179さよなら、コトリ
その夜は、月が出ていた。薄雲が切れて、その合間から顔を出した柔らかな光が、コトリの住まう香山の宮にも差し込んでいる。
一番格が高い宮は、ミズキとサヨに明け渡していた。コトリはカケルに次ぐ三番手の建物に部屋がある。それでも、一人でいると寂しくなるには十分な広さと空虚さがあった。
先日までの移動し通しの生活から一変。琴姫としてシェンシャンを奏でるだけの日々になり、外へ行くことも少ない。楽師として辺りを歩いて奉奏をして回りたいのだが、この香山でも未だ、賊が出るらしいのだ。取締りのためにマツリ達までもが忙しくしていると言われてしまえば、用もなく出歩いて周りを心配させることもできない。
遅れてやってきたアオイ達、楽士団の者が、時折顔を見せにやって来ることもある。だが、大抵は退屈とも言える時間を過ごしているのだった。
つまり、カケルにも会えていない。
名の交換をしていることは、おそらく香山だけでなく、紫中に広まっていることだろう。けれど、正式な儀式を行っていないので、夫婦面をして、頻繁にカケルの工房へ押しかけることもできないのだ。
かろうじて文は取り交わしているのだが、余程忙しいのか、内容は少な目である。それでもコトリへの気遣いと想いに溢れているので、丁寧に折り畳んで美しい布に挟み、それをお守りのように抱いて寝ることもあった。
だが、それも何晩も続けば、やがて虚しくなり、次はいつ会えるのだろうと思いを馳せては苦しくなるのである。
仕方なくコトリは、今夜も手持ち無沙汰を紛らわせるように、衣装箱の中身をかき回している。小さな灯りを頼りに、以前菖蒲殿の者があつらえた衣を引っ張り出しては床の上に並べ、すぐに畳み直しては別の物を出すということを繰り返している。
次に会える時には何を身に着けようか。どんな衣をカケルは好むだろうか。
そういったことを考える時間は幸せだが、ふと魔が差したように、隣にいられない時間が一層辛くなり、独りに耐えられないこともある。
「カケル様」
コトリは、無意識に胸元の勾玉へ手を伸ばすと、その滑らかで冷ややかな表面を指で優しく撫でた。これに触れていると、ゆるゆると心の凝りがほどけて行く気がするのだ。まるで、彼に触れられているような心地。
その時、ふと視界が暗くなった。見ると、開け放たれた部屋の扉の向こう、廊下に誰かが、月明かりを遮るようにして立っている。
コトリの手の中の勾玉が、痺れたように震えた気がした。
「カケル様?」
「よく分かったね」
器用にも、ほとんど音を立てずに入ってきたのは、やはりその人であった。コトリは、暗闇でも分かるぐらいに頬を上気させて、頭を下げる。
「ようこそおいでくださいました」
「こんな遅くにごめんね」
「いえ、とんでもないです」
コトリは、会いたかった、首を長くして待っていたと言いたかったが、もはや胸がいっぱいで思うように言葉が出てこない。
「顔を見せて」
カケルに言われて頭を上げる。すると、あっという間に抱きしめられてしまって、視界が全てカケルで埋め尽くされてしまった。心の準備がないままのことで、コトリは鯉のように口をぱくぱくさせる。
「まだ、寝ていなかったんだね」
「あ、はい」
そうは言っても、季節は夏。既に薄手の夜着一枚で、異性の前に出るにはあまりに心許ない格好であるのを、今更ながら自覚するのである。
数歩離れたところには、寝台があった。後半刻遅ければ、生まれたままの姿で横たわるコトリがいただろう。
「あの、いかがされましたか?」
じわじわと忍び寄る恥ずかしさを打消そうと、とりあえずコトリは用向きを尋ねた。すると。
「夜這いしに」
「へ?」
ひゅっと喉が鳴って、変な声が出た。
別におかしなことではない。元々女は、こうして夜更けに男を迎えて、三夜連続で訪いを受入れた場合、婚姻と見なされる。位が高い者になればなるほど、それは家と家を繋ぐ儀式的な意味合いが強くなるが、本来は心と体の結びつき、それ自体が夫婦の証となるのをコトリも知っている。
けれど、その一夜目が、まさか今日だとは思っていなかったのだ。
「帝国との戦に勝った後だと思ってました」
思わずそう言うと、カケルはきまりが悪そうに肩をすくめた。
「うん、そのつもりだったんだ。でも、知っての通り、戦ってそれ自体が化け物みたいなものだよね。いつ食われてしまう分からない。だから、今日が最後の日になっても悔いの残らないようにしたいって思ったら、どうしても会いたくなっちゃった」
へらっと笑うカケル。コトリと二人きりの時は、いつもこうだ。元王で偉大な神具師であるというのに、威厳も何もかも捨てて、自然体で在ってくれる。そんな彼が可愛らしくて仕方がない。コトリは、自分にだけに見せてくれる姿が愛おしくてたまらなかった。何もかも、赦してしまえると思えるぐらいに。
「私も、お会いしたかったのです」
その控えめな告白は、カケルに何やら刺激を与えたらしい。抱擁は、さらに力強いものとなった。
「ありがとう。本当にありがとう。こんなに好きでいさせてくれて、どうもありがとう。たぶん俺は、この世で一番幸せな男だと思う」
カケルは、そのままコトリを抱き上げると、寝台の上に連れて行った。
琴姫の寝床は、広い。二人はもつれるようにして、横になる。
コトリにとっては、慣れた場所のはずなのに、カケルがいると見知らぬ所にいるようだった。
そう。知らない世界が、開けていく。
カケルは言う。
「俺は、そんな良い奴じゃない。立派でもない。嫉妬もしたし、苛立ちもしたし、無茶もしたし、みっともない事ばかりだ」
コトリを前にし、身に引き寄せてみると、途端に不安が込み上げてくるのだ。
本当は軽蔑されているのではないか、と。何しろ、正体を隠していた期間は長過ぎた。すっかり信頼を失ってしまっていたとしてもおかしくない。しかも、王ですらなくなってしまったのだ。
コトリは言う。
「それは、私もです。王家の姫なんて、政略結婚のために生を受けたようなものにも関わらず、それを拒みました。しかも、愛する人にも、すぐに意見を申してしまう、慎みのない娘です」
カケルの顔は、目と鼻の先にあった。知的な佇まい。そして、吸い込まれそうな程美しく光る眼。これさえも全く知らずに、ずっと恋慕っていた長い年月。
コトリは、ふと、自分はいったい何を見てこの人に惹かれてしまったのだろうか、と思う。
ソウがカケルだと知った時は、それこそ目から鱗が落ちる思いだった。同時に、今まで自分が、いかに上っ面でしか人を見ることができていなかったのかを知った。
カケルはいろんな顔を持っていて、いろんな人物と繋がっていて、神具師としての腕も卓越している。なのに、なぜかコトリだけに執着し、何よりもコトリだけを欲してくれる不思議な人。
かけがえのない人。
「こちらこそ、私なんかで良いのでしょうか」
顔も見えず、文も交わせず、日々のことも何も分からないままの頃よりも、コトリはずっとずっとカケルを好きになっていた。その気持ちは今も膨らみ続けていて、とどまるところを知らない。
やはり、カケルが自分の中の一番であり、絶対に離してはならない大切なものだと思うのだ。
「私も自分には自信がありませんが、それでも、どうしても、カケル様のものになりたいのです」
カケルの目が、カッと開かける。ぎりぎり堰き止めていた想いの奔流が解放される瞬間だった。
コトリも同じ。
駆け抜ける二人の気持ちが絡み合って、弾けて、合わさって、混じり合って、高まっていく。
たぶんそれは、神がかった何か。
コトリにとって、片思いは甘くて辛くてしょっぱくて。それでいて蜜の味だった。だが、両思いは煮詰められた、さらに濃厚な蜜の味。
その蜜を我が身に受けるためには、全てを受け入れなければならない。
無条件に愛し続けること。何かあっても暖かく迎え入れる、家のような「戻る」場所になり続けること。自分以外の者の人生を生きる覚悟を持つこと。
コトリは、好き、の向こう側にあるものを眺めつつ、知らない世界に翻弄されていった。カケルと二人で煮詰める蜜は、どこまでも甘さが増していく。
空が白み始めた。
協力者達のお陰で、まだ誰の気配もない。
カケルは、自身の衣を整えると、名残惜しそうにコトリの紅い髪を撫で、一房に口づけを落とした。
「俺は、やっぱり狡いんだろな」
コトリは、穏やかな顔ですやすやと眠っている。
「ごめんね」
ついにカケルは、立ち上がる。
「ずっと、ずっと、ありがとう」
手から、紅い髪が滑り落ちた。
「さよなら、コトリ」





