第4話 紗幕越しの睨み合い
(ゼーナの大使が、なぜわざわざ……!?)
咄嗟に顔を伏せて火傷の痕を隠しながら、スィーラーンは心中で訝った。
彼女は、エステル・キラの変死の直後に屋敷を訪れたダンテを応接したことがある。ヴェールをつけた姿でのこと、素顔は見せていなくても、アダムから傷物の女奴隷の話を聞いているかもしれないから油断できない。
「……ごきげんよう、大使」
戸惑うような数秒の沈黙の後、バルトロが応じた。衣擦れの音が聞こえたのは、長衣を脱ぎ去ったようだ。
ゆったりとして体型を隠す長衣の下は、いつもの西方風の貴公子の姿だったはず。敵国の大使と対峙するのに、行商人の扮装では釣り合わないと判断したらしい。
「私は──たまたま、市井の見学をしていたところでした。皇帝の行列を見られるとは、思ってもいなかった」
バルトロの言葉遣いは丁寧でも、声は硬く鋭かった。皇帝の行動に、ゼーナの思惑がどれだけ関与しているかを探ろうとしているのだろう。
もちろん、ダンテのほうでは答える義務などないから、軽く笑って受け流すだけだった。
「新婚の奥方の案内で? 仲睦まじくていらっしゃるようで羨ましい限り」
バルトロと一緒にいる若い女、ですでに見当をつけられていたらしい。スィーラーンは、腹を括って顔を上げると優雅に一礼した。
皇帝の行列に付き従っていた華麗な装いの者、それも外国人が、わざわざ列を離れて見物人に話しかけている。その珍しく不思議な光景は、野次馬の注目を集めつつあった。
(傷を恥じていたんじゃないわ。シェフターリに気取られたくなかっただけ……!)
スィーラーンの頬の傷を認めた者たちからは、好奇や嫌悪や嘲りの囁きも聞こえてくるけれど──そのすべてを受け止めて、堂々と立つ。馬上から注がれる、ダンテの品定めの目も、傲然と見返して。
気遣う視線をちらりと妻に向けてから、バルトロは再びダンテを見上げた。
「大使殿は独身でしたか。帝国では浮名を流す相手もいないから物足りないことでしょう」
ほかの任地では容姿で貴婦人に取り入っていたのだろう、という皮肉は、手練れの外交官の表情を動かすには弱かったらしい。ダンテは蕩けるような笑みを浮かべて、わざとらしく溜息を吐いた。
「代わりに、寵姫様のご用命に忙殺されていますね。贅に慣れた御方の我が儘をすべて叶えるのは、なかなか難しいものです。エドレネではご満足いただきたいものですが」
愚痴を零し卑下する体で、ゼーナの大使は勝ち誇りつつ認めていた。ゼーナは、寵姫を通して皇帝を操ろうとしているのだ、と。
(やっぱり……!)
この度の行幸先でも、シェフターリはゼーナの国力を借りた最高の接待で皇帝を骨抜きにするつもりだろう。母后の目も届かないところで、傀儡の糸を付け替える計画だ。
それをわざわざ漏らすのは、皇帝の決断に異を唱えることはとても難しいから。母后でさえも、頭ごなしに命じれば反逆者扱いをされかねない。
(ゼーナが帝国に食い込むのを、指をくわえて見ていろ、ということね)
露骨な挑発に、バルトロの顔色が変わる。奥歯を噛み締めて堪える表情の裏では、祖国にどう報告すべきか、この場をどう切り上げるかを考えているのだろう。
一刻も早く屋敷に戻り、対応を考えるべきだと、スィーラーンにも分かっていたけれど──
「──そこの、女奴隷。こちらを向きなさい」
甘く、歌うような声が振ってきた。
ダンテとバルトロのやり取りの間に皇帝の輿は通り過ぎ、その後ろの寵姫の輿がスィーラーンたちの目の前にやって来ていたのだ。
(シェフターリ……!)
高所から下された命に従ったわけでは、断じてない。輿の中、金糸の縫い取りが煌めく紗の奥にいる女を睨むために、スィーラーンは顔を上げた。
この手の紗は、内側からは外を透かし見えるように織られているものだ。かつて奴隷として共に買われた娘、美しくも狡猾で、愛らしくも冷酷なシェフターリは、どんな表情で怒りに燃える緑の柘榴石を見ているのだろう。
(母后の新しい女商人の噂を聞いたのね。火傷の痕がある、と。それで、確かめに来たの!?)
ダンテは、シェフターリの命令でスィーラーンを探していたのかもしれない。その理由は、まさか謝りたい、なんていうことではないだろう。
紗を隔ててふたりの女が睨み合う間、輿の進みは止まり、後続の行列の流れを淀ませた。
野次馬たちの間から、不審のざわめきが起き始めたころ──紗が揺れて、輿の内に焚かれた香の甘い香りを帝都の通りに振り撒いた。
「ひどい顔で可哀想。これをあげるわ」
香と同じくらいに甘い、耳だけでなく舌をも蕩かせるような声が響いた。と思うと、ほんの一瞬だけ、白い繊手が現れて、引っ込んだ。
地上に太陽が輝いたかのように眩く光を放ったのは、腕輪や指輪に嵌められた宝石。それに、寵姫が放り投げた数枚の金貨だった。
「……は?」
金貨が地に落ちて澄んだ音を奏でるのとほぼ同時、スィーラーンの唇から喘ぎが漏れた。
這いつくばって施しを拾え、と言われたのだ。彼女の火傷の痕を見て、顔を確かめた上で、これだ。
ダンテ以上に悪意のある勝利の宣言で、手ひどい侮辱で、それでいて傍目には慈悲深い寵姫に見える妙手──後宮に入ってからの数年で、シェフターリは悪辣さに数段磨きをかけたようだ。
(お前がやったことなのに! お前たちが、エステルも……!)
冷静に分析してやり過ごすなど、無理だった。
頬に上った血は、あの日、押し付けられた焼けた炭の熱を思い出させる。そして、噛み締めた唇から滲む血の味は、エステルの亡骸を見た時のことを。
「この──」
言い返してやりたかった。後宮の争いを勝ち抜いて、いっそう輝きを増しているであろう美貌を、少しでも歪めさせてやりたかった。
でも、できなかった。母后の御前でさえ滑らかに動いた唇は、今は凍り付いて動かない。シェフターリへの怒りも憎しみも煮えたぎっているのに、おかしなことだった。
「スィーラーン、構うな」
と、バルトロの声がやけに耳元近くで囁いた。身体に感じる温もりに、抱き寄せられたのだと気付いたころには、彼は落ち着いた声をダンテに向けて発していた。
「大使殿。寵姫様にご伝言を。帝国の習いでは、きっと直言は罪になるでしょうから」
「伝言……?」
ことの成り行きを傍観する構えだったゼーナの大使が、興味深げに目を瞬かせるのにも構わず、バルトロははっきりと続けた。
「彼女は奴隷ではなく、私の妻です。それも、私を支えてくれる。その賢さは、この目と同じ大きさの宝石よりもはるかに価値がある」
「バルトロ……?」
最初に会った時の口上を、彼は覚えていてくれたのだ。
自分を売り込むための、大言壮語だと、聞き捨てても良かったのに。顔に傷のある女に対して公衆の面前で豪語するのは、とても勇気がいることだろうに。
「施しは不要。貧者への寄進になさるとよろしいでしょう」
なのに彼は、豪奢な紗を睨め上げるようにして、言い切った。直言はしない、などと言っておきながら、皇帝の寵姫に対して抗議してくれたのだ。
「エステル・キラの遺産、というのは本当だったようですね……?」
ダンテの碧い目が、どこか不穏に輝いた気がした。敵国の御曹司を揶揄うつもりが、以外にも歯ごたえのあるやり取りになった、とでもいうかのように。
ダンテの目配せによって、地に落ちた金貨は従者が回収していった。バルトロが述べた通り、しかるべき者のために使われるなら良いこと、なのだろう。
* * *
その後は、行列は滞りなく過ぎ去っていった。
スィーラーンは、バルトロと並んで言葉なく外国人居留区へと戻り──そして、開廊を擁する大理石の屋敷に入るや否や、おもむろに宣言した。
「近々、母后様からのお召しがあると思います。寵姫の増長と皇帝の評判について、きっとご心痛でしょうから」
「あ、ああ」
バルトロは、彼女にどう声をかけるか思い悩んでいたに違いない。シェフターリとの経緯は知らなくても、普通の女なら傷ついて当然の出来事だったから。──無用のことだと、早く教えてあげなければ。
「その時に進言することについて、案がふたつございます」
彼女は、エステル・キラの後継者。皇帝が手に入れ損ねた至宝。
その言葉は、常に真実でなくてはならない。頬の傷も、自らつけたもの。彼女には、それだけの勇気と度胸がある。そうでなければならない。
(支えてくれると、言ってもらえたもの。宝石よりも価値ある賢さだって……!)
帰り道、彼女は打ちひしがれていたわけでも、無駄に怒りに震えていたわけでもない。次の手を考えていたのだ。この状況から、いかに利益を得るべきか。何を誰に売れば良いのかを。
葡萄不足に皇帝の不在、母后と寵姫の対立。それに──イストリアがバルトロに下したであろう密命も。
すべて解決する妙案を出せたなら。バルトロがくれた言葉に報いることができるだろう。
「安全で、けれど利益が少ないもの。危険で、けれど利益が非常に大きいもの──どちらになさいます?」
彼の答えは半ば予想しながら、スィーラーンは優雅に首を傾げてみせた。




