32「正統な交渉」
ダクトから出てきたアイナは、身体に付着した埃を手で払った。
「アイナ。どうしてここに……」
「貴方を助けに来たからに決まっているでしょう」
そう言ってアイナは溜息を吐く。
「油断しすぎ。自分が最強の存在になったとでも思っているの?」
「……悪い」
彼女の言う通りだ。
獣人領に来た時点で、俺の能力はある程度、周知されていた。ならばそれを利用しようと画策する者が現れることくらい、予想しなくてはならない。普段からもう少し注意深く過ごしていれば、そもそもミレイヤに拉致されることもなかっただろう。
「眷属化も解けかけているわね」
「……そう言えば」
三人衆と戦った時に少し無茶をしたからだろうか。身体の中に流れる獣人の因子が薄れているのを感じる。
「もう一度、眷属化するわ。指を出して」
「ああ」
アイナが爪で右手の親指に軽く傷を入れる。
同じように俺も、親指を軽く刺した。小さな痛みと共に、ほんの少しだけ血が出る。
互いに傷を付けた指を重ね合わせる。
直後、アイナの身体から俺の身体へ、獣人の力が流れた。
「……っ」
鼓動が激しくなると同時に、不思議な感覚を抱く。
身体が熱い。これは――欲求が、強くなっているのか。
無意識にアイナの姿に注目してしまう。元々、軽装を好むアイナは、ミレイヤほどではないが刺激的な格好をしていた。肌に吸い付くような薄い生地の服を着用しているため、無駄な肉がないスレンダーな体付きが良く分かる。
いつもの俺なら、こんなにまじまじと注目することはなかった筈だが……今の俺には目の毒だ。
「……ケイル」
「な、なんだ」
「もしかして興奮してる?」
「な」
あっさりと心の中を見透かされ、驚愕した。
「隠さなくていいわ、獣人の本能よ。……眷属化した直後だから、色々と不安定になっているのね。仕方ないわ」
「……申し訳ない」
いつもの無表情で諭される。
非常に気まずい。アイナが冷静であるため、罪悪感が増している。
「ミレイヤに、変なことはされなかった?」
「……されそうになったが、なんとか凌いだ」
「そう。よくあの女から逃げ延びることができたわね」
アイナは少し意外そうに言った。
「獣人の欲求は人と比べてとても強いの。一度スイッチが入ってしまえば色んな意味で見境がなくなってしまう。……発情期がいい例ね」
「発情期って……獣人にもあるのか?」
「ええ。もっとも、意識して我慢すれば平気なのだけれど……発情期は意図的に引き起こすこともできるし、そういう獣人の特徴を逆手に取ってくる相手も世の中にはいる。獣人はハニートラップに弱いから注意してちょうだい」
「……気をつけます」
本当に、気をつけなければならない。
そもそも俺が拉致された原因も、ハニートラップを受けて無力化されたからである。
「でも、不便ね。色気のない私でも興奮するなんて」
「いや……そんなことは、ないだろ」
ぼんやりとした思考の中、視線を逸らしながら俺は言う。
「アイナは、その、魅力的な女性だと思うぞ。色気がないなんて、全く思わないし……」
そう言いつつアイナの顔を見ると、彼女は目を丸くしていた。
表情には出ていないが明らかに動揺している。アイナはそのまま三十秒ほど、信じられないものを見るような目で俺の顔を見つめていた。……そんなに驚かれるような発言をしただろうか。
やがてアイナの瞳が震えながら下を向く。
「……貴方、いつもそういうことを言っているの?」
「い、いや、そんなことはないと思うが……」
こんな状況にでもならない限り、先程のような発言はしないだろう。
答えると、アイナは物凄く複雑な顔をしていた。
「それ、駄目よ」
「え?」
「駄目……私まで変になる」
アイナが僅かに俺から離れ、こちらに背を向ける。
一瞬だけ見えたその頬は紅潮していた。
それと……尻尾の先端が、物凄く強い力で丸められている。
まるで何か、抑えがたい衝動を必死に堪えているかのように。
「発情した虎の臭いがすると思ったら……貴女だったのね、アイナ」
その時、部屋の入り口から声がした。
「ミレイヤ……」
音もなく扉を開き、部屋に入ってきた彼女はじっと俺の顔を見据える。
「ふぅん……微かに"格"が上がっているわね。助けに来たついでに、眷属化もしたってところかしら。……となれば、今が一番、崩しやすそうね」
ミレイヤが舌なめずりをする。
彼女は唐突に、服を脱ぎ始めた。
「な、何をっ!?」
「寝ていないから、夜這いではないわよ」
確かに夜這いではないかもしれないが、だからと言って普通に襲われてはたまったものではない。
困惑する俺をからかうように、ミレイヤはゆっくりと歩み寄ってきた。
その蠱惑的な眼差しに射貫かれると、思考が停止してしまう。
「ミレイヤ、やめなさい。ケイルが困っているわ」
「あら、本当に?」
ミレイヤはくすりと笑みを浮かべ、俺の頭を胸元へ抱き寄せた。
「むぐ……っ!?」
「本当に王の卵は困っているかしら?」
豊満な胸に顔が埋まる。
呼吸が苦しくなり、もがくと全身から柔らかい感触がした。微かに甘い香りもする。……頭がクラクラとしてきた。
「ねえ、王の卵。こんな貧相な女より、私の方がいい抱き心地よ?」
ミレイヤの言葉は俺にとって刺激的すぎる。
しかしその声は耳から頭の中へ入り込み、何度も何度も反響した。理性が薄れていく。
「やめなさい。ケイルに色仕掛けは通用しない」
「色気のない貴女と一緒にしないでもらえるかしら?」
ミレイヤは、改めて俺の方を見た。
「王の卵……いいえ、ケイル=クレイニア。貴方は何か勘違いしているかもしれないけれど、これはハニートラップではないのよ?」
「……なに?」
「罠じゃなくて、貢ぎ物なのよ。臣下が王に尽くすのは当然のことでしょう?」
何を言っているんだ。
意味が分からず怪訝な顔をする俺に、ミレイヤは説明した。
「欲求が満たされることを、浅ましいと思わないでちょうだい。快楽も利益のひとつよ? 貴方は本能に負けるのではなく、理性で私を選んでもいいの。……これは、そういう交渉よ」
これは正統な交渉であると。
俺は、どちらを選んでもいいのだと……ミレイヤは告げる。
「ミレイヤ、それは詭弁よ」
「……さっきからうるさいわねぇ」
溜息混じりにミレイヤは言う。
「自分では王の卵を動かせないくせに、人に取られるのは気に入らないっていうの? ……どうせ貴女じゃあ、彼を満足させることなんてできないわ。その貧相な身体に魅了される男なんていないもの」
小馬鹿にするような声音でミレイヤは言った。
「アイナ、貴女にできることはもう終わったのよ。王の卵をこの領地に連れてきただけで十分。ここから先、貴女にできることはひとつもないわ。……分かったら、さっさと部屋から出ていってちょうだい」
ミレイヤの言葉に、アイナは暫く黙り込む。
アイナは、少しずつその瞳に苛立ちの色を灯し、
「……それを決めるのは、貴女じゃないわ」
そう言って、アイナも服を脱ぎ始めた。
「ケイル。私の価値は、貴方が決めて」
「ア、アイナ……」
嫌な予感がする。
ベッドに腰を下ろし後ずさる俺に、アイナは裸で迫った。
「選んで。私か、ミレイヤか」
究極の選択って、こういうことを言うのだろうか。
ぼんやりとした頭で、俺はそう思った。
※アイナの体型は、貧相ではなくスレンダーです。




