27「グラセル」
筋骨隆々の黒髪の獣人、グラセルと相対する。
獣人領の地下――角翼の会の基地に設けられた円形の闘技場は、走り回ることはできても逃げ延びることはできない広さだ。砂の地面は踏ん張らないと滑ってしまう。爪先で地面を突き、調子を確かめる俺を、観客の獣人たちは訝しむように見ていた。
「一応言っておくけれど、正体はバレないようにね」
背後からミレイヤが声を掛けてくる。
「角翼の会で、貴方が人間だと知っているのは私だけだから。……貴方が王になった時の求心力に影響するでしょう?」
「……そもそも、なんでお前は俺が人間だと知っているんだ。爪牙の会でも一部しか知らない筈だぞ」
「スパイがいるのよ」
あっさり言ってのけるミレイヤに、俺は顔を顰めた。
リディアさんの話によれば、この地で暮らす獣人たちが革命を計画したのは随分前とのことだ。それだけ長い時間があれば、派閥が生まれることもあるし、間者を用いた探り合いも起こるのだろう。
「ちなみに、ここにいる獣人は皆、貴方が負けると思ってる。……その予想を覆してくれることを願っているわ」
そう言ってミレイヤは闘技場を出た。
改めてグラセルの方を見ると、不敵な笑みを浮かべられる。
「お嬢は時折、我々の理解を超えた判断をする。……だから偶に、こうして我々がその判断の正当性を確かめるのだ」
グラセルが言う。
「ここで負けるようなら、革命でお前の出る幕もない。大人しく我々の言うことを聞いてもらおう」
戦いに勝利した際の報酬をグラセルは求めている。
だが、そもそも俺は革命に協力するなんて一言も言っていない。
「勝っても負けても、お前たちに協力する気はない」
戦意を隠す気は全くなかった。
全身から溢れ出す威圧が、グラセルに突き刺さる。
「……成る程。確かに"格"は高いようだな」
こちらを見下していたグラセルの瞳が、真剣なものとなった。
「しかし王の卵とは言え、お嬢を奴隷の如くこき使うなど許せんことだ」
「それに関しては誤解だ」
「ふん……もういい。お前は言い訳ばかりだな」
「本当に誤解なんだ……」
角翼の会に所属する獣人たちには、俺がミレイヤを奴隷扱いしているという嘘が広まっている。
ひょっとしなくても、俺がここの獣人たちに敵視されがちなのはこのせいだろう。
会話を終えて、戦いの準備をする。
武器の持ち込みは禁止されていた。後は互いに位置につき、合図が出れば試合開始となる。
開始位置についたグラセルは、そこで急に自身の厚い胸板を叩いた。
握り締められた大きな拳で左右の胸を交互に叩く。ドラミングだ。
「ゴオォァァアアァアアァァアアァア――ッッ!!」
グラセルが大きく吠える。すると観客の獣人たちが雄叫びを上げた。
場の空気が一気に盛り上がる。
「何のつもりだ」
「パフォーマンスだ」
グラセルは答える。
「武闘は獣人にとって、伝統であり祭事でもある。……そんなことも知らないのか。どんな田舎で育ったのかは知らんが、同じ獣人とは思えんな」
藪蛇だったかもしれない。
グラセルは俺の正体が人間であると知らない。これ以上、余計なことを勘ぐられる前に戦いを始めるべきだ。
闘技場の外にいるミレイヤへ視線を送る。
合図を待つ俺に、グラセルも呼吸を整えて構えた。
「――始めッ!!」
ミレイヤが薄らと笑みを浮かべながら叫ぶ。
戦いの火蓋が切られた直後――。
「おぉおおぉぉッッ!!」
グラセルが一歩で俺の懐まで潜り込み、猛攻を仕掛けてくる。
横合いから迫る豪腕は、一目見るだけで恐ろしい威力を発揮すると確信した。直視すると恐怖のあまり身が竦みそうになるが、滾る戦意で臆病な自分をねじ伏せ、冷静な思考を保つ。
身を屈めて豪腕をやり過ごす。
次いで、俺は素早くジャブを放った。
「ちっ!」
すぐに後退したグラセルが舌打ちする。
俺はグラセルを追い、力一杯拳を叩き付けた。
「――っ!?」
驚愕したのは俺の方だった。
獣人の膂力で力一杯、殴ったというのに、全く動じていない。
刹那、頭上から黒い塊が迫る。
それは体毛に覆われた、極太の腕だった。
間一髪で躱した直後、グラセルの腕は床を叩き割り、轟音が響いた。
地面が激しく揺れて危うく転倒しそうになる。俺たちの戦いを見ていた獣人たちも、突然の揺れに尻餅をついていた。
「『部分獣化』か……」
腕を巨大化したグラセルを見て、俺は呟く。
「よく避けたな。しかし、次はない」
グラセルがこちらに振り向きながら言った。
距離を取れば、グラセルの変化がよくわかる。『部分獣化』によって変異した腕は丸太の如く逞しく、更に俺の身長ほどの長さに伸びていた。
――あそこまで腕を肥大化させれば、身動きが取れない筈だ。
先程の攻防である程度、グラセルの実力は把握できた。
元々、グラセルは力こそ強いが、速さはそれほどでもない。そんなグラセルが更に腕を重たくしたのだ。今まで以上に速さを犠牲にしている。
力が強い敵に、力で挑む必要はない。
グラセルが力で叩き潰してくるなら、俺は速さで隙を突く戦法を選ぶべきだろう。
そう思った次の瞬間――グラセルは腕を元の大きさに戻した。
――『部分獣化』を解いた?
俺の速さで攻めるという考えを見透かしてのことだろうか。しかしそれでは先程と似たような攻防が繰り広げられるだけだ。
次はない、なんて強気に言っていたわりには消極的な作戦である。
グラセルがこちらへ接近した。
間合いは既に把握している。よく見れば回避することは可能だ。
しかし次の瞬間、グラセルはまだ俺との距離があるにも拘らず拳を振り上げた。
その距離では届かない筈だと、訝しむが――。
「なッ!?」
振り下ろされたグラセルの腕が巨大化する。
俺はその一撃を避けることができず、正面からくらった。
激しい衝撃が全身を襲う。あまりの威力に砂塵が巻き起こった。
吹き飛ばされながら両足に力を入れる。闘技場から出れば場外負けだ。辛うじて踏ん張ってみせる。
「察しの通り、俺の『部分獣化』は速度を殺してしまうという欠点がある。だからこうして、瞬間的に発動しているわけだ」
そう告げるグラセルの腕は、既に本来の大きさに戻っていた。
瞬間的な『部分獣化』……そんなことができるとは、知らなかった。
「……成る程」
しかし、獣化が使えるのはグラセルだけではない。
砂塵が晴れると同時に、グラセルは俺の姿を見て微かに驚愕した。
「勉強になった」
「……『部分獣化』で防いだか」
咄嗟の判断だが間に合って良かった。
先程の一撃、無防備な状態で受けていればすぐに敗北していただろう。だから俺は『部分獣化』で腕を強化して防いだのだ。
だが、防いだとは言え無傷ではない。
両腕には鈍い痛みが響いていた。二度目は受けきれないだろう。
「降参するなら、早めにしてもらいたい」
そう言ってグラセルは再び構える。
「見た目通り、力には自信があるのでな」
グラセルが接近してきた。
本来の間合いは把握しているが、『部分獣化』のタイミングが読めない以上、こちらは見てから反応するしかない。
――問題ない。
ふと、アイナのことを思い出す。
力強く、かつ速かった彼女と比べれば、グラセルは簡単に対処できる。
獣人の眷属になってから色んなことが変化した。
身体能力の大幅な向上に加え、獣化という特殊な能力。どちらも獣人を語るには外せない特徴だが、元が人間である俺にとってはそうした獣人特有の力よりも、人間の時にはできなかった動きが獣人になることでできるようになったという変化が魅力的だった。
逞しい膂力。鋭敏な五感。
そういう基礎的な能力が向上すれば、心にも余裕が生まれる。
そして心に余裕ができれば、技も冴える。
心技体のうち、体を中心に全ての能力が向上する。
それが獣人の眷属だ。
――ここだ。
グラセルが『部分獣化』で間合いを伸ばす。
一度目はその急激な変化に気を取られて対処できなかったが、次は問題ない。
速度を殺さないための瞬間的な獣化なら、その一瞬の隙を突けばいいだけだ。
肥大化した腕でグラセルは俺を殴ろうとする。
今、グラセルの重心は前方に傾いている。
その力の流れを、活かすように――。
「ぬッ!?」
グラセルが驚愕に声を漏らす。
拳を紙一重で避けた俺は、その勢いを殺すことなく背後へ受け流した。
更に――間髪を入れずにその足を払う。
「ぐおッ!?」
肥大化した両腕に対し、グラセルの足は元の大きさを保っていた。
下半身への負荷は確実に大きい。つまり崩すなら、土台からだ。
俯せに倒れたグラセルは慌てて起き上がろうとした。
だが、それよりも早く、俺は拳を突き出す。
バキリ! と大きな音がした。
「その力で、負かされるとは思わなかったか?」
突き出した拳は、グラセルの鼻先で床を砕いていた。
ゆっくりと腕を引き戻し、小さく息を吐く。
「勝者、ケイル!」
ミレイヤがどこか嬉しそうに笑みを浮かべながら言う。
グラセルは目を見開いたまま硬直していた。
ふと辺りを見回すと、観客の獣人たちも呆然としていた。




