類の氣を手のひらから照射して、何事かを探っている。

 窓からは昼下がりの陽光が差し込んでいる。照明はもはや必要なく、真君は第三眼を閉じ、二つの(まなこ)からの視線を、じっと床や壁へ注いでいた。


「ふむ」


 神将は部屋中央の祭壇へ近づくと、石造りのそれをついと撫でる。(つるぎ)を置くための台のようなものが設えられたそこに、いまや宝剣は無い。

 しばらく祭壇を見つめていた二郎神は、ふと顔を上げた。

 

「清流殿。どうやらこの祭壇が、この遺跡の中枢となっているようだ」

「と、言いますと?」

「認識阻害の術。侵入者を阻む仕掛け。それら全ての術式の源が、この祭壇だ」


 つるりとした石材で造られた祭壇の輪郭を、真君がそろりとなぞる。手のひらに、氣をまとわせて。

 すると祭壇の中心部から青い光が沸き起こり。祭壇、床、壁、天井の順に、光の波紋が部屋全体へと伝わる。

 

「二郎殿、今のは……?」

「ひとつ、この遺跡の術式を復旧させてみた。おそらく元々は、この祭壇に祀られた宝剣からの氣を使って、術が作動していたようなのだ。術の構造を解析して、一つ機能を再び動かしてみたが……」


 ぶつぶつと独り言のようにつぶやきつつ、二郎真君は不意に清流を見た。

 どことなく、意を決したような眼差しで。

 

「いま復旧したのは、認識阻害の術式だ。この遺跡は雪蓮殿の到来前のように、現在我々以外の者からの認識を受け付けなくなっている」

「ほう……」

「そう、天界からも」

「…………」


 二郎真君の口からこぼれる、天界という言葉。

 清流は押し黙っている。つまり、いまこの遺跡内は、天界に補足されていないということだ。

 それが意味するところは。

 

「少し……あなたに話しておきたいことがある」


 ただでさえ真面目な顔の二郎真君が、その面持ちと声音へさらに深刻な色を加えつつ、口を開いた。

 

雪蓮(かのじょ)のことだ」

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