14「悪魔と天使」
夢の中で俺は、学校に通っていた。
悪魔学校――ではない。景色がまるで違う。悪魔領の空は赤黒いが、夢の中では青い空と白い雲が頭上に広がっていた。これは、悪魔領の光景ではない。
『よお、落ちこぼれ』
誰かの声が聞こえる。
紛れもない罵倒の一言。しかし俺の胸は痛まない。感情が鈍くなっていた。そうしなければ己の境遇に耐えられないと思っていたのだろう。
――そうだ。
俺は落ちこぼれだった。
罵詈雑言の台詞は耳だこができるくらい言われていた。今、そのことを思い出す。
俺は長い間、この学校で落ちこぼれとして過ごしてきた。
旅になんか出ていない。俺はずっと、この学校で辛酸を嘗め続けてきた筈だ。
皮肉なことに、今までの夢は全部、幻か妄想の類いだと思っていたのに、この記憶だけは紛れもない真実なのだと理解していた。楽しい思い出よりも、幸せな思い出よりも、俺にとってはこの苦々しい思い出こそが最も強く記憶に刻まれていた。
ぶわり、と視界が広くなったような気がする。
あぁ――漸く、夢が繋がった。
『兄さん! おかえりなさい!』
その少女は、学校から帰ってきた俺をいつも温かく迎えてくれた。
彼女は俺の――家族だ。
『ケイル君! おはよう!』
『ケイル、今日もよろしく』
その二人の少女は、俺を落ちこぼれという境遇から救ってくれた。
彼女たちは俺の――仲間だ。
『おーっす、ケイル』
『ケイル、おはよう』
その二人の少年は、俺が楽しい時も悲しい時も、いつも傍で一緒に過ごしてくれた。
彼らは俺の――友達だ。
全員、俺と深い関わりのある人物だった。
未だ記憶は空白のまま。しかし、大切なことを思い出す。俺にとって彼らは大事な人であり……絶対に、思い出さなくてはならない相手だ。
しかし、それならもう一人。
もう一人だけ、思い出すべき大事な人がいるのではないだろうか?
『ケイル様っ!』
黒髪のメイドが満面の笑みを浮かべる。
ヴィネ一族に仕えるメイドの少女は、いつもニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。
彼女は俺の、大切な従者で――。
――違う。
どうしても思い出せない。
彼女と旅をした日々が、微塵も思い出せなかった。まるでそんな日々、最初からなかったかのように。
誰だ。
お前は――誰なんだ?
◆
ソファの上で目を覚ますと、全身から嫌な感触がした。
酷い汗だった。すぐにでもシャワーを浴びたい気分になる。しかし俺は……それよりも先に、確認しなくてはならない。
「あ、ケイル様。丁度、今、お夕食ができましたので、そちらに運びますね~」
そう言ってエレミーは、俺の返事を待つことなく二人前の食事をワゴンに載せて運んできた。
手際よく料理を配膳していくエレミーに、俺は視線を注ぐ。
「……エレミー」
「は~い! ウザカワメイドこと、エレミーちゃんで~すっ!」
配膳を終えたエレミーが、弾けるような笑みと共に返事をした。
だが、今の俺はその笑みに気を許せそうにない。
「俺は……本当に、ヴィネ一族として生まれ育ったのか?」
その問いを繰り出すと、エレミーは目を丸くした。
だが次の瞬間、その目はスッと細められ、
「ケイル様は、どう思いますか?」
含みのある問いが投げかけられる。
戸惑った俺は、返事をすることができなかった。
「料理が冷めては勿体ないので、食事をしながらお話ししましょうか」
そう言いながら、エレミーは椅子に腰を下ろした。
対面に座ると、エレミーが食事を始める。前菜のサラダを口に含み、音を立てずにナイフで肉を切り、時折口元についた汚れを手元の付近で拭った。
エレミーの所作はとても丁寧なもので、思わず見惚れてしまいそうになる。だが冷静に考えれば、それは妙な話だった。一介の使用人である筈のエレミーに、何故そこまでの教養が備わっているのか。
片や、俺の所作は雑としか言いようがない。テーブルマナーなんて全く知らないのだから当然だ。
目の前に座るエレミーと、自分自身を比較する。……まるで、エレミーの方がヴィネ一族の当主のようだ。
「ケイル様。ヴィネ一族の大願について、覚えていますか?」
グラスを口元で傾けた後、エレミーは訊いた。
「……いや。そもそもヴィネ一族に、大願なんてものがあったのか」
「ありますよ~」
エレミーが笑って言う。
だが、疑わしい。覚えていないのか、それとも最初から知っている筈がないのか。今の俺には判断ができない。
そんな俺の疑念を他所に、エレミーは説明を始める。
「魔界には、二つの勢力があるんですよ。それぞれ親天派、反天派と呼ばれていますね~。読んで字の如く、天界と良好な関係を築こうとする派閥と、天界とは距離を置こうと考える派閥です」
「……聞いた限りだと、前者の方が温厚そうというか、争いは起きないような気がするな」
「あ~……それは当たらずとも遠からずなんですが、一概に温厚とは言えないですね~」
エレミーは続ける。
「悪魔たちが暮らす魔界と、天使たちが暮らす天界は、もうず~~~っと前から仲が悪いんですよ。ほら、序列一位のライガット=バアル様も入学式の挨拶で言っていたでしょう? 最近は天界との外交摩擦も落ち着いているって。あれ、本当に数十年ぶりのことなんですよ~」
「……そうなのか」
確かに、入学式の挨拶でそのように言っていたことを思い出す。
「なんで仲が悪いのかと言いますと……天使たちは、悪魔を支配できる道具を持っているんです」
「……悪魔を、支配?」
訊き返す俺に、エレミーは「はい」と肯定した。
「その道具の名は――『レメゲトン』」
神妙な面持ちで、エレミーは告げた。
「『レメゲトン』は、神族が創ったと言われる、世界中の悪魔を自在に操作するための道具です。天界側はこれを、戦争の抑止力として所持しているだけと主張していますが~……ぶっちゃけ悪魔からしたら、常に命を握られているようなものですからね。めちゃくちゃ生きづらいんですよ~」
普段通りの様子でエレミーは言うが、俺は目を見開いたまま硬直していた。
衝撃的な事実だ。まさか悪魔が、天使たちに命を握られていたとは。
「まあ、これを知っているのは、悪魔の中でも貴族に該当する一族だけですから、現在進行形で大きな問題にはなっていません。……知っている側からすると、とんでもない事実ですけどね~」
「じゃあ……親天派、反天派というのは、単に天使と友好関係を結ぶとか、そういうわけではなく……」
呟く俺に、エレミーは頷く。
「親天派とは、『レメゲトン』の力を恐れ、天使に従属することを良しとする派閥。反天派とは、天使たちからどうにか『レメゲトン』を奪い、本当の意味で種族としての独立を目指す派閥ですね~。今のところ反天派の方が数も多く、歴代魔王も全て反天派となっています」
親天派が魔王なら、外交摩擦なんて起きない筈だ。
当代の魔王も反天派である。エレミーの説明に納得した。
「ヴィネ一族は反天派に属していました。故に、ヴィネ一族の大願とは……親天派の目論見を防ぎ、天界にある『レメゲトン』を奪っちゃうことです!」
壮大な事実が明らかになった。
だが、『レメゲトン』が本当に実在するなら……確かにこれは大願である。一族の存亡を賭けるに相応しい。
「そして、我等が憎っくき親天派の代表こそが、ライガット=バアル様です」
「なっ」
その説明に、俺はつい驚愕の声を零した。
ライガット=バアルは現在、悪魔学校の序列一位。つまり今、最も魔王に近い男こそが、親天派なのだ。
「このままだと、次代の魔王はライガット=バアル様で決まりでしょう。ライガット様が魔王になれば……悪魔は皆、天使の傀儡と化します。ですからケイル様には、なんとしてでもあの男を倒してもらわなくてはなりません」
エレミーが告げる。
魔王を目指す。それは悪魔なら誰もが一度は志す……言ってみれば、種族共通の憧憬のようなものだと思っていた。しかし今、その憧憬は使命に変わる。エレミーが俺を魔王にしたがっている理由がよく分かった。
「……待て」
その時、俺は今までの説明に疑問を抱く。
「ライガット=バアルは、既に次代の魔王として支持を集めているんだよな? 反天派の方が多いなら、そうはならないんじゃないか?」
「わ~お。いい質問ですね~」
エレミーが茶化すように言った。
悪魔たちの大半が反天派だとしたら、親天派のライガットはそこまで歓迎されない筈である。
「ですが、私はこう言った筈ですよ~。親天派の代表は、ライガット=バアル様だと」
改めてその言葉を聞いた時、俺は違和感を覚えた。
「……バアル一族ではないのか?」
「正解です。バアル一族自体は、反天派なんですよ。但し、その跡取りであるライガット様だけは親天派なんです。そしてそれを、隠しています」
言っている意味が分からない。
首を傾げる俺に、エレミーは続けて言う。
「ライガット=バアル様は、反天派のフリをして魔王に君臨し、その後、親天派に鞍替えするつもりです。つまり――あの男は、裏切り者なんですよ。あの男を、魔王にするわけにはいきません」
反天派のフリをしているから、多くの悪魔に支持されているというのか。
だが、その話を聞いて、また俺は新たな疑問を抱く。
「なんで……エレミーが、そんなことを知っているんだ?」
「それは秘密です」
エレミーは、唇の前で人差し指を立てながら言う。
「ひとつ、約束いたしましょう。ケイル様が、ヴィネ一族の大願を成就すれば……即ち、ライガット=バアルに打ち勝ち、貴方が序列一位になれば、その記憶は元に戻ります」
「……どういう意味だ?」
「それも秘密です」
そう言って、エレミーは立ち上がった。
「少し席を外しますね。……何やら家の外から、よからぬ気配を感じますので」
窓の外を睨みながら、エレミーは言う。
やがて食堂から立ち去ったその後ろ姿を、俺は困惑したまま見つめていた。




