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34香火の契

 その夜のことだ。

 サヨはコトリが寝入った頃を見計らって、そっと部屋を抜け出した。廊下に出ると、音を出さないように慎重に足を運び、隣の部屋の戸を三度叩く。ミズキはすぐに顔を出した。


「いらっしゃい」


 今夜訪れることは、夕餉の前に伝えてあった。ミズキは着替えていて、楽師団で揃いの衣は衣桁に干されている。赤の簪も既に取り去られていた。


「もっと早く来るかと思ってたよ」


 時間のことではない。日が暮れてすぐに眠ってしまうのは、王女上がりのコトリぐらいのものだ。他の楽師は、まだ起きているだろう。


「期待に沿えなくて悪かったわね」


 サヨは、ヨロズ屋と繋ぎをつける件だろうと予想する。ミズキは、まだサヨと詳細を詰めていなかったにも関わらず、あらゆる場面でコトリを守りに動いていた。早速仕事をさせているのに、報酬が曖昧なままだったのは不味かったかもしれない。


「いいさ。夜は長い。ゆっくりと話をさせてもらおう」


 男を隠さないミズキに見据えられると、サヨはどこか尻込みしてしまう。けれど、今夜こそミズキに伝えねばならない用件もあった。


 サヨは卓を挟んでミズキの向かい側に座る。夜になっても気温が下がらない季節になった。妙な汗が額に滲む。


「あなたの仕事ぶりには満足しているわ。まず、これを」


 サヨは、懐から出した紙を突き出した。ヨロズ屋への紹介状である。カケルにも、ミズキのことを文で伝えていると説明した。


「それと、もう一つ新たな依頼があるわ」


 ミズキが片眉を上げる。


「ソラ国に関わる情報が手に入れば、流してほしいの。中身は何でも構わないわ。内容の重要性に応じて、報酬は決めさせてもらうつもりです」

「出来高制か」


 ミズキの反応を見るに、手応えは悪くないように思えた。


 最近のサヨは、楽師団から身動きが取りづらく、以前のように王宮内のことも、国内外のことも、ほとんど噂を集めることができなくなっている。井の中の蛙のままでは、コトリを守ることができない。ミズキ達を使うことは、手っ取り早い方法なのである。


「それにしても、お嬢さんと姫さんは、ソラに何か拘りがあるのかね? 今日も、ソラ行きの話で騒いでたじゃないか」


 サヨは、どこまで正確に答えるべきか考えあぐねた。


「政治的な話ではありませんが、詮索はしないでください」

「それじゃあ、どんな情報を持ってきたらいいのか分からなくて困る。物価の話か? それとも女だから、流行りの衣の話とか?」

「その手のものは不要です」


 答えながら、サヨは次第に全てを隠し通す自信がなくなってしまった。そもそも、コトリの正体を見抜かれてしまった時点で、ミズキの前で悪足掻きするのは無駄だと気づいているのだ。


「そうですね。では、ソラ国王族の話を。特にカケル王子の話ですと助かります」

「そうか。姫さんは王子様が好き、か」


 ミズキは面白そうに笑った。サヨは肯定も否定もしない。この男にかかると、何を喋ってもサヨの弱みにされてしまうには変わりないのだから。


「姫様は王子との再会をお望みです。何としても楽師団としてソラへ行く必要があるのです」

「でも、それじゃ矛盾がありゃしないか? 遠征したら、どうしても護衛は難しくなる。何が起こるか分からない見知らぬ土地への長旅だぞ。誰が襲ってくるか分からないんだ。対策なんてしようもない」

「それは承知の上。これは姫様の変わらぬ決意なのです」


 昼間のコトリは、半ばソラ行きを諦めた様子だった。それでいて、部屋に帰れば王子のことばかりを口走る。ならば、主の本音に寄り添った準備が必要だ。シェンシャンについての具体的な助言はできないが、もし無事にソラへ行けた際の心づもりはしておきたい。


「そこまで懸想してるとはな。無謀なのに、よくやる」


 ミズキの言葉は図星が多い。サヨはキッと睨み返した。仮想敵国の王子を好きになるなど、馬鹿らしいことなど分かっている。けれど、そんな論理的な話で片付かないのが乙女心というものだ。


「あなたに何が分かるっていうんですか? 彼は、姫様の特別なのです」


 身分の低い母を持つコトリは、王女にも関わらず不遇だった。幼き日は味方もおらず、完全に孤立していた。しかし、新年の宴の際には、必ずカケルから労りの言葉を貰い、シェンシャンの腕や女らしい立ち振る舞いを褒め称えられる。カケルは、唯一コトリを認め、寄り添ってくれる存在だった。


 彼がいたからこそ、コトリは自死に走ったりもせず、淡々と現実を受け止めて生き延びてきたとも言える。もはや、命の恩人であり、永遠にコトリの心の支えなのだ。


 コトリ本人は、カケルの全てが尊いなどと宣うが、本当はこういった事情が彼女を駆り立てている。と、少なくともサヨは考えている。


「懸想などと軽い言葉をおっしゃらないでください。これは、恋を超えた崇高な愛なのです」


 実は、当初サヨがコトリの元へ遊び相手として侍ることになったのも、カケルの言葉がきっかけだった。王女にも関わらず、専属の侍女も持たない不思議を、遠回しに王へ指摘したのである。娘をまともに養う金も無いなどと国内外で囁かれてしまっては、たまったものではない。面目と見栄を大切にするクレナ王は、仕方なくそれに応じたのだった。


 サヨがコトリという主と巡り会えたのも、カケルのお陰。主の恋を応援しようという気持ちが芽生えるのも自然なことだ。


 そこまでの話を聞き終えたミズキは、卓に片肘をついて、鼻を指でかっぽじっていた。今ばかりは、いくら美しくとも、さすがに女には見えない。


「正直、姫さんって重いな。王子も可哀想に。俺なら、もっと自立してる女が良い」


 ミズキの視線が強くなる。サヨは、慌てて顔を逸らした。まさか、自分のこととは思えないが、完全に否定することもできない。先日、押し倒された記憶は、あまりにも生々しく残っていた。


「あなたの好みに興味はありません」


 サヨは何となく身の危険を感じて、立ち去ろうとした。が、卓の下から伸びてきたミズキの手が、サヨの下衣を掴んでいる。こんな下衆な事をされたのは、初めてだった。


「いいじゃないか。ここは女同士、そういう話もしてみようや」

「離してください」

「で、お嬢さんはどんな男が好きなんだ?」


 ミズキの手はぴくりとも動かない。サヨは溜息をついて、少しだけ付き合うことにした。


「私には婚約者がおります。そのような事を語る意味がありません」

「そうか。ああいう、厳しい体に組伏せられるのも悪くはないと」


 サヨは頬が熱くなった。この種の手合いには慣れていない。そもそも、貴族の生まれだ。そして、女ばかりの職場。こんな明け透けな物言いをする者は、これまで側にはいなかった。


「私は、そのようなことに現を抜かす女ではありませんから! それよりも、素晴らしい主と出会い、その縁を大切にすることこそ、尊く感じているのです」


 次の瞬間、ミズキの瞳が勝ち誇ったかのように煌めいた。サヨには、その理由が分からない。


「そうだよな。女同士の縁ってのは大切だ。だから、俺とも仲良くしてもらおう」


 ミズキは、サヨを捕まえていない方の手を使い、卓の引き出しから小箱を出してきた。


「これを使いたい。今回の報酬は、これで受け取ったことにしよう」


 サヨが小箱を開けると、中には几帳面に並んだ丸い煉香があった。これは、しばらく前に、楽師団の稽古で作ったものだ。香の調合が初めてのミズキは、サヨに手伝ってもらいながら、何とか形にしたものである。


「もしかして、香火の契ですか?」


 ミズキは重々しく頷いた。

 香火の契とは、近頃巷で流行している簡単な儀式だ。仲の良い女達が、その近しい間柄を確認し合い、その絆を周囲に知らせるためのもの。


 方法は簡単だ。共に香を聞き、その同じ香りを互いの衣に焚きしめる。元々、妓女達が姉妹の契として行っていたものが広まったらしい。


 サヨは、もっと酷い報酬を要求されるのではないかと身構えていただけに、懐も傷まぬ提案に安堵してしまった。


「良いですよ」


 そこからのミズキは早かった。香炉が用意され、銀葉の上に煉香の粒が乗る。近くの蝋燭からとった火で炭をおこすと、ふわりと香りが漂い始めた。


 確か、主に使った香木は白檀だったか。爽やかながらも深みのある優美な香り。たちまち癒やされて体の力が抜けていく。


「お嬢さん、疲れてるんじゃないか?」


 知らぬ間に、サヨは他人の部屋なのを忘れて目を閉じていたのだ。


「誰かさんのせいでしょうね」

「そうやって気が強いところも悪くない」

「別に好かれたいとは思っておりません。良い取引さえできれば、それでよろしいのです」

「固いこと言うなよ。せっかく香も焚いた。ソラ行きの時は、どうせ新人同士、宿も同室になるんだ。もっと仲良くやろう」


 途端に、サヨが顔を強張らせる。

 同室。それすなわち、この男と夜を過ごさねばならないということだ。


「心配しなくとも、俺達が鳴紡殿を留守にする間は、うちの手の者が姫さんの警護にあたる」

「そういう意味ではありません!」


 サヨは、ミズキの手がようやく離れていたのに気づいて、今度こそはと立ち上がった。だが案の定、ミズキの声が追いかけてくる。


「待って。まだ衣に香りが移っていないよ。つまり、まだ報酬は全て受け取っていない」


 サヨは、ようやく自分が見落としていたものに気づいた。もうミズキの方を振り向きはしない。

 

「報酬は、また別のものにしましょう」


 足が震える。このまま、振り切るつもりだった。


「報酬は、俺が決める」


 その声は、サヨのすぐ耳元からした。いつの間にか側に来て、腰を抱かれていたのだ。男の息が、女をくすぐる。


「女官から、伏せ籠も借りてあるんだ。ほら、早く全部脱いで。俺の香りで染めてやる」



伏せ籠は、香炉の上に伏せて、その上に衣を被せるための籠のことです。

ちなみに、この後は十八禁展開にはなりませんのでご安心を。

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